智慧の言葉
 
父と同一体    Part 2
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ある夜 夢を見ました (そうですか) 仏陀に会う夢でした

彼はまばゆい光の中で 大きな家の中で 巨大な身体でした (そうなら本当です) マスターのおっしゃる 「弟子」が二列になり 数千人の弟子です ええ ええ そして仏陀は私を招き 前に来るよう言い 私は前に行きました 怖かったです 私が見たサイズは (とても巨大で) 降りて風呂に入ると 上から声がして 私にこう言いました 「お前は上手く 井戸から降りてきた 井戸の底で 生き残るだろう」 中には悪魔が 生き物か 悪魔か何かがいました 風呂で清めた後 生きて出てきました

弟子が入ってきて 私に服を着せました 頭を丸めました 頭を剃りました はい  そして私は完全に 落ち着きました 出家すべきと いう意味です あなたは今世で 僧侶になるはずです でも夢で それを果しました だからもう済みました (私は幸運です) 彼はイエスの夢も 見ていますよ ええイエスや仏陀皆が あなたを愛しています 当時 私は八歳でした 四〇度の 高熱におかされました

意識を失いかけました 死にかけたのです 私は人ごみの中に彼と 机を見ました そこに立って私を 秤にのせました 悪魔が言いました 「軽すぎだ 帰れ」 私は雲の上を歩き それで彼らは言います 「お前は生きている」 最近まで まだ五十過ぎですが また仏陀を見ました 仏陀もイエスも両方 強力だと思います 二人の神に祈らねば なりません多過ぎです 彼も仏陀にも 祈りますね  ええ いけませんか 両者とも仏陀です なるほど 前に言いましたが どちらも悟った仏陀で 神の悟った息子です いずれにせよ 

私は祈り続けるべきですか(イエスに) 仏陀かイエスに両方に祈りなさい それはどうですか 彼らはどちらもきて 彼らが同一体だと示しそちらも全く同じです開悟した神の子です つまり教師なら誰でも仏教かキリスト教を教えます 仏教とキリスト教は 似ていて同じなので 受入れるべきです それがあなたの夢の 意味です だからあなたに仏陀と イエスの両方が 現れたのです あなたは加護されて 病気が 治ったのです それは吉兆です キリスト教徒で い続けるなら 教会へ行き 祈るのです

仏教徒になりたいなら 寺に行って 祈るのです 両方を 信じたいなら  交代で 教会に行き 寺に行くのです 両方を上手い具合に 合わせたいなら 私達と共に観音法門を 修行できます

イエスに会いに 行きたいなら 私は 居場所を知っています 仏陀に会いに 行きたいなら 仏陀の 居場所も知ってますよ 両方に会いたいなら 私は両方の場所に 連れて行けますよ 父なる神に 会いたいなら イエスと仏陀に 会いたいのなら あなたが死ぬ 最後の時 キリスト教 或いは仏教のどちらに 私達は行くべきですか

私達ではなく 誰かが 私達の為にすべきです

儀式のことですか お葬式ですね これは厄介です これが厄介の元です

ええと はい 複雑です 誰も今までそんな 葬儀を見ていません ええ 厄介 厄介です こんなのはどうですか 交代で ある日は 仏教の葬儀にし 翌日は キリスト教の葬式です

ほらね 私達 観音法門の 修行者は気にしません 私達はイエス 仏陀を イエスも仏陀も 皆が神といると 知っていますから だから私達が父の所に 行く時 両方を見ます 葬式に関して もはや大騒ぎしません それは自分の行き先を 前もって 知っているからです 自分のために他の人が 祈る必要はありません するとしても 真の修行者に 来て 座って 瞑想し 私達のために祈り 神の家へとより高く 押上げる力を足して もらう必要があります それだけです 私達は沢山の 準備をしません 騒ぎません 大声で祈ったりせず ただ内面で祈ります 神は分っています

聖書にこうあるから 「汝は祈る時 納戸の中で 秘密裏に祈るのだ そうすれば天なる父は わかるであろう」 「秘密の部屋」とは 内面です 「納戸」で祈るとは 内面のことです 神は皆さんに 納戸の中に入って 閉籠りなさいとは 言っていません そう「納戸」は 秘密の場所であり 皆さんが祈る所です 私達が祈る場所です 私達は「納戸」で祈り 神は分っていますし 神はご存知と分ります 私達は毎日 神とつながり 私達が到着する時 即ちこの世を去る時に 神がそこにいると 確かに感じるからです だから殆んどの人達の 様な祈り方はしません 私達はそうできますが 見る事で内面を理解し 分かっています

あなたのこの質問に 対して答えられるのは この解決法だけです 交代でやってみなさい ある日 仏教の葬式をしたら 翌日はキリスト教です その逆でも構いません 私達には この問題は 省かれます 花や線香 その類の物 それから肉  ありとあらゆる物を 省きます 静かに祈るだけです

私達が神を語る時 形はありますか (いいえ ありません) でも聖書には 私達は 神の姿に創られたと あります 神の ええ ええ なぜこうなのですか 聖書は間違いですか いいえ 違います 形はありますが 人間の姿ではないです 例えば 神は私達の考える様な ものではありません 神は自身の似姿に 私達を創造します つまり私達は光であり 力であり 智慧であり 愛であり ただ 神のように全能です それでは神は 光の形ですか ええ あなたが神を 見たければ光だけを 見なければなりません なぜなら聖書に神が モーセに現れた時にも 記されているからです

神は炎のようだったと さあ 私の言う事が 分かりましたね ええ 神の姿とは 普通のいわゆる想像の 姿ではありません 神は美です 神は栄光であり愛です あなたが神に会う と言う時 本当に 神を感じる時 どう感じますか

恋人に会ったら どう感じますか 本当に恋人に会ったら 心が溶けます そうですよね とても素晴らしく感じ 有頂天になりますね これが神と会った時の 感じ方です でも恋人との時に 比べたら 一千億倍ですよ あなたがこの世で 一番幸せな瞬間の 何百万 何兆 無数倍の 強さです これで 神に会う時にどう 感じるか分かりますね ですから誰もが 修行したがるのです 誰もが神を 見たがるのです とても卓越し美しいと  知っているからです だから神を愛する者は 皆決して修行から 離れたがりません 分かりますね

本当に心底愛する人に 会う時のように 離れたくは ありませんし 一緒にいると 気分が良いのです 何が起きようが 構いません ただその人から 離れたくないのです あなたがこの瞑想法を 話された時 実際には どれほど必要ですか 修行せねばだめですか 毎日 瞑想しないとだめです それは魂の糧です どれぐらい時間が かかるものですか 二時間半です 二時間半ですか はい ですが習慣で 日々増やせます 初めはできないかも しれませんので 一時間にしてもいい ですが 一度に続けて する必要はありません 分けてもいいです

ここで三十分 あっちで三十分 それで構いません ですが長い間 修行した後は あるいは いつか とても慣れるでしょう それにサマディにも 入るでしょう 深い至福の境地の様で あなたは出てきません 時には 六時間経っても 気づきません 瞑想法を学ばれた ことはありますか 私達は皆 瞑想の 方法を知っていますが 忘れているだけです 私が思い出させますよ 瞑想中 頭脳は 何を考える ものなのですか (何も) 何も 自由です 静かに座るだけですが 後で詳しく話します そんなふうにただ聞き 家に帰って 座って 独りでやって 問題を起こさないで 学びたいなら 正しく学ぶことです

私がゆっくり 教えます 学ぶ時間を 取りたいなら すべてを知るには 数時間の 説明が必要です そうでなければ  無言で座るという 一文だけ聞いて ただ無言で座っても 静かにならず 厄介なことになります 分かりました 明後日 印心があります 完全に 学びたいのなら 申し込めます しかし 今から 菜食になる必要が あります まだなって いないのなら 美味しい飲み物を 入れたいのなら コップを洗います コップが汚いと 飲み物が台無しです

そうしたら美味しい 飲み物になるどころか 中毒を起こすでしょう それで多くの人々は 精神に異常があり それは彼らが 神と接触する 正しい方法を 知らないからです 神のそばに行くには 私達は行動 言葉と 思いを浄化せねば なりません でも実際に体験して 学びたいのなら 弟子が説明できます その方が早いです いつでもここに来て いいです 瞑想方法を あなたに教えます 何かを学ぶには 時間が掛かりますが その方が安全です

悟りに時間がかかる 訳ではなく 沢山の情報を 知る必要があり 天国への道は 長いからなのです 毎日行くべきで 毎日 一インチ 神の王国に 近づくのです ほんの少し知る事は できません それは 問題に出くわす場合に 自分で対処する方法が 分からないからです

従って 責任は私達が とらなければ 私達が教えたら貴方は 完全に独りでも自分を 面倒見ねばなりません そうしないと 悪魔の 罠とかに 遭遇する時に 誰が助けますか それは良くありません 印心には何が 含まれますか 多くは含みません 私達は先の道について 時間をかけて 以下を説明します  問題に出くわしたら 何を見て それに どう反応し  どう理解して  どんな光が神の光か そして どんな音が 神の音で どんなものが 違うのか 何を避けるべきで 何に注意するべきか 印心は 公式な儀式では ありません

内的な伝達ですが 外面的な指示が この先の修行のために 必要なのです それは 一日だけの 修行ではないからです ただここまで進んだら 終わりではないので あなたはもっともっと 先へ行くのです それで私達は基本的な 情報をいわば 説明せねばなりません それだけの事です   だから時間が多少必要 悟りに時間は不要です 開悟はとても 速いのです 印心を受ける時は 接続するようなもので すると 光を得ます

マスター 私達が 自らを創ったと言われ ましたが 聖書には 神が創ったとあります その文について 説明して頂けますか はい その通りです しかし神は誰ですか 「汝は神の寺院 ではなく 聖霊が汝の中に宿る ことを知らなのか」 だからあなたは神です 神を実現するまで それは分かりません 父なる神と一つに なるまで そうしたら あなたは叫べます 「神と私は一つだ」と あなたが神という意味 聖書には 沢山書かれています 一つではありません それで 違うレベルで 違う質問に 答えるために 私は 違うことを言いますが 全て聖書にあり それから外れてません

あなたが神の神殿で 神があなたの内に 宿るなら ここに 神の他に誰がいますか 聖書で神が貴方の内に 宿ると言ってるなら それは「私達」ではなく 神なのです マスターは私達は神の 神殿だと言いますが それでは 私達は神の 一部だと言えますか すなわち 神は 一つの単位であり 私達は多くの単位に 分けられたと 神は大きな単位であり 私達は小さな単位だと そう言えますか そう言う人もいます でもそれも本当です

私達が父なる神と 一体でない限り 私達がまだ悟りを得て いない限り そして イエスがしたように 神の子の位置に昇って いない限りはそうです いったん その位置に昇ると 父なる神と一体だと 主張できます その時 私達は全体で 神であり 神と一体で あり 分離しません 今のところ 私達は離れています

離れているのを知って 離れていると思うから 私達は神から離れてる ことより良いものは 何も知りません しかし後日 私達が 修行すると 修行して父なる神と 一体だと 分かります それでイエスは生存中 こう言ったのです 「私は神の子であり 私と父は一体である」 人々は彼を 信じられず 「あなたは神聖冒涜で 神を侮辱しています よくも自分と神が一体 だと言えたもんだ」と でもそれが彼の水準で それで彼は知るのです でも私達は知りません それは私達が イエスでないからです それで彼を崇拝 するのです 彼はその レベルに達し 私達は 達していないからです

でも私達も出来ます イエスが約束しました 「私のする事は何でも 皆もできる 一層よくできる」と そう言ったでしょう また彼は言いました 「皆 神の子である」と 自分だけが神の独り子 だと言いませんでした マスター イエスと 私達の間には違いが あると感じています イエスは神と決して 離されませんでしたが 私達は離されています それでイエスを神の子 だと皆は言います そう私は信じています あなたが言いたい事は 分かります イエスが 悟りを得る前 彼は 自分が神の子だとは 主張しませんでした 砂漠で四十日間 瞑想に沈んだ後に彼は そう主張しただけです

その時 彼は悟りを開きました その時 彼は自分が 誰か悟りました その前は 私達の様に凡人でした 自分が神の子だと 知りませんでした ね 彼はその前 三年半は 説教しませんでした 彼は自分で何も   主張しませんでした でも 聖書によると イエスは生まれる前に 神であったと 述べています ええ 彼は 生まれた時 神でした それ以後 永遠に 彼は神でした それは 彼は常に神という意味 でもマスターによると 彼は修行して ようやく神になったと  おっしゃいました

いいえ 彼はいつも 神の子でした 常に神といましたが 彼は悟りを得るまでは 知らなかったのです 同様に 私達は いつも神と一緒でした 私が 皆いつも神と 共にいて神は皆の内に 存在すると言っても あなたは信じませんね

あなたの神 私の神 それは同じものです あなたと私のレベルは 同じで 等しいです でもあなたは決して 信じないでしょう 私達の観点が異なり 理解が 異なるからです でも 私達は神の子で あり 私達と神が一つ であることは本当です そう言う他ないです それは百%真実です 自らそれを悟るまで 私を信じるのは 難しいです イエスが 在世中 弟子に こう断言した時 イエスを信じ難かった のと同じです 「私のする事は何でも 皆もできる」 「私の父なる家には 沢山の部屋がある」 「私を信じる誰であれ 父の下に行き 決して 暗闇を歩きません」と しかしそれでさえ 彼が生存中に彼を信じ 彼が歩いた道を歩く事 それが彼を 信じるという事です

さもなければ 皆は今 彼を信じていますが 皆が父なる神の下に 行く訳ではありません 誰も戻って来て貴方に 父なる神の下に行った と言いませんでした しかし 私達の弟子は 毎日戻って来て 言います 「たった今 天なる父と共にいた  私は面と向かって 神を見ていた」と そういったことをです 私達は死者を信じ られません 生者を 信じるしかありません 私達は今 証明する しかありません 二千年前の事を証明 するのは難しいです

マスター引続き貴方の  歴史的背景について お伺いして良いですか 今までどうたったかね 私は観音法門を 修行してきました それは何が きっかけですか 調べたのです 私は神と一つに なりたかったのです 仏陀は何かを 知りたかったのです なぜ仏陀は 仏陀になれて 私はなれないのか 知りたかったのです その違いは何か 私は次から次へと マスターを探しました ある寺院から 別の教会まで探して 至る所を探して 最終的に 一つ見つけたのです 正しい所をです

あなたが今 探して いるようにです 多くの教会や 多くの寺院 いわゆる 多くの師の所へ 本当の師の所へ行った かもしれませんが でも満足できず それで いつか あなたが望む誰かに 出会います 彼が

真理を話してると思い 学びたくなるのです そういうことです はい 神が とても純粋でも 私達が罪を犯すのは なぜでしょうか 神はどう私達の中に 存在するのですか 神が私達の内に 宿ったら間違いなく 罪はもうないからです はい それは 聖書の言う 逆説的なことです 一方で 私達は罪深く とても悪いと 言われています もう一方で 神は内に 宿ると言います ですから 直接神に 理由を聞くことを 勧めます

私達は罪深くないです 元々 罪深くなく 決してそうでないです それはただ 私達の人生の経験が 人生での他の 生き物との交流が 状況によって 私達に異なった 反応をさせます その時の判断に 誤った判断か良い 判断かによってです それに応じて それを失敗したとか 間違ってやったと 感じて 罪を犯したと 言うのです また それに応じて とても上手く 良く出来たと 感じれば 福報が あると思うのです 恐らく神によれば 両方に福報と 罪深さがあります 神を知って初めて 神が分かるのです

一度神を知ったら 違って見えるのです 私達は 神の目で見て 無差別の目で見て 愛情の理解の目で 見るからです 悪霊がいないと言う 意味でしょうか 悪霊は罪だからです それは実際 錯覚なのです はい 悪霊はいますが 錯覚はあります 従って 罪はなく 罪はすべて錯覚です しかし この世界に 住んでいる限り こう言えないのです 「すべて錯覚だから 好きな事ができる」と それでも良心の 呵責があるからです 後ろめたい感情です いずれにせよ たとえ  錯覚の世界に住んで いてもそれに合わせて 行動するべきなのです

なぜ他の人を殺す 必要がありますか 私達がそれは錯覚だと 知っていても 彼は知らず 苦しみます 従って 他の人や 他の生き物の感情を 取っておくのです それが錯覚だと 知っていてもです

そして悪を避け 善行をします 他の人に良いからです あなたが開悟しても しなくても 私達は 一緒に暮らすのです 分かりますか (有難うございます) 例えば あなたは父親ですね 子供はいますか (はい) 分かりました

子供がおもちゃで 遊んでる時 あなたは 叱ったり おもちゃを壊したり しません それは 無意味なことです それはおもちゃであり プラスチックであり 子供向けのものです 子供と遊んで言います 「わあ この車は キレイで 速い」とも 小さなプラスチックの 車なのに走らせます 「ブーブー」と そして言います「わあ  カッコ良くて 速い 競争しよう」と そうしたら 子供は喜びます すべては子供の 遊びだと知っていて 責めたりはしません 子供と遊ぶ時は それに応じた 振舞いをします

満足しましたか はい 満足です ありがとうございます

印心を受ける 状況としては 他の人々と比べて 非常に厳しそうですね (はい そう信じます) 一〇〇%従えない 人でも おそらく 五〇%や六〇%でも 印心を受けれますか

ええ 印心の五〇% いいですか そして五〇%の 開悟ですね 神の家に五〇% いるのです では 五〇%は 地獄へ行き 五〇%は 天国に行くのです それでいいですか 取り決めをしましょう 何かをしたい時 何かをしたい時 それを完全に 心をこめてします そうでなければ 事業でさえ 成功しません 英語を学びたい時 先生が教えた すべての文法上の 規則に従いますね そうでなければ 中途半端な英語を話し 同じ時に 同じ時間 学んだのに 無駄にし 文法の規則を 尊重していません それでなぜ英語を学ぶ 必要があるのですか あなたは失敗せずに 毎日二時間半の 瞑想を主張しますか 最善を尽くして下さい 申込用紙では最善を 尽くすよう言ってます

つまり 先生ではなく 自分自身を ごまかさないことです 私はそこにいて貴方が 瞑想に失敗したか どうか言いませんが でも貴方はいるのです どんな事を学んでも どんな事を学んでも 努力をし 正しい 時間を費やすのです 英語を学ぶのに 数ヶ月 数年かかり 毎日かなり学ぶ 必要があります そして 神の近くに いたいのなら 努力すべきです 二十四時間 神から 与えられ 神のために 二時間半しか置かず 多過ぎると感じます 体だけのために 働くのなら この体は短命で ある日それを持ったら 翌日なくなり 毎日八時間 十時間 それに費やし 服を着て 食べます

それで たった 二時間半を 神に費やすのです それが駆け引きだとは 思いません それを考えると 天国に行きたくなり それは難しい仕事です 長い道のりです 長い道です 永遠の命に二時間半は 少なすぎて 儚い命に 八時間は少ないです 考えてみて下さい 論理的ですか キリスト教と仏教を 比較するなら なぜ キリスト教は簡単で 仏教はなぜ 沢山の違う道を行く 必要があるのですか 観音法門のように これらはとても 難しいことです 両方を比べると ほとんど共通していて 結果的には 同じなのです その通りです 私達が 同じ事を得ればです

ご覧のように 私は仏教徒だけでなく キリスト教徒でもあり 仏教徒の 伝統に生まれて 仏教徒のような 生活を送って いましたから 私が仏教徒だという 意味ではなく 本当の キリスト教徒の生活も こうあるべきです ただ私達が仏教 キリスト教を切り離し そして混乱するのです 私は講義で説明した ことがあります 「キリスト」はヘブライ 語で「仏陀」の意味で インドの梵語では 「仏陀」は[キリスト]を 意味します それは「グル」が 英語での「マスター」 英語「マスター」は インド語での「グル」 であることと同じです いいですか 

素晴しい さて永遠の生の方法は 生命を尊重しなければ ならないことです 私達がどんな生命でも 切れば 自分のを 全体の一部を切ります 永遠の生が欲しければ 生命を尊重すべきです そういうわけで 私達は菜食するのです 聖書では 常にそれを言いますが あなたが読まないだけ 聖書で神は言いました 「誰が言ったのですか  これらの雌ヤギと 雄牛を全て殺して 私にささげよと 汝らはこれらの罪を 後悔せねばならない さもないと私は 決して汝の祈りを 聞かない 汝らの 手は無垢なものの血に まみれているから」 ある箇所で神は全ての 人を殺されました

彼らは神にマナの代り 肉を与えることを求め 神は砂漠で常に マナを彼らに与え ある日彼らは 「なぜ肉をくれないの ですか」と言いました 神は肉を与えましたが 彼ら全員を殺しました 覚えてますか なぜ 神は言われました 「飲酒する者 肉食を する者と交わっては ならない」違いますか 聖書にありますね はい 私が仏教徒であると 言わないで下さい 仏教徒の生活様式が キリスト教徒のと違う と言わないで下さい 違いはありません ただ私達のある人は 本当のキリスト教と 仏教の生活を送らない それで 私達は違うと 思うのです

私には 私は 本当のキリスト教徒で 本当の仏教徒で あなたが呼ぶ いかなる本当の宗教の 本当に聖書を よく読めば 同じものです 

今 こうしていることは 仏教徒の生活様式 ではなく 悟りの方法です それは菩薩の方法です 聖人の方法です あなたが常に 人間でありたければ あなたは自分の生活 様式を守ります お金を儲け 子供を産み この世に生きます 世々代々 来世も それに満足すれば それでいいです 天なる父のもとに 帰りたければ 私は本当のキリスト教 及び仏教の方法を 提供します それだけのことです どこへ行きたいか  何をしたいか あなたは選択します

あなたのこれらの 話を聞いて 私は 同意します 好きです でも 一つ質問が あります(どうぞ) これですが 私が この種のレベルに達し たければ 私は尼僧に ならねばならない 印象がありますが (いいえ) あり得ませんか 私は仏教について 学んだとき 強い宗教的な背景を 持ちませんでしたから 私は学んで 探し続けました 私の印象ですが 非常に霊的な 昔の人は 送りません (世俗の生活) そうです 世俗の 愛を有していて 子供もいます しかし 修行生活をするには 世俗的な生活を 放棄せねばなりません 私にとってこれは 霊修行の生活をする ことを意味します

ただ全ての人がこの レベルに至るとしたら 生命は続けられません 私の考えは正しくない かもしれませんが 子供を持たなければ 命は続けられません 霊的な面で ええ 私達は霊修行を続ける 体が必要だと思います よくわかりませんが つまり 子供を持つと 世俗的な生活を営み 高い意識レベルに 到達できないという 意味ですか そうです 子供がいれば 必ず彼らの 面倒をみることですね (そうです) 負担になるという ことですか こういう意味ですか そうです 完全に 自由ではなく 修行生活を送る事です 講義を聴きながら 感じた印象です

釈迦牟尼仏も 家族を離れて 悟りを開きました 彼は出家する前に 子供と妻がいました 前に子供がいました 分かります しかし開悟した後 妻も子供も いません(そうです) 私の質問は 世俗の生活を しながら同時に 修行し開悟できるか ということですね そうです (できます 可能です) でも もちろん 世俗的な欲望を 最低限にできる限り 減らすことです けれど誰もが子供を おいて出家できる わけではありません 心で出家する ことができます 戒律を守り 妻や 子供を 修行仲間として または仏陀の子供 として見なし仏陀や 神の子供の世話を 責務とするのです 尼僧になって 尼僧になって 慈善の仕事をし 他の人の世話をする のと同じようにです 縛られてはいますが 超越します

家庭を持っていますが 自分と 家族を 神に任せます 神の代わりに家族の 面倒を見るのも 一種の出家です この種の出家は 剃髪して 寺に隠れるよりも 難しいことです これができれば 真の聖人です 泥の中にいながら 汚れない 蓮の花のようにです あり得ることです 釈迦が在世の時に 偉大な菩薩が いました 維摩大師です 彼は 在家の人でした 彼は富豪でした 妻も子供も 友人も 何でもありましたが 悟りを開いています 多くの出家者よりも 勝っていました 皆が彼を畏敬しました 彼はとても賢明で 雄弁家だったからです 皆は彼に会うのを 恐れていました

ですので 出家して始めて 悟りを開けるかどうか 言えません 自分次第です 人生の見方によります 超越して この世に生きながら 世界に流されません これはあり得ます すべては心によります 見ての通り 釈迦牟尼仏は 悟りを開いてから 息子を連れて 行きました 息子のラーフラは ずっと彼のそばにいて 彼の妻も後に 尼僧になり 釈迦のそばにいました 近い所ではありません そうです 肉体関係は 肉体関係は まったくありません しかし愛し合っていて 子供に対する責任を 果たしていました できない事はないです こんな形で 世界に留まり 自分の責任と 国に対する義務を 果たすことができます

しかし執着しません これは責務であって 国も家族も 捨てる事はできません 子供を捨てたら 誰が世話しますか 子供がない場合 または持ちたくない 場合はいいのですが すでに子供がいれば 面倒を見るべきです 状況がそうだからです もちろん 誰かがあなたの子供の 世話をしたいとし あなたも納得し 子供も納得した場合 出家することを 決めてもいいのです ただ人それぞれで 子供は霊修行の 妨げではなく 家庭生活も 知っての通り 障害物ではなく彼らは 責務と愛なのです あなたは人を愛する こともできます 修行すると もっと多くの愛を 得ますので ならもっと家族を 愛することができます 

彼らはより早く もっと必要とします 私達の心は大きく 皆を愛します 家族を含めてです 家族を捨てる必要は ありません 悟りを開いた後は どっちでもいいのです ただ開悟した人は 肉体的な 関係にふける ことはありません しかし妻や 夫がまだそのレベルに 達していなければ 二人は徐々に 調整することです できるだけ 避けることで もっと多くの時間と エネルギーを 霊修行に集中できます そういうことです しかし出家した からといって いつも霊修行の ことを思うとは 限りません 正直に言います 皆が来て 付きまとい困らせ 皆が来て 質問します そこでまた悩むのです 他の事も皆同じです 自分が一番いいと思う 事を選択して下さい

 
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