智慧の言葉
 
Liberated by Catching a Glance of an Enlightened Master-Part1 Jan 12, 1990 - Formosa (In Chinese)    Part 1
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最初の質問です 修行したり瞑想すると 次第に 私達の頭脳は 働くこと つまり この世の仕事を することに  もはや熱心でなくなり もはや明晰な頭脳を 持たないと 主張する者がいます これは本当ですか 本当ですか (違います) 霊修行のせいで どうして私達の頭脳が もはや明晰では なくなるのでしょう 仏陀は愚かだと いうことですか 修行するほど 頭脳は 更に鋭敏になります 私と修行する者達は 誰も剃髪しませんし ヒマラヤに 隠遁しません 彼らは医者や技術者や 教授らで 普通に働いています

熱中しないというのは 働かないことではなく 世界に縛られない この世界に執着しない ということです 働かねばならないから 働くのです 名声や 富の為ではありません 私達は働きます 私達が働かないなら では誰が働くのですか 私の全生徒が隠遁した 修行者ではありません 頭を剃りたい者は そうします この世界と 断絶したい者は そう出来ます 家庭を持ちたければ 家庭に留まります 「仏陀は私達の中に います」頭の中では なく 分かりますか この世に生きていると 全ての事は出来ません

どうすれば 彼岸の世界の心配が 出来るのですか 現実的ではありません 明確にして下さい その通りです 私達はこの世界に 対処出来ません ですから 修行して精神を 明晰にする必要が あります そうすれば 全てに対処できます 対処できないのは 私達が無知だからです 智慧がないのです 智慧を開けば  残りの95%が 開かれて この世界に 対処できるでしょう 出来ない筈ないですね 霊修行したら この世界を放棄するのではありません そうではありません 世界を放棄するなら 私はこのように働いて 敢えて大変な苦労は しません

私は一日中遊んでいて あなたに食べさせて もらってはいません あなたの供養を 受け取りません 私は働いています 独立して働いています 「ツアー」が出来る お金を稼ぐために 働かねばなりません 弟子達に招かれた時は 行く為に彼らのお金を 受け取りません 食べ物を手に入れ 航空券を買うために 働かねばなりません 最低限でも 何か象徴的な事をし 生活の面倒が見られる 様にせねばなりません 毎日座って目を閉じて 瞑想するだけでは ありません なんと 皆さん以上に 働いています

本や経典を読み 調べねばなりません 人々に話ができ 理解して貰えるように お金を稼ぐためにも 働かねばなりません 少なくとも  この体を養えるように 隠遁した弟子達に 教えねばなりませんし 在家の弟子達も 教えねばなりません 皆さんより ずっと働いています 修行したら 座って 食べるだけだと 思わないで下さい とても間違った 考えです 修行すればするほど もっと働き もっと熱心に仕事を するようになります 他の人々のために 働きます 名声や利益 金銭欲のためではなく 金持ちになるためでは ありません

働き方には二通り あります 献身的で無私な働き方 いいですか 一つは世界のやり方で   狭い心で働く 仕事があります ただ子供達や家族を 養うためにだけ お金を稼ぎたいのです 瞑想中に 様々な音の振動を 聞きました 全空間に 溢れているようでした 観音法門のような 音流ですか そうです 尊敬するマスター 仏教徒として 私達は 三戒 五戒 菩薩の誓いを 受け入れています 今日 縁あって あなたに会いしました 印心が受けられますか ええ むしろ良いです 戒律を受け入れている のは あなたの学習に むしろもっと良い事で 問題なく もう一度   受ける必要はないです

尊敬するマスター 観音法門は神のもとに 帰る最良の道だと あなたは通常 教えています 「神」とか「天国」と 聞くと キリスト教徒である ように感じます マスターどうぞ もっと分かるように 説明して下さいますか 私達の理解では 神 涅槃  仏性  完全開悟者 真の本性は一つです そうですか はい ええ そうです ですから神のもとでは なく涅槃(最高の 天国)に帰って下さい 神という言葉が 聞き慣れないなら 涅槃(最高の天国)に 帰って下さい 何の問題もありません あなたが帰れないこと だけを心配します

イエス キリストが ヒマラヤで修行したと どうやって知りますか 文書があるのです 文書が とても古い文書が 発見され 彼が世の中に出て 真理を伝える以前の 彼の霊修行に 言及しているのです この文書の発見は アレクサンドリアで とても古いものです ですから 皆が知るために 公開されました それ以来 キリストが ヒマラヤで霊修行を 行ったことが 知られているのです カトリック教徒は 印心を受けられますか ええ もちろんです 戒律をしっかり守り 菜食をして下さい 宗教を変える必要は ありません 仏陀の遺品はどこに 納められていますか 供物を捧げに 行けますか

仏陀の遺品はここです 毎日供養をすべきです 尊敬するマスター 三年間菜食を 続けています 家で仏陀の名を唱える 法門を 修行しています でも何か気にいらない ことが起きると いつでも 優柔不断になり 悩みがちです こういった感情から どうしたら自由に なれるか教えて下さい よろしくお願いします まだ全てを理解せず 十分な智慧がないので 私達は 優柔不断なのです ですから 私達は 解決できないことが まだ沢山あります 完全に智慧を 開いた時のみ 手のひらを見るように 全てが明白となり 優柔不断になることは もはやありません 三年間の修行では 十分ではありません 多分まだ足りないです もっと修行して下さい 優柔不断で なくなるまで 修行して下さい

観音法門を修行すれば もう少し早いでしょう あなたに従いたい人が いますが  彼らの仕事が 飛行機や武器を 作るような 軍事や国家防衛に 関係しています これは非殺生の戒律に 触れますか 彼らも学べますが 武器を作ることが 防衛のためであり 他の人々を殺したい という殺人欲求のため ではないと分かって いなければなりません 既に申し上げたように 例えば 私達は国や 弱い人々を守ります それは戦争を 挑発することではなく 血に飢えてもいません 分かりますね 尊敬し崇拝する尼僧 だれもが仏陀になると この世界の人口は 増えますか 現実的ではないですね

どうやって そんなに多くの人が 仏陀になりますか 誰も修行しなくて どう仏陀になりますか ごく少数が修行します 誰もが修行すれば この世界は仏陀の国と なる それだけです 私達は全く同じように 生活します 皆仏陀であり人間では ないことを除いては 強欲 怒り 熱中 盗み 殺し合いは 一切ありません 仏陀が 仏陀と出会い 彼らは尊敬を込めて 挨拶を交わします もっと良いですね 法華経の 授記品の章にある 死を前にした 仏陀の弟子に対する 願いは 彼が至福の境界に 戻ることで そこには 女性はいないのです

「女性がいない」とは どういう意味ですか 女性がいない場所に 行くことを 恐れているのですか 「女性がいない」とは こういう意味です 私達は男女間の愛を 持たず 普通の人間の持つ 性的衝動を 持たないのです 全ての衆生は平等で とても美しく とても気高く とても賢く高潔です 世間の人は皆 普通の 人間の性的衝動は 最も高潔ではないと 知っています しかし この世界は 苦しみの境界と呼ばれ 生と死がなくては ならず 男と女が いなくてはなりません 性的衝動は 人類を 存続させるために 神が与えています

仏陀の国は 人類を存続させるため この方法を使う必要が ありません ですから 女性と男性の形は 全く必要なく 子供を持つように 私達をつき動かす 性的衝動は 全く必要ありません 天上の人々は 子供を設けたいなら 子供達は蓮から あるいは想いから生れ 彼らは出産する 必要がありません このように 仏陀はさらに多くの 子供達を作らなくて よいのです 死すべき人間が 無数にいるからです 私達は仏陀になると 上に行きます 大変込み合うでしょう 子供を持つ必要はなく ここ下では出産します 出生後仏陀になるため 上に登ります 

仏陀に 育てて貰いましょう 出産はもはや 必要ありません ですから男と女は 必要ないのです こういう意味です 「男も女もいない」 とは 仏性の現れを 意味します もはや死すべき「衣」 即ち 肉体や衣服で 包まれる必要は ありません ですから 全ての人の 仏性は同一で 女性の仏性も 男性の仏性も 全く同一です どうして「男と女」が 上にいましょうか 仏性があるのみです 仏性があるのみです 「女がいない」理由は これです いいですね でも心配いりません 女性がいた方が よいのなら 境界は 少し下になります

ええ 観音法門について 教えて下さいますか いかに修行しますか ええ はい これは 印心の際に 私が説明致します 今は時間が不十分です 私が話したくても 全てを話すのに 数時間かかりますから 誤ることを避け明確に 示さねばなりません そうでなければ 数分で どうして十分 説明できるでしょう あなたが家に帰り 間違って修行し何かに 憑かれたりしたら 私を責めるでしょう 私は少し観音法門の 意味を言及します 仏陀の音を使用する ことを意味します 仏陀が話した言葉を 更に私達は学ぶことが できるのです

毎日仏陀と共に 勉強できます 仏陀は仏陀の言語を 用いて私達を教えます 私達が世俗の言葉を 使用するように この世界で話す言葉で 私達は子供達 私達の 生徒達を教えますね 仏陀は仏陀の音を 使用して菩薩を 未来の仏陀を 教えます 彼は異なる言葉を 音を使用します これらの音は私達の 世界の音楽に似ていて ずっと軽く 流れるようなものです 私達が聞けば聞くほど ますます私達の智慧が 開きます 更に人間らしくなり 慈悲深く思いやり深く よりなります これが観音法門の 目的です 私達は音の流れと 仏陀の音と融合します

ちょうど私達が大学に 到達し私達が教授の 言葉が聞こえるように なるようなことです それで「観音」の意は マスターが仏陀の 大学にあなたを連れ 私達は毎日 仏陀の教えの言葉を 聞けるように なることです 分かりますか 神と仏陀の違いは 何でしょうか 私達が考える神が 生物の出生も死も ないなら神は仏陀と 異なります 仏陀は 生まれ死ぬ 存在ですから しかし私達が神は 永遠だと考えるなら 仏性は宇宙のものだと 考えるなら 仏陀と神は互いに 違いがありません 仏陀は神から来て 神に戻るのです 分かりますか

しかし私達が古代の 仏陀が神だと考える なら誰がすべての仏を 上昇させますか古代の 仏陀と呼ぶ人ですね 古代の仏陀を 表すなら その意味は神を 表すことです 彼らは同じですから 解脱とは何ですか いかにして解脱したか どうかを知ることが できますか 死の瞬間あなたは 解脱を知るでしょう 私達が自由であり 逃げられることを 理解すべきです 毎日私達は 貪欲 怒り 心酔に 縛られています 私達は拘束されていて 恨みと復讐を私達の 欲望に支配されている ことによってです 私達はとてもきつく 自由も自律性も ない状態に縛られ 不愉快に感じています

私達が開悟した時 私達はまるで 山のように感じ 何か自らの肩から 重荷が落ちたように または以前からそこに あった重い石が 降り転がっていった 感じがするでしょう 毎日徐々にそれは 降りて離れて行きます とても軽く感じます 私達の貪欲 怒り 心酔は減り 欲望も軽減します ちょうど先程の紳士が 報告されたように これがいわゆる 「解脱」です 日々私達は少しずつ 解脱します 私達は 解脱できるのです 私達は自らの執着から 自由になれます 私達は他の何をも 自由にさせえます 私達は自身の 無知な習慣からも 解脱できます

毎日 私達は更に 明確に見ることにより 私達は更に理解し より自律的に感じます それが「解脱」です 私達が死んだ時 私達は完全に身体から 自由になり 私達が常に解脱する 境界へと戻ります 私達はもはや 貪欲 怒り 心酔等 私達を苦しめる事から 縛られなくなります いわゆる「解脱」です 「永遠の解脱」 この世界を去る時 私達は菩薩の地位を 離れることになります その意味は 私達は 非常に悟った智慧と 共に 高い境界へ去ることで 私達が上昇する 境界とは私達の智慧と 高い境界の心に 互換性があります

それがいわゆる 「永遠の解脱」です 観音法門によって 私達は毎日 修行します 私達は少しずつ 少しずつ解脱します どうか因果の法と 輪廻転生の理論を 証明下さい 証明は不必要です バラの苗を植えれば バラの花を咲かせます 何を証明しますか そうでしょう 輪廻転生とは そのバラが死に 中の種が地面に 落ちて再びバラになる それだけです 私達も同じです 死後 後に知識の収集 私達が蓄積してきた 先入観や保存してきた そのものが他の人と なってその人が戻って 来る それだけです

それらの知識が 他の一式の衣服と なって着用され 彼らが引き続き この世に戻り生き 私達の望みを満足させ 欲望や偏見を満たす それだけのことです それがいわゆる 「輪廻転生」です 戻って来てその私達の 欲望が満たされずに 終わるならあなたは 満足できません 私達は再び戻り その事を続けます 生きて続けます それがいわゆる 「輪廻転生」です あなたの修行の法門は 何ですか 理解できるように 説明頂けますか 既にお話しました 観音法門です 私達は日々の修行を 通して 仏陀の教えを 聞くことができます

仏陀の教えの言葉は とても優しく 調和的です 世俗の音楽のように とても旋律的ですが 世俗の音楽より 十億倍以上の 強烈的な効果が 得られます 私達は修行して 戒律を守ります この世に 縛られないように 戒律を守ります そして 仏陀の教えに 耳を傾けながら 仏陀になるまで 私達の智慧は 日々ますます 現れてきます 例えば医者や教授の 言うことを聞くように 私達は毎日知識を 広めることができます そして 医者になります 「キエンタン」の意味は 「キエンタン」とは 開悟のことです 印心の時 あなたは 「仏性に目覚め」ます つまり本当の自分に 目覚めるということ あなたは少し開悟して そして 毎日更に 悟りを開き続けます つまりあなたは 毎日益々悟りを開いて そして 仏陀になる ことを意味します

聖書にこのように 記載されています 「従えば下へ降ります 逆らうと上がります」 その通りです 正しいですよ 「従えば 下へ降ります」とは どういう意味ですか この現世と 調和しているなら 私達は人々の する通りに従います 盗むなら 私達も盗む 酒を飲むなら 私達も  酒を飲む 殺すなら 私達もそのようにする 肉を食べるなら 私達は肉を食べる それゆえ 私たちは この世に従います

従えば従うほど より低く降りて行き 「逆らうなら 上へ行く」というのは 時流に逆らうと 私たちが 上がるという意味です ですから仏陀 天国は この世に 対立しています 仏陀と天界は上で この世は下です 従えば従うほど より低く 降りて行くでしょう

逆らえば逆らうほど より高く上がります そのようなことです ありがとうございます 妊娠している場合 印心を受けられますか はい受けられます ただし 印心の時 疲れや不快を感じず より長く座ることが できるように 快適な椅子に 座るように 注意すべきです 聖書では 人間は 神から来て 神に よって創造されたと 記載されています 科学は人間が 猿のような動物から 進化してきたと それで 仏陀はいかに それを証明しますか 両方とも正しいです 仏陀も神から来ました なぜなら彼は人間に 生まれたのです 彼は霊修行をしてから 仏陀となったのです 全ての衆生は 神から来ました 神とは何ですか 神とは この世界のすべてを 創造して養う 宇宙最高の パワーです 私達もその創造物の 一部です  私達もその創造力を 持っています 従って 子供を生むことが できます 分りますか 

私達は多くの道具を 発明できます それも創造力の 小さな一部です 私達の創造力を 最高のレベルまで 広げると 神と一つになります ですから仏陀になると 天国と地獄を 創造できると 言うのです 覚えていますか 先ほど阿弥陀について 言いましたが 彼は弟子のために 浄土を作りました 彼は神のパワーより 優れていますか まったく神のようです そのようです 神は正にそのようです 「神」というのは望む もの全てを創造できる ことを意味します 私たちも神のように 阿弥陀仏のように なれます 私達自分のために そしてここに住む ことを望む子供 家族 愛するもののために 美しい王国を創造して あげ 彼ら全てを 上へ連れて行きます それが「神になる」こと ほかに何かありますか

科学者は 人類が 動物から生じたことを 証明しました 人類は類人猿から? これも正しいです どう正しいですか 時々私達は類人猿から 進化した事もあります それは前世が動物で 今生で人間になる 人のようです それだけです 猿は最も聡明な動物で 人間と最も 類似しています

彼らの顔 鼻 手は 全く同じです それで科学は人間が 猿から進化したと 主張するとき それも誤っていません 研究データに基づき 私達は猿が人間と 非常に類似するのを 見ます それで猿から 人間に進化することは 非常に速いです しかし科学が 知らないのは 時に 犬も人間に進化する ことがあるのです 水牛 豚も 人間に進化します そういうわけで 時々 豚ととても類似して いるように見える 誰かに会います 

ええ または彼らの行動 彼らの特徴も犬と とても類似しています あるいは「なぜ 彼らはトラと類似して ますか」多くの時    昆虫について話します そのため 私達 オゥラック(ベトナム) 人は新聞を読むとき 彼らは昆虫を用いて 他人を中傷します 「人間になった昆虫」 と言います これらの人の行為は 昆虫と類似して いるからです たぶんそんな感じです オゥラック(ベトナム) 人は非常に聡明で 科学より更に聡明です 彼らは昆虫が人間に 進化できることを 知っていますね 誰でもオゥラック (ベトナム)人は聡明 ではないと言えません

私達は観音法門で 耳に快い  波のような音が 聞こえるとき 良いですか悪いですか いいです 良いです 私達は聞けば聞くほど より浄化されます 聞けば聞くほど より賢くなります 薬用アルコールは リウマチを治療する ことに用いられるが 毎晩寝る前に大さじで 飲んでもいいですか 答えはこのようです 「はい いいです」 だめではありません でも 知らなければ ならないのは アルコール摂取量が あなたの脳を 麻痺させることです それは私達に有害です 仏陀が禁止すると いう訳ではないです

あなたは賢く なりたければ 自分の 脳を麻痺させる何も 欲すべきではなく 私達の知能は麻痺して 暗くなるでしょう ですから アルコールを避けます 必要なら 飲むことができます でもそのように飲んで あなた自身に いくらか害があります そして飲んで  あなたのリウマチに 良いけれど身体に 有害でないものを 探すべきです そのほうが良いです 分かりますか それは私が二、三滴の アルコールに厳し 過ぎるのではないです しかし多くの アルコールも・・・ 少し飲んでも あなたの脳を麻痺させ あなたの知能を 悪化させます ですから 生まれた時 既に愚かな人が 多く見られます 知っていますか

彼らは前世で沢山の アルコールを飲んで  自分の脳を麻痺させ 今世でさえ 回復することが できません そういうわけで アルコールを飲むのは 私達の脳が 多くの生涯で麻痺する 原因になります  それで この事は 避けねばなりません

法華経に こんな言葉があります 「たとえ その罪が 山より高くても 妙法の数行にすると 重要ではありません」 どうか教えて下さい そのように書かれて いるなら 罪だけで 彼らは法華経を 唱えれば(もうない) 罪はもうないのですか 分かりました そうではありません 妙法とは何ですか 素晴らしくて 神秘的なのが 「妙法」です そうでなければ この世界の言語で 皆読めてしまいます 何が素晴らしいかを 「妙」とは 理解したり達するのが 難しいです  だから「妙」 「妙法」なのです

これは 仏陀になった人だけが 正しく話せるのです ありがとうございます 「妙法」は例えば 私が印心を授けたとき それを「妙法」と 呼びます 言葉数が少なくても すぐに 開悟できます その瞬間を 「即刻開悟」と 呼びます それこそが 妙法の数行」です 尊敬すべき尼僧 あなたの弟子に なりたいなら 菜食になるべきですか でも私は 小乗仏教の伝統に従い 肉を食べ スリランカの尊敬する 僧から学んでいます ちょうど正午に 食べても良いですか 私は大乗仏教に 従っています

「小」は「大」より 良くないですね あなたは既に「小」は 「大」より良くないと 知っています なら「大」に従うのです ただ従った方がよく なぜ低くなるのに 謙虚になるべきですか いつ優れた人になるの ですか そうでしょう 偉大な紳士のように なる方が良いです ただそうした方が良い 「殺生を控え」ますが 時にアリが家中に 這っていて暑かったり 寒い気候でもいます 彼らは地下から 来ているのです 彼らを殺したら 罪ですか 彼らを優しく 外に追い払う ことができます 外に払うのです

「殺生しない」は ただ座って 彼らに 家の中に入られたり 噛まれたりという 意味ではありません 蛇を見たら 追いますが 彼らを殺さずに 出す方法を 見つけるべきです 私達が毒蛇を死なせる 原因となったら 殺したいのでは なくても それでも殺生の罪を犯したのと同じです 罪があっても 私達の慈悲深い性質は 減少するという訳では ありません しかしそれらの動物を 食べるために殺すのは 力があるという ことではありません

私達は豆 果物  野菜を食べて生きて いけると知っていて 肉がなくてもすぐに 死ぬ訳ではありません 分かりますか ですから菜食する 場合は毒蛇を 殺すこととは 異なっています 私達は順応性を 持つべきです 私達は戒律を保つのに 順応であるべきです しかし殺生を 避けるのが最良です どんなことでも殺せば それが有害でも 無害でも私達は それの代価を払います でもそれは 払う代価が軽いか  重いかの問題です 代価が軽いか  重いかです

それが私達が肉食 できない理由なのです

殺生を完全に避ける ことはできません 私達が歩き 手や足を 洗い 全てのバイ菌を 殺しているからです 私達がうがいや 歯磨きをするとき バイ菌を殺しています 医者は毎日消毒を しなければなりません 見たことありますね また呼吸をするとき 微生物が死にます それを少なくするのは 不可能です 「殺生しない」戒律は 私達の慈悲の心を 育てる意味で それで 殺したくないのです 分かりますか 怒りによって 無差別に殺すように させないことです それを完全に避けるか または減らすのは 不可能ではありません 減らせば減らすほど 私達のためになります 尊敬するマスター 妊娠中菜食をするのは 害がありますか いいえ害はありません 妊娠している牛も 菜食です 害はありません

否定的な場所 ニューヨークに 住みながら マスターが存在して いないときに修行する 最良の方法は何ですか

いいですかマスターは いつも存在しています マスターは体ではなく マスターは神の パワーと同様の 遍在するパワーです キリストのパワーです あなたが物理的に マスターと共にいるか 否かに関係なく 違いは全くありません また否定的な場所など 全くありません なぜなら 「知らないのか 汝は神の神殿であり 聖霊が汝の中に 宿ることを」 それはどこに行っても 神聖である意味ですね 私達は環境の 外ではなく 神の中で生きるのです

私は印心の時に 私があなたのそばに いない時の日常生活 毎日の修行でする 指示を出します そしてどんな質問も いつでも手紙か電話か 迅速にファックスを 使用できます マスターの肉体に しがみつく必要はない マスターは答えました マスターはそれでも 私達と一緒にいます 物理的ではなく 霊的にいつも 私達と共にいると しかしながら どんな 場所も悪くありません 全て私達の頭脳が 作り出したものです 私達は外側の 環境とではなく私達の 仏性と生きています

それもつけ加えました 私は印心のとき 毎日霊修行する方法を あなたに教えます そうすれば 毎日同じように 修行ができます 仏陀は私達の内にいて ニューヨークや美しい 場所にはいません 仏陀は私達の内にいる それは「私達の心が 平和な時 世界は 平和です」そうでしょ それだけそれだけです ですから 仏陀の 境界でないどんな 境界もありません それが最初のことです また 悟りを開いた マスター つまり彼も良く 彼は正しいと言います

彼はいつも絶えず 私達のそばにいます なぜなら彼は 肉体でなくパワーです いいですか 観音菩薩と同じです 彼女がどこにいようが 私達が電話をすれば 彼女はいつも私達の 声を聞けるのです 何か質問があれば 私に手紙かファックス または電話を使って 至る所にマスターに ついて行く努力を 費やす必要はないです 私達はマスターの後を 追わず 会社で働いて 生計を立てて 国と世界を 助けねばなりません

私達はあなたが住む 世界への義務を実現 させねばなりません いつもマスターに執着 できません 何のため また私達は 働かねばなりません ですからどこにいても 問題がなく 自分達の中にいる 神の存在を修行でき どこに行っても神の 存在だけを感じます 問題ありませんね

親愛なる尼僧 お聞きします なぜ人々の中には 霊修行について 法華経を読むのが 最良の方法だと言う 人がいるのですか それは正しいですか それで 観音法門と 法華経法門では どちらが 最高の法門ですか 法華経は仏陀が 観音法門について 話した経典です 普門品では 仏陀が観音法門の 修行を話しました そうですね 観音を唱えるという 意味は・・・ 「南無観世音菩薩」を 唱えるのではないかと 思われます

観世音菩薩を 唱えることによって 私達は炎に入っても 焼けません 海に落ちても 溺れないでしょう 多くのオウラック (ベトナム)難民が 海に落ちて皆 溺れました 観世音菩薩を唱えても それを阻止できません でした なぜでしょう 観世音を唱えるのは カルマ(報い)を いわゆる粗いものだけ 取除くかもしれません かすかなカルマ (報い)はまだ排除 できません ですから

溺れねばならないなら やはり溺れるでしょう 火事で焼けるなら 彼らはすぐに 死にます そうですね そんな事は不可能です 従って「観音を唱えるのは観音法門を 修行すること」と 知らねばなりません 分かりますか

観音法門を修行する時 水に溺れず 火で焼けないのは 本当です でもそれは状況に よります 避けられ ない状況においてだけ 溺れるかどうかを 確かめるためだけに 突然飛び込むという 意味ではありません 私達はすぐ溺れます でもあなたも溺れない 一人の弟子がいて 彼女は水に落ちても 溺れませんでした 数人が落ちましたが 溺れませんでした それに彼らは全く 泳げませんでした 更にひどいのは彼らは 泳ぎ方を知らなかった 彼らは泳ぎ方を 知らなくて 底に沈みました 彼らは沈みながら 水がまるで空気の ように感じました 下にいても 彼らは問題なく 呼吸できました しばらくして 彼らは 引き上げられました

大丈夫 死ななかった 何もなかったのです そしてダルマ (真の教え)を広めに よく私と一緒に行った 多くの弟子がいます 大抵はとても疲れて 四、五、六日連続的に 寝ることもなく あまり食べずに 働きました 私は気にしませんが 弟子は長い間 それほど修行して いなかったので そのような困難に 耐えられませんでした 水泳に連れて行って 泳ぎ方を教えました 彼らが泳ぎ方を 知らないなら ある日 溺れたらどうしますか 観音を唱えるだけ では十分ではなく それで泳ぎに行き 彼らは楽しみました

私は彼らに言いました 「あそこに行かないで」 彼らは水が非常に 強く渦巻いた場所に 行って それで 押し流されました 押し流された後 まるで誰かが彼らを 上げているかのように 彼らを持ち上げ 水に浮かびました 彼らは水の上を飛んで 浅瀬の方へ ゆっくりと移動し そして岸に 押し上げられました 沈まないのではなく 影響されない 訳ではありませんが 救われました 分りますか ですから

観音を修行することは 観音法門を 修行するという意味で ただ観音を唱える だけではありません それで 私達が 普門品を読んだ時 まるで始りや終りが ないように見えます そうですね はっきり覚えてますか 普門品には 観音菩薩には 数千の化身があると 書かれています バラモンに 縁があるなら 彼女はバラモンとして 現れます 異教徒に 縁があれば 異教徒として現れます 将軍に縁が あるなら 彼女は 将軍として現れます 妻 青年 若い女性・・・ しばらくこうして話し 続けられます その後 梵天の 音について話します 世界に 比べようもない音 観音菩薩の 不思議な音です

そうですね 始めも 終わりもないようです 突然梵天の  観音菩薩の 音に関して話します 梵天の音 海潮音 なぜ そのようにそれほど奇妙なのか どうして観音菩薩が 海潮音に 梵天の音に 世界無比の音に 世界無比の音に なったのでしょうか 冒頭から 観音菩薩の美徳や 何やかやに関して 詳細に話します 突然 下りて 観音菩薩 梵天の音 海潮音について 話します

誰も知りません 観音菩薩の美徳に ついて話した 前の部分は いつ悟りを開いたか そして どんな 功徳を持っていたか 後の部分は 音について話します 私達は観音法門を 修行する時 私達が観音の修行を している時 海潮音や 梵天の音を 聞くことができ この世を超えた音を 聞くことができます それでそれらの二つの 面が一つに併せるのが 不可能なのは この理由のためです なぜそうなのでしょう よりはっきりと 説明致します 観音法門には 二つの面があります

一つ目は 私達は仏陀や菩薩 あるいはその光と 繋がりが持て 観音菩薩についてと 彼女がどんな姿か どんなに美しいか 仏陀が観音菩薩を 引き合わせるかを 見られます 第二の面は 私達は仏音を 聞くことができます それで普門品を 書いた人は 自身の体験について 記しています 上部に その著者は 観音菩薩を見たと その下は法門を 聞いていました 一つは法門を見ること もう一つは法門を 聞くことに関してです ですから 冒頭では 「見る」体験を 下部は「聞く体験」です

その結果それを読む時 私達は理解できません なぜ突然 梵天の音や 海潮音に 関するものなのか 一度皆さんが 観音法門を修行すれば そして普門品を読めば 大変はっきりと 分ります 私は昨日ロスに 着いたばかりです ある弟子がいて 彼は私が初めて ここロスに来た時に 修行を始めました まだ非常に若くて おそらく十代か 二〇才でした これ位の大変長い 紙を持ってきて  私にくれました それは自分の霊性の 体験だと言いました 昨日大勢の人が それを見ましたね

少なくとも一人は ここに座ってましたね その若者は 私が 読むようにくれました 私は彼にあげる物を 用意してませんでした 到着したばかりで 彼は自分の霊性の 体験を私に見せて よいか尋ねました 霊性の体験には 二つの面がありました 上部に多くの絵を 仏陀の国の光の絵や 彼が見た仏陀を 描いていました どんなに美しいか 光がどんなに大きいか その光の色 すべて記していました 「観音菩薩は とても大きく とても巨大」彼女は 観音菩薩の絵を描いて 彼はこんなに大きくとても小さく座ってて 言いました「大きい どうして観音菩薩は こんなにでかいんだ」 観音を大変称えました

私に言いました「わあ 観音菩薩はとても きれいで巨大です」 それから それから 底で聞いたことを 描写し 異なる音を 説明していました 観音法門を 修行しないで この絵を見たなら 「なぜとても変なのか なぜ彼はあれこれの 音を聞くんだ それで冒頭で彼は 観音菩薩を見たのか 一体どうして これらに繋がりが ないんだろう」 分りますかそんな感じ

 
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