智慧の言葉
 
平和は私達からを始める 第一部/3 一九八九年一〇月一日 マレーシア(マレー語)    Part 2
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どうぞ目を閉じ 全能の神に 仏陀に 菩薩の慈悲に 心から祈りましょう 私達の今日の 貴重な会見を祝福し 全ての人々が最高の 利益を得られますよう ありがとうございます 会場の皆様 友人の皆様 どこで開かれる 講義の前でも 私の心は常に どのようにお話したら 聴衆の方々に最高の 利益をもたらすことが できるだろうかと 深く考えます それで毎回 講義の前に 私はいつも神に 仏陀に 全能の神と 仏陀の慈悲に祈ります 私を助け 私を通して 私達の友人にあらゆる 方向から女神 霊を含む 誰でも今現存する方に 私の二時間の講義で 最高の恩恵を引出して もらえるようにと それで今日は 私は非常に熱心に 祈りました 私は寺院に行って 祈ってはいません 私は教会へ行き 祈ってはいません でも私は  心の教会で祈ります 私は 教会 寺院としての 貴重な身体を使います それで神 仏陀に 祈れるのです 私の講義を聞く 最も記憶すべき時間に あなたに最高の利益を 引き出してほしいと 思うからです

それで毎回 私はこのように祈り そこには加護があり 利益があります そういう理由で 皆が毎日祈るのです 神に祈るために 私達は教会へ行きます アラーに祈るために モスクへ行きます 仏陀に祈るために 寺院へ行きます 私達は利益を感じ 仏陀 神 アラー誰でも あなたが崇拝する 方からの加護を 感じるからです 私達の異なる 背景によって 文化によって私達は 創造主を全て 違った名で呼びます 私達は その偉大なパワーを 私達を非常に愛す方を 異なる名前で呼べます ある者は神と呼び ある者は仏性と呼び ある者は道 ある者は アラーと呼び 議論 すべきではありません 私達がどんな宗教を 今信仰しようと 関係ありません キリスト教徒であれ 回教徒 仏教徒 シーク教徒 道教でも どうでもいいのです

私のように皆が 自身の宗教を信じ 最も有益なものを 信じればいいのです 何であれ最良のものが 私達には良いのです しかし私達はまた 時々 私達の宗教の 代表を見たいと 思う時もあります つまり 例えば 私達が仏教徒なら 時に 仏陀と 接触したいと 菩薩 釈迦牟尼仏陀 観音菩薩に会いたいと 思うことです キリスト教徒なら イエスに時々 連絡を取りたいと または聖マリア等 過去の聖人で毎日 私達が祈っている方と 連絡したいと思います 神を見たいと思います あなたが仏陀を 見たいかどうか 私には分かりませんが または私のように神を 見たいとか 出も私は 仏陀は見なくてもよく 菩薩は見たいと 思いました 神を見たいと思い 神と直接 話がしたいと思い 直接仏陀に全ての 私の心の懸念を 全ての疑い 私の心の疑いを 私の心の苦難について 話したいと思いました 私自身の体験を通して 人間として 他の苦難を通してです 開悟する前は 私は毎日祈るために 常に教会や 寺院へ 行っていました 教会を見たら中に入り 必ず祈りました 寺院を見たら中に入り 仏陀に礼拝し 祈りました 二通りの祈りがあり 私は教会へ行くと ただ二通りの祈りを 祈るのを思い出します 私は神に「神よ あなたが存在するなら お姿を見せて下さい とにかくいつか 私に会って下さい あなたに会いたいだけ 他に何もいりません」 私の第一の祈りです ある日私が寺院にいて 仏陀に祈ります 私は「お釈迦様本当に 存在しているなら 私に姿を見せて下さい 他の人々にもあなたの 姿を見せて下さい

どうにかしてあなたの 姿を見せて下さい 私達にあなたの 栄光を教えてくれたら それで あなたの慈悲 あなたのパワーを より信じられ それで 心が安全に感じます」 このように何度も 祈りましたが 神を 見られませんでした そして仏陀も 見られませんでした それである日私は 少しうんざりしました その日私は泣きながら 私は仏陀への 朝のおつとめを していました 知っていますか 仏教徒の朝の おつとめです ええ 木でできた木魚と 鐘を持って こんな風に何度も マントラを復唱します 例えば「大悲咒」 例えば「大悲咒」 南無 ラトナ トラヤヤ 南無 アリャバロキタス バラヤ」などなど それから観音菩薩の 名を復唱します 「南無観世音菩薩」 というように 何回も何回もまたは 「南無阿弥陀仏」と そしてやがて それが終わっても 私はその後何回も 祈りましたが 仏陀には会えず 私は赤ちゃんのように 泣きました

ほら 欲しい物がもらえない 時のように地団太を 踏み「なぜダメなの」と 激しく泣きました 「お釈迦様 私達が 信じないのではなく 見えないせいです 私達は心から本当に 切望しているのに どのように人々に あなたを信じろと言う のです 見えないのに」 私は激しく泣きました すすり泣きました 隣の人が来て ドアをノックして 言いました 「何 何があったの どうしたんです 何もバカな事はして ないでしょうね 」 私は「いいえ なぜ なぜ私がバカな事を するんですか 」 「朝ずっとあなたが 泣くのを聞いたから」 彼女は私がバカな事を したと思ったのです 私はただ仏陀の事を 思って泣きました 私はあまりに激しく 泣いたので 隣人達を 全員を起したのです

でもその日以来 私は 毎日祈っても 朝のおつとめをしても 夕方ひれ伏しても 仏陀を複唱しても 心は満足できない と認識しました いかなる仏陀の兆候も 見られないからです それでもうそこを去る べきと決心しました 私は去って別の事を すべきだと思いました この方法で事が成し 得ないなら別の方法を 見つけねばなりません どこにも行けないのに そこに留まれません 私は本当に切実に 仏陀に会いたいと思い 私はどこへでも行き どの寺院でも祈り 世界中の場所を 崇拝しました 寺のある所 僧 尼僧のいる所 教会のある所です 少し開悟していると 聞いた人  有名な人は誰でも訪ね  頭を下げ 開悟できる よう懇願しました 何年もこのようにして 月日が過ぎましたが 大して得られません 少しは得られましたが ほんの少しです

私は祈りました  ある時何らかの感応も 得られました 直観的な感応です 例えば ある日私は 阿弥陀仏をじっと 見つめ続けました 私は熱心な仏教徒で キリスト教徒でもあり ある日私は 仏陀を見つめました 見続けました 私は言いました 「なぜ西方極楽世界に 連れてくれないのか」 「何らかの感応を 下さい」と言いました すると彼はくれました 私が非常に誠実で 傷心していたので 彼は私が感応に 値すると感じました 私を非常に高く上げ 突然 何もない上に 座っていると感じて とても恐くなりました 「だめだめ 私を下ろして」 飛ぶように感じました

この感じ 分りますか ない ありますか 非常に強く祈るなら 体に電流が通る感じで 若干の 反応が得られます 仏陀からの返答です それから時々 サマディーに入ります それは念仏三昧と 言います 仏陀の名を 唱えることで 我を忘れた境地になり  喜悦に浸ります サマディーというのは そこに座って究極の美  至福と穏やかさを感じ この世のことは何も 心配しない意味です サンスクリットでは サマディー 中国語 では三昧と言います 西洋でも サマディーと言います 幸せな 穏やかな 精神状態に入ることで そこには悲しみがなく 心配事もなく 恐れる こともありません それがサマディーです サマディーにいる時 全て完璧であると感じ この世のことに 悩まされません  全く何も起こりません すべては完璧です 時々そのような 状態に入ると 世界は完璧な 秩序があると感じます ですから 老子は サマディーに入った時 驚嘆したのです つまり天下は本来 何の問題もないと 全てが完全な支配下に あるのを意味します さて それは私が 誠心誠意に仏陀に 神に祈っていた時に 得られたほんの 少しの体験でした でもそれだけです 他にはありません それで私はますます 切望しました 仏陀は少ししか与えて くれず 私は満足 できなかったのです ほら それはまるで おいしい食物を 食べたようなものです 少しだけ味見させて くれません もちろん イライラします

もっと欲しくなります もっと欲しかったので 私はあちこちに 走り続け 答えを探していました 悟りを得た後でのみ 本当に大きな悟り という意味で 小さいのではなく すべては自身に すでに存在していると 理解するのです そんなに 速く走ったり あちこち探しに行く 必要はありません ただ静かに落ち着けば 発見するのです 殆どの人は思います 何かを祈るたびに それを得ると 仏陀が与えてくれると いう意味です  いいえ 違います 私達は既に持ってます ただそれを持っている 事を知らないだけです 私達は強く 誠心誠意に祈ると  やがてエゴや 想念が消えます 神 創造主または道 あるいは仏性と呼ぶ 最も偉大なパワーから 切り離される 感じがしなくなります その瞬間に 私達はそのパワーと 一体になるため 突然より賢くなります 突然 物事は より明らかに見えます それで私達はそれを 得たことが分かります でも天からではなく 既に功徳の倉庫に 存在しているのです なぜ言うかというと 皆さんに気付かせたい からです 人生で状況が私達に とってよくないなら すべての願望が 実現できないなら それは欲しいものを 探すのを忘れたからで 例えば 仏陀が存在し イエスはまだいます 神やアラーが存在し 誰でもその名を言える 者は存在します でも見えません 彼を探すのを忘れたか 彼らを探すのを 忘れたからです

仏陀 神 イエスや あなたが信じている 誰でも存在している だけでなく 私達の欲しいすべて すべてすべてのものが すでに倉庫の中に 存在しているのです でないと それを 欲しがったりしません 私達は 何が欲しいのか 全く分からないのです 例えば アフリカに まだ人々が非常に 文明化していない 種族がいます 彼らは今まで一度も テレビを見たことが ありません 過去三十年か 過去百年 テレビを見たことが ありません ですから彼らの心に 決してテレビを見に 行く考えは浮びません これまでテレビが 彼の記憶の中に 存在しないからです 私達はこの人生で 望むすべてのもの 例えば 財産 幸福 喜び 神や仏陀などとの 接触は既に私達の 倉庫に存在しています 前世やまたは 多くの過去世での 過去の記憶に既に これらのイメージを 登録したのです 従って 今それらが 欲しいと思うのです さもなければ なぜ それを欲しがりますか なぜこれらのものを 知っているのですか それがあるのを知って いるから欲しがります

ですから 私たちが悟った時 または最も優れた 智慧を得ている時 これらが倉庫に あるのを発見します 仏陀が今与えて くれたのではなく 神が授けるのではなく 既に与えてくれました ただそれを使うのを 忘れただけです だからそういう訳で 神の愛を認識し  仏陀の慈悲を 認識する 方法があるのです 落ち着いて 黙って 神や仏陀からの 教えを聞くことです 毎日修行するには 二つの部分があります 第一部は欲しいものを 祈ることです 第二部はどこで 欲しいものを得るか 神や仏陀からの教えを 聞くことです いつも尋ねて続け 聞かないなら 受信しないなら それを得られません たいてい 私達は忙し過ぎ 時々 祈っても 神が教えてくれる ことを知りません 例えば 先生の所に行って 英語に関するいくつか 質問を尋ねます 彼に尋ねます

でもそれで静かにその 答えを聞くべきです そうではないですか 違いますか 分りますか そう それで 今私達が 神や仏陀に何かを求め 毎日尋ねて 尋ねて 尋ね続け 朝尋ねて 夕方また尋ねて そして夜中に 問い続けたとしても いつも私達が話します 当然 神からの答えや 仏陀が何をすべきか 教えてくれることが 分かりません それで私達の人生が あまり向上しません たとえ神がいつも 慈悲深く私達を 助けたがってもです たとえ仏陀が十方から いつも私達の面倒を 見ていて多くの指示を 私達に与えたいと してもです 生活の処理方法 毎日のトラブルを 解決する方法 この世で 生き残ると同時に 全宇宙世界の 異なるレベルを 通じるために 最高な知性を 得る方法をです それで私達は時々 いわゆる「瞑想」を すべきなのです 今私達がそこに 座っても 頭の中で まだ考えているなら 瞑想とは言えません それは瞑想ではなく 黙って話すことです それでどう瞑想するか  どう静かに座るかを 知らねばなりません 私が提供しましょう それを適切に正確に する方法があります そうすることで私達が 最も信じる神 仏陀  アッラーからの  メッセージを 受け取れるのです 私達は時々静かにして メッセージを伝え させねばなりません 神が私達の言うことを 聞かないのではなく  仏陀が言うことを 聞かないのではなく 私達が彼らの言う事を 聞かないのです

そういう訳で時々 私の本では あなたが 仏陀と神という名前を 唱えてもあまり 役立たないと 書いてあるのです 神や仏陀があなたの 言うことを聞かないと いう意味ではなく 私達が騒がしすぎる という意味です 私達の口数が多く それで話を聞かない という意味です 今それを解決する 方法があります 毎日私達は  まだ仏陀に祈り  まだ神に祈りますが 私達は時間を割いて 静かに座り 神が私達に与えたい 仏陀が 私達に指示したい メッセージを 聞かねばなりません それは論理的ですか そうですか(はい) 有難う 有難う それでは 次の部分へ どう静かに座るか 私達のほとんどは 座る時 静かではありません 私達は座る時 もっと悪くなります 本当ではないですか 今 私を 信じないなら 今夜 家に帰ったら 静かに座ってみて あなたの心を五分間 空にしてみて下さい

それは非常に難しい 恐らくあなたは自分の 体を箱に入れるかも このように自分を 閉じるかもしれないが あなたの心はあちこち 走り回っています それは瞑想する 方法ではありません それは神や仏陀の メッセージを聞く 方法ではありません 今 それをする  良い方法があります 私達が 仏陀に祈る時 または自身の内面の 仏性に祈る時 または私達の中に 存在する慈悲と 善良に祈る時 それは中国の 性善説ですが 中国人は 人間の性質は元々 善であるという 言い方があります 善良であることです したがって 神を信じるなら 神に祈り 仏陀を信じるなら 仏陀に祈ります 私達が 人の性質は善である ことを信じるなら 私達は私達の中の 善良さに祈ります でもどこにいても 最高のパワーに 祈ってください いつも 最高のパワーに 最高の神に 最高の仏陀に祈り 中国人が 神や鬼と呼ぶ  小さな神に 祈らないでください それらはその土地の神 女神なのです 彼らのパワーはその 土地に限定するからで そういう訳で私達は 祈るべきでないのです 私達が最も高い 最高のものに祈るなら 私達は最高の 頂上のパワーを得ます

今私達が欲しいものを祈った後で でも良い祈りでないと あなたが いつか だれかを 殺すために祈ったり あなたの銀行強盗の 成功を祈るという 意味ではありません いいえ 違います それは役に立ちません 私の言う意味は あなたが人類の慈悲と 包容力の範囲内で 人類生活の論理的で 平和の中で祈ることで あなたは慈悲を 平和を 最高の導きを祈ると それであなたの生活  隣人の生活  国の生活が繁栄し 賢明で 平和に なるかもしれません それで 毎日 物事をどうするか 神や仏陀が私達を 導くでしょう 突然 物事は 変化するでしょう 物事は改善し より順調になり 以前より上手に ことをするでしょう 以前より賢明になり 以前より迅速にものを 決めます その時が 神があなたを導びき あなたを助け あなたを支え 毎日あなたを祝福 するのを知る時です 人類に貢献し 自身や家族に奉仕し より良い智慧を得る為 毎日あなたがする 全てのこと あなたの 考えるあらゆる方法で それをした後で 違いを感じるでしょう 本当に 私達の脳より 偉大なパワーが あるのを知るでしょう 私達が神 仏性あるいは 道と呼ぶ力です 皆さんがどう呼ぼうと 私は気にしません 異なるものに名付ける 自由があります そうやって私達は 神や仏陀を聞きます これを毎日しないなら 私達は仏陀と神からの メッセージを 沢山得られません そして本当に神は 存在するか 仏陀は存在するか 彼らが私達を愛して いるかが分かりません 今皆さんが この瞑想からの功徳を 得ていないなら 私には神 創造主 あるいは仏陀の愛を 認識するのを助ける 別の方法があります
様々な花を見る時 花の中心を 見つめます いかに 花が美しいか いかに美しいか いかに芳しいかと 花の存在の 目的は 何なのでしょう それは神や仏陀 道や アッラーが私達を 愛しているからです 神は花を私達の感覚を 喜ばせるために創造し 人生をより美しく 耐え得るものに より 快適にするためです また皆さんが子供達の 目を見つめる時 それは知性と 愛と 学びへの好奇心と 家族の愛の中で 毎日皆さんに与える 温かさと共に きらめきます それは神あるいは 仏陀が自身の慈悲を 私達への愛を 表す時です そうでなければ 私達に こういうもの 例えば 子供 子供の愛を または花や 美しい空 星や 月や太陽が ないとしたら 本当にみじめです たとえ神や仏陀や 聖人の存在を知って いるか否かという前に 既に どこから来たか 分らない無条件の愛が あると言えるのです 全ての人々への この世の全てへの 無条件の愛が 存在します 神は人間だけを 愛するのではなく 神は動物も愛します 仏陀は私達だけを 世話するのではなく 全てを世話します ですから草でさえ 牛のために作られ オスの鳥のためには メスの鳥が作られ またハチのために 蜂蜜が作られる等です

そのため 聖書ではこう言います 神は全衆生に応じて 一切を創られた 仏教経典で 仏陀は説明しました 感覚ある衆生を助け 救うために 仏菩薩は 時には ある動物や鳥 花や水に 姿を変えると異なる言語で 異なる方式の同様の 言い伝えがあります ですから 私達への 神や仏陀の愛を 知るために 私達の周囲の創造物 全てに感謝すべきです 私達はもっと慎重に もっと注意深く もっと感謝して 私達が使うようになる 全てのものを 見るべきです でないと忘れやすく 簡単に忘れてしまい 安易に感謝しない でも創造主は 仏陀は 私達が 感謝しなくても 気にしません 私達の感謝など 求めません ただ私達が 感謝を忘れれば私達は 失うだけのことです 私達は自身が壮大だと いう感覚を失います 私達は一切を世話する 最も偉大な力が あるのを忘れました それでその瞬間とか その場合に とても孤独を感じます あまりに絶望を感じ 苦しみもします 外では 私達が受けとる全ての ものに感謝します 内では私達は時には 静かに座り  仏陀の存在を知り 内なる声を 静かな  静かな声を聞きます そして 神の声を 仏陀の声を聞きます 私達が 毎日そのようにすれば  毎日取り扱う物の中に 私達の知性の中に 私達の視点に大きな 違いが分かります つまり私達が 「瞑想」と呼ぶものです さて私達が ただ座って瞑想し 神の声を聞けば 本当に多くを得て より簡単になります 私達が注意を払わねば ならない 少しの条件があります

外にある本の 「即刻悟の鍵」の 英語版と中国語版は 私は実際にその当時 私の弟子に 知識の道を進む方法を 話してきました 例えば 私達は毎日 こうして 目を閉じ仏陀のように 座るのでは 不十分なのです 皆はあなたが 偉大な修行者と 知っています それでは不十分です 私達は瞑想を 生活様式にすべきです 例えば 私達は 瞑想する時 神の力や 仏陀の力と 連絡をとります そして私達は この神の力とか 仏陀の力を 人との日々の関係に 現させるべきです 私達はより愛深く なるべきです それは私達の 進歩の証拠です それで今 私達がより愛深いと 証明したいなら 私達は少し 慈善行為をすべきです 貧しき者を助けるべき もっと両親に 従うべきです お年寄りや幼い子供や 寡婦を世話すべきです また私達は過度の 楽しみにふけるのも 控えるべきです 全ての他の生き物の 苦しみを自分のことの ように見なすべきです ですから 私達は動物を殺害し それで食べることを 喜んではいけません それがベジタリアンに なるべき理由です 今皆さんが この菜食の食事を したくないなら それは あまりに 問題が多いせいだとか 商売の問題のせいとか 妻が料理して くれないせいだとか だって だって だってというなら それなら別の 代案があります 例えば 仏陀が 初めて僧侶を自身の 教えに受け入れた時に その僧らは肉を 食べ慣れていました

僧だけでなく 在家者も同様に肉を 食べ慣れていました 彼らの国では 草も野菜も 育たなかったからです それで仏陀は言います 「構わぬ ではゆっくりゆっくり 肉をゆっくり食べ そして野菜を ゆっくり食べなさい」 ですから私も仏陀に 基づいて  代案を提供します 例えば 私達は自分にとって 都合がいい時に 菜食を試すべきです そしてできる限り 菜食になる 口実を作り 肉を食べる口実を 作らないようにします 全ての創造物に対し ますます慈悲を学び 愛を広げることに よってのことだと 私は言いたいのです 全ての宗教が 誰もが 愛を人に限らず 全ての動物に広げる べきだと述べている 訳ではありません ですから私達がどんな 宗教を信じていても 私達はみな 「性善説」を信じ 私達の心の中の 善良さと慈悲を 信じることができます できる限り多くの命を 救う努力をします また一切れの肉を 食べれば 多くが変わるという ことではありません でもこれは慈悲への 私達の心の訓練の 原則なのです

自身の慈悲心を育て そして自身の慈悲心を 殺さないこと その意図が大事です ある修行者の グループは 菜食を食べません 彼らは菜食が 不便だと思います 毎日社交的に 付き合わねばならず つまり娯楽や 事業においての 交友を深めるためです そして彼らは 菜食になるのは 不便だと思います それで彼らは週に一日 または週に二日 断食すると決めます 理由は 全ての生き物への 慈悲を学ぶ印として 肉の摂取量を 減らすためです ですから私達は これこれのグループや 宗教が金曜に断食を 一年に一月の断食を すると聞くのです これらは 非常に古いけれど 非常に効果的な伝統の 残りものです また 仏教では 多くの種類の 菜食主義者がいます 例えば生涯菜食主義者 それから月に 二日の菜食主義者 月に四日の 菜食主義者 月に六日の菜食主義者 などがいます これは人々に菜食に もっと慣れさせる ためのものです

私の言いたいのは この方法は多少 複雑だということです 例えば 私達東洋の 仏教徒は非常に厳しい 暦があります 毎月ついたち 「旧暦」の 毎月ついたち 毎月の十五日 月の晦日などのように 菜食を食べます それであなたが 忙しく働く男性 ビジネスマン 新聞記者であるなら いつでも 「旧暦」の暦がチェック できるとは言えません それに旧暦の暦さえ 持ってないかもしれず 「陽暦」しか持って ないかもしれません それでどの日が何か 分かりにくいのです

それで私は提案します 全前衆生への 慈悲の印として 慈悲の支えとなる 印として いつでも 私達が思い出した日 生活で便利な日は 菜食するようにと それでもう良いです かなりいいです いいですか(はい) はい ありがとう それでこのようにして 私達の頭脳と心は より寛ぎます なぜ それは私達が 肉を食べる時はいつも 動物が息を引取る時の 彼らの心の中の憎悪 怒り 挫折感が 私達の潜在意識に 課せられ刷り込まれる のが避けられません それで私達は 内面に不安を感じます ですから 夜寝るとき 悪夢を見ます 私達が動物を見ると 怖がって 逃げます そして病気の時には 治り難いのです 私達が食べる肉に まとわり付くこの 憎悪 怒りの雰囲気の せいなのです ですから菜食を すればするほど 私達の心には やましさが ありません そうです

やましさがなく 罪悪感がありません 潜在意識に 罪悪感がなければ 熟睡できます あまり悪夢を 見なくなるでしょう 試してみるべきです 精神状態 心や体 全てが 良くなります

私は旅行する時以外 皆さんほど 新聞を見ませんが 十五 二〇 三〇時間 飛行機に乗って 他にすることがなく 睡眠や瞑想も それほど長く できませんので 新聞をとって 見てみます 新聞にはいつも いい知らせは ありません 何もないのが良い報せ 先日香港から ここに来た時 ニューズウィークや タイム誌を見ました 災害ばかりでした ハリケーンや大惨事 飛行機事故 殺人 病気などです 病気には これまで見たことも ないものがありました 例えば 最近の流行の病気には 治療できない 寄生虫がいます

寄生虫は かじって穴を開けます

中から穴を開け 虫がはって出て 来るのを見ます 体中こんな虫が いっぱいなのを 想像できますか 医者には 治療できません その記事を見て 吐き気を催し 吐きたくなりました ひどい写真を 見たからでなく 病人の 堪え難い辛さを 感じたからです 通常私たちの胃には 虫がいて それでも十分辛いのに 体中に虫がいて いつでも穴を食い開け はって出て来て 虫が見えます 静脈や血液 筋肉は虫で いっぱいです それが どういう状況か 想像できますか しかし 自分たちは 健康で 経済的地位もあり 神はそんな 状況にはしないと 思ってます それならもっと 清潔にし神の保護を もっと受けるように 準備すべきです そうしてこそ悲惨な 状況になりません 間接的な殺生を 避けることが最良です 肉食も間接殺生に なります 肉を食べなければ 殺生する人はいません 仏教の 因果の法則は 必ずあります 他にしたことはすべて 何らかの形で 己に降り掛かります 仏教だけでなく キリスト教も同様に まいた種は刈り取ら ねばならぬと言います 他の宗教も 注意深く見れば カルマの法則や 因果について 書かれています 行いは何でも 自分に降り掛かります 儒教では 自分にして欲しくない ことは人にするなと 言っています 因果つまり 行いは何であれ 良かれ悪しかれ結果を 受け取るということを 知っていたからです それで悪い結果は 望みませんので 結果を良くするため 良い行いを 始めねばなりません

天国や地獄について あれこれ 言いたくありません ただ生活について 現実的にお話しします 健全な心と 健全な体 よい意識 よい睡眠を望むなら 他の人や 動物に対し もっと慈悲深く ならねばなりません その報いを 受けるからです 他の者に平和と安全を 与えれば 平和と安全を得ます ご存じのように 私は幼い時から どんな生き物も 決して殺しません アリ ミミズ 鳥でさえ 殺しませんし 殺害を 見るのも嫌いです ですからオゥラック (ベトナム)には とても多くの災害 とても多くの殺害 死や困難がありました でも私は逃れました ボートで漂流したり 困難に陥ることもない それはなぜでしょう 私の人生には憎しみ 殺生 悪い行為が ないからに違いなく 良い扱いを得る訳です それで 自身の経験から 皆に教えられますが 他人に良い事をすれば それは結局 自身にされるのです 今私が 観音法門を修行して いるから そう言う のではありません 違います それ以前に 私は既に慈悲の 果報を見ました 例えば 私の国では 時々 子供たちは 網で小鳥を捕まえ 食べたりしていました 私は決して参加せず これが嫌いで  しないよう彼らに伝え そして鳥が負傷して いるのを見るたびに 家に連れて帰り 回復まで世話をし 自由にさせました そのために 動物は私にとても 友好的だと思います

ドイツにいた時 ある日  仏名を唱えた後 外に出ると 鳥が 私に向かって飛んで 来て 私の前に 止まりました 私は言いました 「何が欲しいの」 すると鳥は私に話しかけてくれました そこに長い長い時間 立ったまま 私達は三十分ぐらい 話しました 鳥が話を理解するか どうかは分からないが 私は彼の話は分からず とにかく話し続けて 非常に活気ある会話の ように見えました ですから多くの人が 出て来て私達の会話を 見ていました 私達はこのように 非常に近づき 彼は決して逃げようと しなかったからです それで人々が皆来て この光景を 見ていました 鳥はこんな沢山の人が 来ているのを見ると 飛んで行きました 鳥は彼らを恐がったが 私にことは 恐がりませんでした インドにいた時 ヒマラヤに住んでいて 良い部屋ではなく 泥の家に住んでました

泥でできていました

上に石が置いてあり その石はいつでも 落ちる可能性があり それは良い構造では ないので 土壁には何千もの穴が 開いていました ですから風が入り 星の光も穴を通して 照らします 様々な 動物も入ってきて 友達になります 毎日瞑想の後 目覚めると 周囲に少なくとも 五匹のサソリがいて そこに座り 私と 一緒に瞑想してました ご存じ サソリには 千本の足があります

噛まれたらさようなら サソリは   しっぽが非常に鋭く 一度刺されたら さようならです 毎日サソリと 蛇 皆が周りに座って 瞑想します 私は起きるとこんなに  多くの友達を見ました ここは彼らにとって 良い場所でないと思い 私が歩き回ったら 慎重でないと彼らを 踏んでしまうからです それで 毎日瓶を 出して 大きな瓶です 彼らを全部入れます そして散歩に行って 彼らを連れ散歩に行き 大きい岩の上に置いて 彼らの姿が消えます ですから 私が動物に対して 大変友好的なので 動物も私に友好的だと 私は思います 想像できますか 動物もこのようなので 人間に対して 全衆生 全ての人 全衆生に 対して友好的であれば 世界に戦争はなくなる ですから私達は今日か 明日「平和プログラム」 始めましょう

行動で始めるべきです 殺生の習慣を 抑えることから 始めるべきです できるだけ 命を守ることから 始めるべきです 平和は私達から始め 私からあなたから始め そうすれば世界中が 平和になるでしょう そこに座って 大統領や平和の使者が 来て話すのを待っていられません いいえ私達は自分で それを決断すべきです したがって 私達が瞑想して 肉の摂取を 少なくするなら 自身の中がより 平和になると思います 私達が平和になれば なるほど 一種の目に見えない 平和な雰囲気を 周りに発し それは みなに影響します それで平和のことを 口にしなくても 平和になります 平和を主張する 必要がなくなりますが 平和になるでしょう 同意できますか(はい) 有難う 有難う

私達が浄化し続ける なら 神に近づく ことができます そして何であれ 信じているパワーに 神を信じるなら 神により近くなり 仏陀を信じるなら 自分を浄化して 仏陀に より近づきます これは確かなことです 私はそれを試みたので あなたに喚起します 自身に善良さがある ことを忘れないように 思い出させるのです 神が内に宿ることを 忘れないでください 仏陀は心の中にいる ことを忘れないで 神が内面にいるのを 忘れないでください 内に仏性があることを 忘れないでください このパワーを探して 見つけて目覚めさせて 助けを求めれば 助けを得るでしょう 加護を得るでしょう すべての恩恵が あなたにありますよう

ヒマラヤでの 修行の体験について もっと話して 下さいませんか 私達は霊的体験の為に ヒマラヤへ行く 必要はありません 私の霊的体験は ヒマラヤで始まった 訳でも 終った訳でも ありません 私は人生の毎秒毎分 霊的体験があります でも私は全てを 話すことができません 長くて 多すぎて しかもあなたの予想と 想像を超えています あなたが私達に加わり 同じ修行をすることを お勧めします するとご自身で それが最良と分ります 飴についてずっと 話しているだけで 自分だけ食べるなら 何の役に立つでしょう

あなたは食べません それで話せば話すほど もっとよだれが 出るだけです でも私は 全経典に語られている 「最高の体験」を 既に体験したと あなたに言えます それであなたは毎日 更に進歩します 一つのレベルに 止まる事はありません 体験は日に日に 多くなります 最高の体験が 私には既にあります 話せるのはこれだけ いいですか 適切な指導なく 瞑想すると発狂したり 邪霊の影響を 受けるかもしれないと いうのは本当ですか はい 本当です だから私が教えた事を 人に教えてはダメです それで弟子に 体験や修行方法を 他人に話すことを 禁じています 私達に愛がないとか 何かを秘密にしたいと いうのではありません そうではないのです 弟子達には まだ十分な力が ないので 彼らの いわゆる「生徒」を 保護できないからです ですから私は 状況を見て教えます それで私は先ほど 菜食しないなら 瞑想は一回に 三十分だけにすべきと 話しました しかも私はこの基本の 簡単な方便法を 教えているので 私は皆さんに対し 責任もあります

それで瞑想中に 困難があればいつでも 私の名を呼んで 助けを求められます 私はあなたを助け その時 あなたは何も 問題なくなります 一人で座るのではなく 私はあなたと一緒です

あなたは私の所へ 来る必要はありません 心で私に話せば 十分で 私は分ります

VIPの言葉の引用 秒読み前 交代制1

この地球は苦境にある私達は超えてはならぬ 一線のごく近くにいて もしかすると 明日朝 目が覚めると結局 救う術は何もないと 気付くかもしれない

家畜と肉の問題は 食の問題だけでない それは環境問題です

牛や豚の飼料として 広域の土地使用が 原因の環境破壊は 実際 すさまじく 多くの土地を 取上げています 植物蛋白質なら 本当はより多くの 蛋白質の生産に 使用できるはずです 動物性蛋白質を 作るのは 浪費です

温室効果ガスの排出を 多く引き起しています

我が国の 温室効果ガス排出の 50%は 主にメタンの形として 農業分野から 生じています

特に 国連で また他の組織でも 肉を諦めるよう 人々に奨励しています

私達が自らの食べ物を 変えない限り 他は重要ではない 私達の森のほとんどを  破壊するのは食肉で 水を汚染するのは 食肉であり 病気を生み出し 私達のお金を 病院に流用させるのは 食肉だからです だからそれこそが 地球を救いたい人の 一番の選択なのです

もちろんそれは 新種の消費者行動と 生活様式を意味します そして私達全員 政府 企業 市民社会 個人 私達全員に 主な役割があります これは疑いようもなく 皆が立ち上がれる 私達全員の挑戦です

子供達のために残す この地球を 保護すべきです 人道的な価値に 基づいた希望を 選びましょう 断固として人類が 優先順位の中心に いるようにしよう

ベジになって エコを実践 地球を救おう

また赤ん坊の 出生後も その世話はどの動物も 殺さぬようにすべきで 母親に肉の多い ご馳走を与えず 酒を飲むため 肉を食べるために 多くの親類を 集めてはならない それは正に出生のとき 大変な状態にあり そこには臭い血を食べ 尽くしたい数えきれぬ 凶悪な悪魔 怪物と 子鬼がいるからである 肉を消費するために 無知な方法で  逆に動物の殺害に 頼ることによって

彼らは自身への呪いを もたらす  それは母と子にとって 有害である ~地蔵経 

誰かの死後 数日は 慎重にせよ 悪魔と神々を 崇拝したり  生け贄を捧げることで 殺生したり破壊したり 邪悪なカルマを 作らないように

なぜならそのような 殺害と虐殺が係わり あるいは崇拝が 行われたりこのような 生贄が捧げられるのは 死者のためには ごくわずかの 利益さえ ないばかりか 更に罪深い 過去のカルマに 絡み合わせ 更に深く より深刻なものに するからであるゆえに 良い状態での 彼の再生を遅らせる カルマとは報いのこと ~地蔵経
他の瞑想方法で 修行している人達は 彼らの方法が 正しいかどうか どうやって分りますか あなたの方法に 変えた方が賢明ですか 状況はこのようです 誰もが違います ですから自分にとって 最も良いと感じる 瞑想方法を選びます どんなに私が 観音法門は安全で 最も速く  最も良いと話しても 関係ありません でもこれを受入れられ ないと分っています それであなたは自分が 最良で最も安全だと 思ったことをします あなたの瞑想が日々 更なる平和と安息 智慧と愛を もたらすなら それは正しいものです あなたを傷つけません しかしあなたが瞑想し 何の進歩もなく 思いやりも 智慧も 満足感も得られず 心に平和もなければ あなたは別の法門を 探しに行けます

私が言えるのは 私の提供する法門は 完全に無料で 何の義務も条件も ないという事だけです しかも最良で 最も安全で速いのです 私個人はあなたが 仏陀になるまで あなたを保護できると 保証できます 他の法門に至っては 自身で試すしかなく 私は保証できませんし それが最良とも 言えません 開悟の感覚を お話し頂けますか 描写できないことを どうやって話せますか 恋愛経験がありますか ありますか ないですか(はい)

ありますね あなたは恋愛の感覚を どんなものか 他人に話せますか もちろん話せません これらの事は 自ら体験すべきですね ですから最良の方法は 私達に加わることで あなたはとても素早く 開悟がどんな感じか 分かります 印心の時に すぐに分かります 私はただあなたに 非常に素晴らしいと 言えるだけです ヒマラヤから来られた 親愛なるマスター なぜ一部の人には 第三の目があるのか ご説明願えますか なぜこれらの人々には この種の進歩した パワーがあるのですか 私達みなに 第三の目があります ある人は少し 開いているか  完全に開いていて ある人は盲目です なぜでしょうか これは因果の法則に よります ある人々は過去世か 今生で沢山の 慈善を行ったか  ある人々は開悟した マスターに出会い 無意識の内に マスターから 幾らかの加護を得て 突然に第三の目が 開いたのです または彼らは 世々代々修行を重ね ある程度の悟りを 開いているので 今生も続けて修行 するかもしれません

あなたが第三の目を 開きたければ 開悟したマスターを 探しにも行けます 既に第三の目が 開いていて どうやってあなたの 第三の目を開くかを 知っていますので その時 あなたにも 第三の目があります 誰もが皆 第三の目を 享有しています 蚊はどうしますか 私達は蚊も殺生すべき ではないのですか 殺生すべきでないです 蚊は私達を刺して 病気をもたらします 我が身を守るため 蚊を撲滅すべきでは ありませんか ありがとうございます いいですか 蚊にも 彼らの役目があります 夜 蚊が私達を 起こすので 私達は 起きて瞑想します 私達は常に 楽観的でいるべきです 常に人生の明るい面を 見るべきです 現在蚊を避けるための 多くの物があります

蚊帳を使ったり 家の中を清潔に 保ったりなどできます でも私は皆さんに お伝えできます 観音法門は蚊を 追い払う事も可能です 私の弟子の多くは 印心して観音法門に 入門した後に 彼らの家の蚊が 突然 別れも告げずに 引越して行きました 蚊が出て行かなければ あなたは蚊帳や 薬を使って あるいは 道徳的な生活を送って 自分を守ってください

あなたが 他人の命を助け 生き続けさせるなら 神もあなたを守ります それで私は動物の肉を 食べないよう言います すると動物はあなたに 友好的になります 自身を守るために 蚊を殺しても 大して役立ちません その時 虫の病に 掛かったり 他の報いを 得るかもしれません だから自己を守る 最良の方法は 神の愛と仏陀の慈悲に 自己を委ねることです 毎日 誠心誠意に 保護と助け 指導を祈ります そして毎日少なくとも 三十分の瞑想をします そして全生物に対し 出来る限り慈悲深くし 慈悲の象徴として 菜食の食事を試みます するとあなたは 自分の人生が 好転するのに 気付きます 私達は常に全災難から 逃れられません 私達は道徳と 神の保護によって 自己を守るべきです

人は自分の瞑想方法が 正しいかどうか  どう分かるのですか  瞑想が進歩したか どう分かるのですか

既に言及したように どんな瞑想でも 愛と智慧に満ち 満足感と平和を もたらすのであれば 少なくとも正しく 害はなく 有益なだけです それは正しい方法です 同じように 愛に満ち 平和と智慧を得るほど もっと進歩したことを 物語ります 私達はこの方法で 自分の成長を測ります 一日数時間も修行して いるにも関わらず 人に対し愛がなく 寛大さもなく 心の平和もなく 智慧も進歩して いないとしたら それは瞑想結果が ないということです

観音法門の瞑想法は 最良です  短い間に自分が変って いくのを体験するから 完全に変るのです 以前は 怒りっぽく 愚かで のろのろしてましたが 今は 違うのです もっと愛に満ち 平和で寛大で賢いです 以前は仏典や 聖書あるいはどんな 経典を読んでも 何を言っているか 分かりませんでしたが 印心して観音法門を 習ってから どんな経典でも 何を言っているか すべてすぐ分かります 誰にも解釈してもらう までもありません これが観音法門を 修行した体験です だから私達は 観音法門が最良で 正しいことが分ります 私達は何かの宗教を信仰したいと考えて いますが 妻は キリスト教を望み 私は仏教を望みます どうしたらいいですか あなたがお寺に行き 奥さんを教会に 送ったらいいでしょう

夜家に帰っては互いに それぞれのところで 何を学んだか交流 したらいいでしょう あなた達の生活は もっと多彩になります

二人が別々の物を 学んで家に帰って 互いに交流することは いい事ではないですか

とても良い解決法です ありがとうございます

輪廻について どう考えますか

私は輪廻はあると 信じています 実際私達は自分の目で 見ることができます 観音法門を習って 瞑想をすると 私達は異なる 世界を見ます 第一界では 光と音と 美しい人々を見る 体験をします 色んな世界に行き 色んな異なる 神通力を持ちます これは第一界です 第二界では 自分と人の過去を 見ることができます そして確かに輪廻が あることを知り  そのプロセスを見ます 人から話を聞く必要も なく自分で体験できて 第三界では 違った事を 体験します 第四 第五 第六 第七界と続きます それで私は輪廻がある 事を知っているのです 私の弟子達も輪廻が ある事を知っています これは人から聞いた 話でもなく 聖書や仏典または 他の経典による 知識でもありません 私達自身の体験に よるものです

瞑想をする時は 思考をしないのに どんな機能をもって そういった事を 感知するのですか 私達は何の機能も 使用しません 瞑想の時は 頭脳も口も 耳も目も 体の感覚も 思考もありませんが とにかく分かるのです それを体験するのです 明白に分るのです

目を使わずに 見て 耳を使わずに 音を聴き 頭脳を使って 判断したり 体験を 分析したりしません 説明は難しいです 世俗的な事に 例えて言うと 例えばあなたが誰かを 愛しているとします 相手もあなたを 愛しているとします 皆がよく知っている 感じですが 一体何の 機能でそれを知るのか 分かりません ただ 分かっていい感じ でもあまり良い 例えではありませんが 悟りを開くとは どんな意味ですか 悟りを開くとは 無明の反対語です 例えば以前は 愛についてよく 知らなかったです 宇宙の機能についても あまり知らず 私達の体や神や 仏陀についても知らず 自分が誰なのか どこから来たのか 死後どこへ行くのかも 分かりません これがいわゆる無明で 今 悟りを開くとは これらの事を 全部知るという事です 最も大事なのは 悟りを開くほど パワーが備わります このパワーは精力的に なるのではなく 愛に満ちた力なのです 皆に愛され そしてこの愛をもって 人々を救うのです 例えば  私達と観音法門を 修行すると 悟りを開きます なぜなら内在の 愛のパワーが 開いたからです 亡くなった 五代先祖までも 救われます 彼らが地獄にいる としたら天国に行き 彼らが 動物の体であれば 死んでから 人間に生まれ変り 解脱できます

これが悟りを 開くということです 大体こんな感じです ただもっと多くの事が ついて起ります 言葉でうまく 表現できません 特に こんな短い間でです 一番良いのは 私達と観音法門を 修行して自分が 悟りを開くことです 徐々に自分が知りたい ことが全部分かる ようになります これは宗教に関する 質問です 神とアラーと仏陀は 同じなのかと 聞いています 同じです マスターは仏教に 属しますか それとも  キリスト教ですか どんな宗教にも 属しません 私は真理に属します 仏陀は神ですか どっちが良いですか 仏陀と神とどっちを 信仰したらいいですか この人は 仏陀 アラー 神は 同じなのかと 質問しています 私の知る限りでは 同じです これを信じるか 信じないかは あなたの権利です 私は自分が知っている ことを提供します 聞かれたからです 二つ目の質問 私が仏教徒なのか クリスチャンなのか 私はどっちでも ありません 私は真理に属し 真理を教えています 仏教と呼んでもいいし キリスト教 道教 好きに呼んでいいです どっちも歓迎します 三つ目の質問 神と仏陀は 同じなのか 神と仏陀と どっちを信じたら いいかについて 私の答えは 神のパワーは 仏性と同じものである ということです ただし仏陀は同じでは ありません

仏陀は神のパワー 仏陀のパワーから 生まれたもので 仏陀はこの世界に来て 私達を教えるためです 仏陀がこの世界に来て 私達に近づいて 来た時 彼は神の パワーを 仏陀の パワーを備えています 彼 彼女どっちでも 区別しません 女性でも仏陀に なれます 絶対にです

この根本的なパワーは 一人の人間ではなく 一種の存在であり 力なのです この愛に 満ちたパワーを言葉で 表現できません これは 想像もできない 偉大な慈愛であり 全ての物を創造し 全ての面倒をみます ただ時々人間は この偉大なパワーの 指示を聞き入れようと しません そこでこの偉大な パワーは人間の体を 通して この世界の 人間の形に現れ 人々に私達の内在の 偉大なパワーを 信じるよう 教えるのです そこでキリスト教では こう言っています 汝が神の神殿である ことを知らないのか 神は汝の中に宿り 汝の中に生きていると 釈迦も全ての衆生は 皆仏性を持っていると 言っています これは同じことです 従って仏陀のパワーと 神のパワー 釈迦牟尼仏陀  預言者とは 異なるものです

預言者達は 神と仏陀の 慈愛のメッセージを この世界に伝えます 仏陀や神のパワーは 宇宙の万物の中に 平和的かつ慈愛に 満ちた形で存在します

ただその存在を人に 分からせません 分ってもらうには 人間の体に入って 肉体を使って 話しをします どう行動すべきか どうしたら内在の 偉大な造物主または 仏陀の偉大な力を 体験できるかを 諭すのです 仏陀も預言者です 英語の意味は預言者 開悟したマスターで この世間に最高の パワーに関する メッセージを伝えます

これが 仏陀 神のパワーと 神との違いです 実際には 大差ありません  仏陀は預言者であり 神と一つになって いるからです 老子も 万物は同一体であると イエスも 私は天なる父と 同一体であると 言っています 釈迦牟尼仏陀はまた 私は仏陀になった 今私は万物と 何ら区別がないと 言っています これは 表現しにくい事です 最高の立場からすると 仏陀と最高の神は 違わないわけです 仏陀は預言者で ありますが この世界の観念から するとやはり違います というのは 神は神で 仏陀 預言者も 神なのですが 同時に人間なのです 人間として存在する 場合 見た目も人間で 人間の弱点もあり 肉体の需要があります 食べなければならず トイレにも行き 睡眠もとり 話もして 服も着て 病気もするなど この観点から見ると 神ではないのです

しかし彼は完璧な神の パワーを備えています 神は永遠に病気せず永遠にトイレに行かず 永遠に眠らず 永遠にレストランに いきません 私達の智慧のない 目から見た場合 両者は違うのですが 実際は何の違いも ありません この肉体は偉大な パワーの道具なのです

理解し難いことですが 頑張ってみてください 従って 神を信じてもいいし 預言者を信じても よいのです

預言者を通して 神を信じてもいいし 仏陀を通して神を 信じてもいいのです そこでイエスは 誰も私を通さずに天の 父の元へは行けない と言い 釈迦も 仏陀に会っていない人 仏陀を見た事がない 人は解脱できないし 最高のレベルにまで 悟りを開くことは できないと 言っています

皆同じ事を 言っています 言い方が違うだけです

彼は超越瞑想法と 観音法門はどう違うか 聞いています 超越瞑想法です ある人が 超越瞑想法と 観音法門はどう違うか 聞いています 大きく違います その違いは 男女の差のようです 大きく異なります 瞑想法も 同じではなく 戒律もまったく 異なります

例えば超越瞑想法を 学ぶ時 彼らは 詳しい説明がないです なぜ菜食しなければ ならないのか なぜ五つの戒律を 守らなければ ならないのか

なぜ殺生せず 盗まず 嘘を言わず 邪淫せず ドラッグを作らない 使用しない 賭博を しないことについて またこれを強調せず また毎日 二十分瞑想する ことを教えます それ以上はできません 私達の瞑想法は もっと厳格で 菜食しなければならず 毎日瞑想し 徐々に  一日二時間半 瞑想せねばなりません そして戒律を 守らねばなりません また多くの 些細な事の面でも 大きな

違いがあります 瞑想の技法も 異なります 瞑想技法が違います

禅はただぼうっと 座っているだけですか どうしたら 歩くのも 座るも立つも寝るのも 禅でいられますか 禅は無論 ただ座って いるのではありません 歩くも座るも立つも 寝るも禅です 開悟した人だけが これを語ることができ これを知っています 例えば 観音法門を 修行する人は 開悟後 いつでも 仏陀の加護が分かり いつでも 神の愛を感じ いつでも神と通じ合う ことができます 立っている時でも 座っている時も 寝ている時も神と 通じ合う事ができます 仕事をする時でも 神を見る事ができます 私達の修行仲間で タクシーの営業のため 忙しくて 瞑想する時間が ない人がいます 彼は運転する時 阿弥陀仏や極楽浄土を 見ます 運転しながら 極楽浄土をみるなんて 皆さんには想像も つかないことです でもこれはわりと 高いレベルの禅定です 普通私達は静かに 座っている時に 禅定に入りますが 慣れたら 歩くのも 座るのも  立つのも 寝るのも 禅定状態でいられます 最も高いレベルは 食事の時も同時に 禅定でき 話をするときも 禅定の状態にあり 怒る時も 本当に怒るのではなく 例えば子供が何か ミスを犯した時 怒るわけですが 怒る時も依然 サマティーにあり いつでも人を救い 化身が 千百万億の場所に 現れ人を助けます これが最高の 禅定の状態です 日蓮宗は 南無妙法蓮華経を 唱えますが これは観音法門と どう違いますか

もちろん違います  私達は日蓮宗ではなく それも唱えません しかしその宗派を 排斥しません 以前にも言ったように 私はもちろん 観音法門を宣伝します なぜならこれに 自信があるからです 私自身体験があります これが好きでなければ あなたにとって 最も楽で あなたに適した法門を 選らんでもいいのです 私は中国大陸で 日蓮宗の人に 会ったことがあります 彼は日本人でした

彼は日本の日蓮宗派に 属していました 私は日蓮宗ではないと彼に言いましたが 彼は跪いて 拝むのでした 区別心がないのです

それから彼は私に 加護を求めました 言葉が通じないので 交流できず 私は 日本語ができません 彼は自分の帽子を 脱いで手でこのように 軽くたたくのです 私は彼が私に加護 しようとすると思い 私も帽子を脱ぎ 彼の加護を求めると すると彼は跪いて 彼は私の手を取って 自分の頭に載せました それで分かりました 彼は私の加護を 求めていたのです 彼が私を加護する ものと思い帽子を脱ぎ 待っていたのです 実は彼は私からの 加護を求めたのです

私は手を彼の頭に載せ 南無妙法蓮華経と 唱えました とても喜んでいました

私は彼に観音法門を 修行するよう勧誘して いませんし 菜食を するよう強要しません そうはしません ただ誠意を込めて 彼のマントラを祝福し 彼が今後これを唱える 場合 もっと パワーに満ち もっと助けになり もっと自信に満ち 利益があるようにして ええその時私は 誠心誠意だっただけで これは違います 決して私達が日蓮宗に 属し 日蓮宗の法門を 学んでいることとは 違います なぜなら  彼は日蓮宗が好きで 私はただ 彼のマントラ 南無法蓮華経を祝福し 彼がもっとよく唱え られるようにしただけ その宗教を信仰して いるのと違います マントラは唱えません 一日中 唱えたりしません 唱えないのです 私達は静かに修行し 時々七日間の 禅会があって 一週間瞑想します 一千人以上 数百人の人が 集まっても  とても静かなのです 何の物音もしません 経の講義の時以外は ずっと瞑想しています 食事の時もあまり 話をしません 必要であれば話します でも低い声で話します 私達はとても静かです

私がフォルモサ (台湾)にいた時 毎週多くの人が 来るので駐車場が 足りなくて 路上に長蛇で車を 停めていました しかし何の物音もなく 騒音もありません 私達は無言で 唱えます 大声で唱えません 唱えるとしても 無言で唱えます

金剛経に 色で私を見て 声で私を求める者は 邪道を歩むのであり 如来には会えないと 記載されています マスターが 言っている 観音法門は  光を見て音を聴く 法門で  これは金剛経に 違反しませんか だとすると釈迦も 金剛経に違反した ことになります 彼も仏陀は 光がある事を強調し 自分も仏陀の光を 見たと言っています 極楽世界を強調し 音も色もあります

ここで言う 音と色は 釈迦の言う意味は 外面での 音と色を指します 例えば 読経に執着し 木造の仏像を 拝むことに執着し 読経 仏像拝みに 勤しむと 大変な 努力を払って始めて 仏性を得る事ができる という意味です 音と色はこのような 意味なのです もう一種の光は 仏陀の光で 仏陀の境界では 音も色もありません

それは私達の耳で 聴いたのでもなく 目で見たのでも ありません  それは音でもなく  色でもありません 瞑想の時 足が痺れたら どうすればいいですか 我慢することです しばらく我慢すると それがなくなります それでよくなり 禅定に入ります

皆さん お休みなさい そしていい夢を見て 神と仏陀を忘れない ようにして下さい

牛や豚の飼料として 広域の土地使用が 原因の環境破壊は 実際 すさまじく 多くの土地を取上げて います そこは 植物蛋白質なら はるかに多くの 蛋白質の生産に 使用できるはずです

 
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