智慧の言葉
 
Find Your Inner Master Part 1 Mar 09,1991Colorado, USA    Part 1
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私達が在家者として 修行しても  仏陀になれますか はい あなたは在家仏陀に なれます いわゆる「在家」という 場所はありません 分りますか どこれあれ仏陀の 境界は 仏国土です 法華経が説いている ことを覚えていますか 経典はこう説きます 「大日如来は 遍在である」と 大日如来は 古代の仏陀です 分りますか 「ヴァイローチャナ」は サンスクリット名で 無上の仏陀の意味です こう言いました 「経典は 大日如来は 遍在であると説く」 仏陀の境界は 永遠の悟りと 呼ばれています

ですから 私達は すべての法は 仏陀の法と知るべきで 私達はこれを知らずに 無明でい続けます 従って 「内面の完全な智慧 純粋さを感じず 解脱において まだ執着する」状態 分りますか いわゆる「在家」という 場所はありません すべての場所が 仏陀の境界で 私達は それを知らないだけ 分りますか 出家者とは 自身の身口意を 犠牲にし 大衆に役立つよう 人生を捧げる人で それで経典を学ぶ 時間をさらに得て 学ぶ時間のない 在家者に 説明します

ですから 在家者は 僧侶が勉強し 経典を読む時間を得て 更に修行できるよう 時々在家者が 暇なときに僧侶に 質問しに行けるよう お金を布施します 出家者に教える 良いマスター 在世のマスターが いれば  その出家者の智慧は 開き とても早く 発展するので在家者は 尋ねるからです 出家者はマスターに 毎日従い多く学びます それで出家者の知識は 多忙な在家者よりも 多いのです そう言う訳で 在家者は 出家者に布施をする 伝統があるのです 出家者が自由に学び 生活費を稼ぐのに 忙しく働く 必要はありません

それで私達多忙な人は 時々 時間があるときに 尋ねに行きますし 在家者が私達に説明 するのはより早いです だから私達は 「家を出た者」と 呼ぶのです 出家者は仏陀になれ ないとか 在家者は 仏陀になれないと いう訳ではないのです それは私達の心次第で 私達の霊修行と 純粋さ次第です しばしば出家者には 良い先生がいません 名誉と利益のために 在家者ほど純粋では ないかもしれません 分りますか 敬愛する聖なる尼僧様 法(真の教え)を 伝える時に なぜ より大規模の 大きな寺を 選ばないのですか

なぜこのような場所を 選ぶのですか 大きな寺は ありますか すべての場所が寺です 私は何度も寺のない 場所に行っていますが 私に何ができますか 例えば パナマには 寺がありません では感覚ある衆生は 済度されないという ことでしょうか 方法を探さねばならず 助けねばなりません 寺に行く必要は ありません 寺はここです 私は完全に仏陀と 菩薩に仕えるよう 専心しています 全く他のものは いりません ですから 釈迦牟尼仏が 生きていた頃  寺を建てませんでした ただ毎日歩いて 食べ物を乞いました

感覚ある衆生のために なりたかったのです でも一日一食だけです 品位を持っていました 分りますか 品位とまっすぐさの 明示と呼ばれています 私達はその方法で 無条件で他者に 奉仕します オゥラック (ベトナム)に戻って 法(真の教え)を広め 法(真の教え)を広め オゥラック (ベトナム)の苦しむ 人々を救おうという 意志をお持ちですか 現在 私は海外の オゥラック(ベトナム) 人に説明するのに 最善を尽くしています 将来考えます 海外のオゥラック (ベトナム)人も沢山 苦しんでます なぜ オゥラック(ベトナム) にいる人々を区別 せなばなりませんか 海外のオゥラック (ベトナム)人は 国内の人より 多く苦しんでいます

なぜ?自国に 住んでいるからです まだ私達の国ですね 私達には大勢の 身内や友人がいます 外国に行くと 苦しみの思い出が 私達を悩ませます 私達が他の国に 出国するとき しばしば人々は私達を 高く評価しません 言語も 私達は勉強しますが 把握できません 勉強し続けますが 飲み込めないのです 土地や食事は私達の ものと大変異なります

気候さえ異なります それは心理的に 影響します 沢山苦しみがあります 海外のオゥラック (ベトナム)人には 沢山苦悩があります ご存じないでしょうが 収容所に監禁された オゥラック(ベトナム) 人を訪ねて行きました そこに行った時 私は法(真の教え)に ついて一言も 言えませんでした 私はそんな悲劇の中の 人々を目にして ただ大泣きしました

瞑想中 私は頭が上がっていく 感覚を体験します どうすれば良いですか その感覚を 全身に広げるべき でしょうか それとも一定の点に 集中すべきでしょうか その一点とは体の どこにありますか 放っておきなさい ただここに集中する だけで構わないのです どうすれば観音法門を 修行できますか 後で登録して下さい 戒律を守れるのなら 生涯菜食になるならそれで良いですよ 他のすべての戒律は 基本的に 五つの戒律です 最も重要なのは 菜食になること 生涯菜食をすること 殺生をしないことです 他の戒律は守るように 最善を尽くして下さい 毎日 私達が 完璧になる時点まで 自分を少しずつ 変えるのです 嘘をつくなどの それらの習慣は 急に変えるのは 難しいからで しばしば私達は口を 開くときに忘れます  本当に嘘をつきたい わけではありません ですから徐々にですよ 飲酒を控え 肉食をやめるのです それだけです 他の戒律は 比較的軽めです

何故人々は苦しむ 時だけ霊修行を するのでしょうか 裕福で幸せな人たちは めったに 霊修行を口にしません そういう人もいますが 多くはありません なぜそうなのでしょう それは彼らには 沢山お金があるからで 彼らの人生は物質的に ほんの少し快適です 単に快適さだけでは ありません また時には過度に 耽溺する機会も あります 例えばお金があるので 妻を三、四人 求めます 或いはお金があるので 大変高級な ワインを飲み もっとおいしい 食事をします

高級なワインを 飲めば飲むほど 高価な食べ物を食べ 自分の身体が弱くなり 脳が衰えるまで 食べます それらに良いことは ありません そして当然ながら 衰えれば 脳は一層大きく 衰弱するので 霊修行への切望が より少ないのです それだけですよ 彼らは知らずに 毒を摂っています この世は本当に さかさまです 有害であればあるほど 高価なのです ウイスキーウォッカは 最も高価です そうですね 最も有害で 最も高価です そしてタバコは より有害で より高価で またはそんな感じです

麻薬は 最も有害です 最も有害で 最も高価です この世はそのように さかさまです 私達が働きに行き 最も有害なものを 飲んだり食べたり できるように お金を稼ぐことに 命を懸けます そうして私達が 飲食をすればするほど 害を得ます  身体は悪くなります 悪くなると 私達は病院に行き 更にもっとお金を 支払わねばなりません 病院に行き 身体を回復させ 家に帰ってまた 毒を飲み食いします 再び病気になり医者に 診て貰わねばならず その後身体を保つのに 更にお金を 稼がねばなりません そのように続きます

悪循環です それで 裕福な人々は 多くの功徳を得る 必要がありません 仏陀と 法(真の教え)は どこから来たのか 教えて下さい 仏陀は私達の 頭脳からで 法(真の教え)は 仏陀から来ます すべては頭脳によって 作られます それを証明する 必要はありません 例えば 今  あなたは仏陀になると 決心したとしますね そうして私と 修行します ある日 あなたは仏陀になり 仏陀は頭脳で作られる のではありませんか なぜなら私達の頭脳が そう望むからです それで「仏陀は私達に 内在する」と言います

敬愛する聖なる尼僧 私は経典を読み その意味を理解すると いつでも 突然泣き始めます 再び泣くのを 止める方法は ありますか 泣くのを止めるの もっと泣かせる 方法はあります あなたが泣く時 カルマ(報い)が 少なくなるので 悪い事ではありません 涙もろい 失恋 いわゆる失望や お金がない時 人にだまされて 泣くのなら 良くありません 私達が経典を読み 開悟して 泣ける時は とても良いのです 理由は分りませんが 今日 講演を聞いている間 聞いた後しばらく 頭が軽く感じ 目を 閉じたいと感じました

それでも まだ正面に あなたが見えるのです それでその時 あなたと私の意識に おいて私達の間に 何が起きたのでしょう 理由を教えて 下さいますか きっと繋がりが あったのです 繋がりです 私が講演を している間 加護のパワーがあり 仏陀と菩薩からの 加護です それで 心が純粋な人々は この加護を受けます 誰もが受けられる 訳ではありませんが 感度の違いによります 例えば 私達が少し 更に純粋なら より はっきりと見られます わずかに それほど軽くなくても 受けられます でも私達のカルマ (報い)は大変粗いので そのため  純粋で軽い人々と 同じくらい速く 受け取れないのです

あなたの場合は 純粋で軽い人の 事例です ただ目を閉じて 座って聞くのです あなたが幸せなら 良いです 構いません 菩薩の順位における 観音菩薩のレベルを 教えて頂けますか 高いレベルにいます 古代の仏陀であり 菩薩ではありません しばしば私達は  菩薩と仏陀が 何であるか分りません 仏陀もまた菩薩です 大抵の場合 仏陀は 菩薩として現れます 大抵の場合 仏陀は 菩薩として現れます 観音菩薩は 大変高いレベルにいて 古代の仏陀です ずいぶん大昔に 仏陀になりました しばしば  多くの仏陀がこの世に 現れ 観音菩薩は 菩薩として現れ そばにいます

そうでないなら 二人の仏陀がいたら 大変厄介です 一人の仏陀で十分で 他の仏陀は 文殊菩薩のように 菩薩として現れます 文殊菩薩は 過去 現在 未来 すべての仏陀の マスターです ですが 釈迦牟尼仏が仏陀 として現れ 感覚ある 衆生を済度する時 その時は 釈迦牟尼仏のために 予約されています それで文殊師利は 菩薩になるのです 観世音も 菩薩になります ですがしばしば 観音菩薩は 仏陀として現れます それは時代によります 敬愛するマスター 私は観音法門を 修行したいのですが 健康状態により 生涯菜食するのは できないと思います

それで 私は開悟を 得られますか 一生菜食者で なければなりません 菜食が健康に 良くないと 思わないで下さい 病院は 肉食の人で 溢れています 見たことありませんか 肉を食べればたべる程 更に病気になります 病院に行く 菜食者はめったに 見かけませんね 病院には肉食者が 沢山横たわっています 肉を食べれば食べる程 多くの悪いカルマ (報い)を持ち 悪いカルマ(報い)を 持てば持つほど 多くの病気になります そのようなサイクルに まさに入ろうとして どう解脱できますか あなたを解脱させない というのではなく 解脱を得るのは 可能です 解脱だけなら 観音菩薩を 求めなくても 観音法門を修行する 必要はありません 解脱を望むのと 仏陀になるのを 望むのは違います

観音法門を修行する 必要はありません 菜食を食べるよう努め 多いほど良いです それが小乗です (小乗仏教) 自身だけ救われます でも 私と観音法門を 修行すれば 五、六、七、八 十世代 百世代が あなたと共に解脱し あなたは仏陀に 菩薩になります 分りますか 解脱だけでありません 従って 阿弥陀経の中に 蓮の階位が九つ あると言われます

上位と下位があります 下位のレベルは 生きていた時一、二度 阿弥陀仏の名を 祈った人々のことを 言います 彼らが死んだ時 そこへ連れて行き より高く上がれるよう 徐々に修行します それが「解脱」と 呼ばれます でも仏陀には なれません 私と修行する人は 私と修行する人は 仏陀になれます 分りますか 又菩薩か 阿羅漢になります 私の名を 祈るだけの人々も 解脱します はい 二つの選択肢で 小乗(小乗仏教)と 大乗(大乗仏教)が あります 「大」がそうで 「小」がそうです 分りますか 「大」は 他人も 助けられることです 菩薩となって 五、六、七、八 九世代が解脱します 菩薩になった時に話す すべての言葉は 他人に利益を もたらします

どこに行こうとも 人々が加護を受けます それが 大乗と 呼ばれます 小乗は一人が 一人を助けます 私達が 在世の 仏陀や菩薩に祈れば 助けてくれますよ

尊いマスター あなたが法 (真の教え)を説く間 あなたの頭の回りに 煙の薄い層が見え 講義を聞いている間 私は泣きました

私の魂は深く 仏陀を想っています 何を意味しますか 仏陀を想うのは 良いことで  何も悪くありません 私が正法(真の教え)を 説く時あなたが仏陀を 想い泣くのであれば 悪いカルマ(報い)が 浄化されます 仏陀を想うのは 魔を想うよりは 良いですね 尊敬すべき尼僧様 あなたは(三宝に) 帰依する儀式を 行いますか 何のためですか 帰依するのは良いけど 心の中で帰依できます 儀式にする必要は ありません 帰依したい人は いますか したいならしましょう なくても気にしないで 帰依はこのようです 五つの戒律を 守ろうと努めたり その先生に力があると 信じることです

死んだ時 彼は 生死の輪廻から 私達を助けられます レベルが低くても 私達の蓮がいわゆる 低い品性にいて 低レベルに生まれても それで帰依するのです 私に帰依したいなら 複雑にする 必要はありません ただ帰依して 家で帰依すれば いいです 分りますね 行く先々で 帰依の儀式を行えば 多すぎて 皆さんを 覚えられないからです 正式に帰依したいなら それも構いません やりましょう ですが必要はなく 必要ないと思います 心の中で その人を 信じていれば十分で それが帰依です

ダーラニー法について 教えて下さい ダーラニーは呪文です サンスクリット語で ダーラニーは呪文です 呪文を知っていれば 智慧が開くのを 手伝います つまり 呪文を唱えるのは 私達に有益です それがダーラニー 霊修行です 尊敬すべき尼僧様 どのように 「内なる仏陀」を 育むべきですか どの法門で 最初にすべき 最も重要なことは 何ですか 発展させるには 二つの方法があります まず 前世で 霊修行を沢山したため 今生で度々 マスターに会うだけで 通り過ぎただけで 彼の力が自動的に 智慧を開いてくれます

私達が家に戻ると 開悟します 沢山の人々がそうです ですが 自身で 開悟できないと 思うなら 開悟したかどうかが 分からなかったり 力が十分でないなら マスターに 頼らねばなりません 彼はすでに開悟した為 開悟を手伝って くれます 印心と呼ばれます 印心の間に あなたは開悟します ですが  失われることから 保護するために 戒律を守らねばならず また霊的レベルも 日々 より高く 上げねばなりません 尊敬すべき尼僧様 両手を合わせ 観音菩薩を唱える時 手のひらをゆっくり 引き離す力を感じます

この現象は何か 教えて下さい 仏陀の名を唱えながら 何らかの動きが 現れたり  境界が現れたり その後 軽快に 快適に感じたら それは良いことです その後 体が重く 憂うつで 居心地悪く イライラすれば 偽りの境界か幻影です いいですか 病気か 妊娠している人で 薬を飲む必要があって それが植物由来か 動物由来か 不確かでも 罪を犯しましたか 罪ではありません 動物性成分が 体を重くさせるだけで 体を重くさせるだけで 罪ではありません 「罪」とは 重く感じさせることで それが罪です

私達を 進歩させないことを 罪と呼びます 知らないなら それを避けられない でしょう もっと瞑想して下さい その日 分っていたら もっと瞑想すれば より軽くなります

開悟に達するために クンダリニーを 高めるのに必要ですか 人が解脱する時 肉体は どんな 変化を体験しますか いいえ 開悟のために クンダリニーを高める 必要はありません クンダリニーは 開悟に必要ありません 観音法門を修行すれば 開悟します クンダリニーは 肉体に 影響するだけで 魂にではありません 体には 二種類の 動きがあります 一つは 体の規則を 世話しています 一つは 解脱して 智慧を発展させます 二番目のに 私達は 重要性を置きます

一番目のでなく クンダリニーは一種の 非常に低い物質の力で 見えないにも拘らず クンダリニーを 高めれば 時々 非常に痛みがあります ミラレパの物語で 彼のクンダリニーが 目覚めた時 彼はとても痛い 経験をしました 私には ドイツにいる オゥラック(ベトナム) 友人がいて 彼もクンダリニーを 手荒く扱った後 毎日痛みを感じました クンダリニーの過程は 安全ではありません 痛みも 危険もない 例えば 観音法門を 修行した方が良いです

なぜこの社会で 人々が善行をしながら 時々恨みを買い 正直な人が時々 災難に遭遇しても 悪人は時々 より長く 寛いだ人生を 送っていますか 誰が悪いか等私達には まだ分かりません 大抵の場合 私達には 今生の原因と報いを 明確に見る事はできず 前世においてもです 誰が悪い訳ではなく ほとんどの場合ですが 裕福な人々がいたとし それは前世からの 彼らの功徳なのです 今生の彼らの悪行の 形を成していません 今生での彼らの不実な 行為は来世で 或いは今生の後の方で 支払われたりします

彼らが受け継いだ 豊かな生活は前世ので 誰も自らが犯した罪に ついて懲罰から 逃げられません ただ 遅かれ早かれ 時間の問題です しばしば私達が善行を 行えば報われると 考えますが それは 必ずしも真実ではなく 好意で成した場合です 多分 私達の過去世で その人に何か借りが あったのかもしれず これらの事や行為は それに報いるだけ かもしれません 布施をしていると 思わないで下さい 私達はただ恩返しを していると考えれば 私達はがっかりせずに すむでしょう

善行を行います それは人間としての 責務であり他者を良く 待遇することですから 何か自分が善行を していると考えないと なぜその人は感謝 しないのかとがっかり しないでしょう 善行をしているとさえ 思いません この世に生きることは 互いに助け合う責務を 皆が負うことだったり 貧しいか 裕福か 裕福になりたいために するのではありません 裕福になりたいなら 私達は布施をすべきで 沢山与えるのです 人々を尊重し 霊的な開悟に到達し そうすれば 来世で私達は裕福に なれます いいですか

敬愛する聖人の尼僧様 この世でよく聞きます 四、五人の妻か 愛人を持つ男 または 四、五人の夫か 愛人を持つ女は 彼らは前世で互いに 債務を負っていたと それで彼らは再び 今生で再会しますか それは自身の欲望を チェックしていなく いかなる債務でも ないでしょう 敬愛する聖人の尼僧様 印心を受けた後 私が戒律を守り続け られなければ何が 起こるのでしょうか 因果の法則にによって あなたは影響を 受けることになります 多くの場合 以前より事態は深刻に なることを恐れます 既に知っていて それでもその戒律に 反しているからです 最初私達は知りません でしたと言いました でも今回 私達は 既に知っています

戒律を守ると約束して それを破るのです あなたが違反しても そんな状況で 守れないなら 正すように努力します 分かりますか 今すぐ修正するのです 神は全ての生物に命が あると言いました ですから野菜 豆 果物 木々も 命があります 私達がそれらを食べる ことは殺生ですか では 食べずにいて 飢え死にしますか なぜあなたの慈悲心は それほど度量が 狭いのでしょうか 私は肉食を止めるよう 頼みました それさえ できずに 果物を 食べることも止めると いうのですか

ええ生物には皆 命が あります 正しいです でも生命が非常に 強い時もあります 内面に深く深浸する そういう時も あるでしょう 植物はそれほど叫び ませんが 動物は 私達が彼らを殺す時 生命を愛し死を恐れる ことを私達は知ります 動物は反抗し叫びます それはこれら(花々)と 同じではないです よく私達は バジルの芽を摘みます 一つの芽を摘んでも 四つの芽や五つの枝が でてきますね それは有益で 傷害ではありません

でも豚の頭を切りとり 後から四つ、五つの 頭が出て来ますか 論理的だと分りますね 肉を食べるのは自分の 味覚を満たすためです 野菜 豆を食べるのは 私達の生命を 維持するのに必要です 仕方なく食べます 死んでしまうので 生存のために他に 方法がないので野菜や 豆を食べるべきです それは私達は既に 自らの慈悲心を育む 最善を尽くす意味です でも自身に対しても 慈悲心を 持つべきです 仏陀が内在しています どうして彼を飢え させておけますか

敬愛する聖人の尼僧様 私は菜食を続けられる と分かります 私は一か月以上 既に菜食ですから まだとても健康的です

私自身 私は娘で 妻であり 母の務めがあります いまだに家族のために 肉料理を作ります 尊敬する聖人の尼僧様 そこから私は何か罪を 受けますか いいえ 何の罪もないですが あなたの進歩において 幾らか影響します 何の副作用もないとは いえません いわゆる「集合カルマ (報い)」です 知っていますか でも特別な場合です あなたの家族が共に 菜食を食べないなら 彼らを自由にさせる ことです 彼らに私達に従うよう 強要できません

ですからあなたは 何の罪も引き起こさず でも集合カルマ (報い)を共有する事は 免れられません いいです 構いません ある人が死ぬ時彼らは 自らの罪や福報を残し 地獄へ または天国の いずれかに 昇天します でも今生において その亡くなった人が 何も悪事を行わず 霊修行を行い 菜食をしていた場合 なぜその人は 彼の親類の夢に現れ 彼らに起こるであろう このことについて 教えないのでしょう この死んだその人は まだ解脱していない という意味ですか

ええまだですその人は まだ解脱していません 高い境界へと 解脱していません 彼はまだ低い境界です でも彼もまた解脱して いるという意味です 「解脱」の意味は 低い境界に生まれない ことです 苦しみの 世界 例えば地獄や 畜生道のような 従って 彼はまだ夢の中に戻り 予言するかもしれない その意味は 彼は 天国にいますが 低い レベルの天国です 神の王国 あるいは 涅槃(極楽浄土)では ないのです でも菜食になることは 仏陀になることを 意味する訳ではなく 永遠の解脱を意味する 訳ではありません

そうなら牛 馬 象は 解脱できている はずでしょう 既に仏陀になっている ことでしょう 菜食者になる他に 私達は修行し 私達の仏性を培う 必要があります 仏性を知る その必要があるのです 毎日 私達は瞑想し 仏陀の教えを 聞かねばなりません そうして仏陀になり 菜食になるから 仏陀になるのでは ありません 菜食をすることで 殺生のカルマ(報い)を 避けます 殺生を避け 元来の私達の慈悲を 育くまなければ 仏陀にはなれません

六十歳以上の人々は 印心を受けることは できませんか 特別な場合によります 例えば彼らが強く健康 なら六十五歳まで 大丈夫でしょう 又は 彼らが菜食になれたり ずっと長い間 菜食であった場合は 大丈夫でしょう でもあなたが健康では ないと感じ 既に年を 取り過ぎていると思う なら あなたは菜食に 切りかえるとすぐに あなたの体は幾らか 反応を起しそれは 良くないと思います または長い間瞑想する ことができません またはあなたの頭脳は もはや鋭敏ではなく 私が教える教理を 理解するのが不可能 かもしれません

そういう事いいですか あなたが理解し 菜食になれるなら 問題はありません 尊敬する聖人の尼僧様 私には分かりません 六つの感覚器官と 六感とはなんですか どうかそれを明らかに して頂きたいのですが 六つの感覚器官と 六感とは 何ですか 誰か知っている人 知っていますか 六感とは何ですか すぐ回答できるなら ご褒美を渡しましょう 眼 耳 鼻 舌 身体 頭脳です そうですね わあ 素晴らしいです これを彼女に 眼 耳 鼻 舌 身体 頭脳です 六つの感覚器官です そして六つの感覚の 対象はこの世界に よるものです

眼 耳 鼻 舌 身体 頭脳 分かりますか 例えば私達の眼は 美しい物を見て 私達はそれらに 魅了されます 魅了されているなら 私達は自分の注意力に 集中し続け見続けて 欲しがり続けます 内面の反映を 忘れさせます 私達は自分の仏性を 忘れ ただ外面を 見続け内面を 見ないでいるのです 私達の耳は甘い声を 聞き人々は私達を 惑わせます 私達を称賛し 私達にあれこれだと おべっかを言います 私達は元来の本性を 忘れてしまいます その意味は私達が 欲するいかなる欲望も 蓄積していきます 私達は思います

「これは素晴らしい これは美しい」と 私達はそれらを 望み続けそれら欲望を 持ち続けます 六つの感覚器官は この世のそういう 情報を集めます六つの 道具を通じていわゆる 六感覚器官のことです 「官」の意は道具です 何でも集めた事を通じ ます だから六つの 感覚器官なのです 「六つの感覚機能」と それらを呼びます 「六」の意は六です 四九年間伝道した 仏陀は これまでの四九年間で 一言も話してないと 言いました これについて詳しく 教えていただけますか それはこのようです ある人は仏陀にこの ように尋ねたからです

「四九年間あなたは 何を説きましたか どのような方法を 教えましたか」と 法(真の教え)は 言語で教えることが できず 法は 言葉で伝えることが できないと 私達は皆 よく分かっています 従って 彼は 「四九年間何も 説きませんでした」と このようなことです 従って 仏陀は 「法(真の教え)を 説きませんでした」 「四九年間 法(真の教え)を 説きませんでした 真理を伝えません でした」と そういう意味です 私が印心を伝える時 真理を伝授する時と 同じです このように話しません 完全な沈黙の中で あなたは悟りを 開くことができます

あなたの自性を知る ようになり 仏陀 仏性や仏陀の境界を 見たり 音を 聞くことができます 少なくとも 仏陀の音を 聞くことができます 尊敬する尼僧様 菜食をしながらも 頭脳は無明のままだと 菜食はどのような 利益がありますか 霊修行は ある程度の知的な 知識が必要ですか 霊修行には 知的な知識は 必要ありません 六祖慧能は 学校にさえ 行きませんでした 菜食はどうして 無明にさせますか 菜食を守ることは 私達の慈悲を養い 全ての衆生は平等で 私達の子供 家族のように 思いたいからです

それで どうして 無明なのでしょうか 「菜食を守る」はただ 菜食だけを食べる わけではありません 菜食の食事を 守ってから あなたは仏陀の音を 聞いたりすることが できるようになり 毎日ますます 悟りを開くことができ より賢明になる 方法を教えます 智慧はこの世の 知性より優れています この世の知性は ただ他人の知識の 蓄積の結果に 過ぎません 私達の本来の智慧 私達の本来の仏性 ではありません 誰にも教えられません この世の知識は 他人から蓄積して きたものです

大抵他人の考えは 必ず正しいという わけではありません ご存知の通り 何回も 真実である ことを証明されたのに その後 そうでない ことを証明されてます 本日は「この人の 話が正しい」 明日になれば「その 人の話が正しい」と ですから この世の 知識は必要がないと いうわけです 将来の仕事のために 学校へ行って ある程度の知識を 身に付ける 必要があります でもこの世の知識は いりません この現世は非常に 短いものです

人々を人生から 解脱させる霊修行は 実用的では ありません これが本当なら 何も悪いことをせずに 今の人生をそのまま 送れば良いのですか これで十分ですか はい 人生は非常に 短いです しかし 生命力は永遠です ですから この身体が壊れたら  別の身体を 得るでしょう この身体を捨てたら 永遠にいなくなったと 思わないでください 永遠にいなく なったら なぜ 仏陀になれた人が いるのですか どうして涅槃 (極楽浄土)を 得ることができますか 永遠にいなくなったら 死者は夢の中に 戻って予言することが できるのですか

何も永遠に失われて いません 私達は 外観を変えただけです 服を変えただけです 例えば 今日は 私が黄色い服 明日は 白い服を着るように 中の本人は 変わりがありません 従って この世を去ってから 永遠に去るとは 思わないでください 何も失われていません 例えば 水は 蒸発して雲になります 雲から雨に なります そして 再度水になります このようにずっと 再循環しています 何も失われていません

今はこの人生が非常に 短いと言って 霊修行をしないと 霊修行をしないと 生まれ変わったら また短い人生です そうでしょう いつまでたっても 短いままです 人生における この短い時間を 霊修行に使えば その後 私たちの人生は 永遠になります 悟りにおいて永遠です しかし霊修行を しないと 行ったり 来たりするだけで そのつど また短い人生で また このように無明です また挫折して混乱して それを解決する方法も 見つかりません

あなたが言ったように 永遠の生命を 信じなくても大丈夫 私達はやはり 霊修行をすべきです この人生しかないと 信じても 霊修行をすべきです ではなぜ霊修行が 必要ですか 残り 95%の脳を活用して 人生に奉仕するため 分かりますか この社会をより良く 発展させます 来世を考える 必要がありません 私達は人生の面倒 だけでも精一杯です なので より良く 生きていくために 私達自身を養って 鍛えるべきです 尊敬すべき尼僧様 これを説明して下さい 「与えずして与えるが 真の与えである」

私が先程 述べたようにです 他人のために何かを した時 見返りを 期待しないことです ほとんどの時 私達は 前世で彼らに 借りがあることを 知らないのです だから今生で彼らに 良いことをしてると 考えてはいけません 良い行いをするのは 自分達の務めだから 誰かを救うのです すべての生き物は 私達の親戚  兄弟 両親なのです 私達は 親戚 兄弟 そして両親が貧乏に 暮らすのを見て 助ける それだけです それを「与えずして 与える」といいます それが与える本当の 意味なのです 私は既に帰依している マスターがいますが あなたから学んだら 裏切りになりますか 昔は 先生と 幼稚園で学び そして小学校で 先生と 学んでいました 将来は 先生と 高校で学び その後は 教授と大学で学びます

それではそれは 小学校の先生を 裏切る事になりますか 学校に行くので 結婚をする訳ではなく ですから 他の人に変えても 裏切っていません 学生はどの先生も 所有していません 学生は 誰か より智慧がある人から 学び 自身を 成長させるのを 求めるべきです 先生が彼らに何かを 与えて 彼らを縛る 訳ではありません 学生を縛る 先生は無知な 先生です

有名な英雄 韓国軍の二大 将軍霊性のマスターに どのような質問を するでしょうか 更に解明するには スプリームマスター テレビジョン 十月二十日水曜日の 番組をご覧下さい 「体験こそ 最良の学習方法」は 智慧の言葉にて 有名な英雄 韓国軍の二大将軍は 霊性のマスターに どのような質問を するでしょうか スプリームマスター テレビジョン 本日の番組を ぜひご覧下さい 「体験こそ 最良の学習方法」は 智慧の言葉にて 未来は今現在に かかっています ただ自分の仕事を 正しく 良心的に行い 自身の知識や良心に 最善を尽くせば そうすれば 全てがうまくいきます

スプリームマスター テレビジョン 十月二十日水曜日 スプリームマスター チンハイの智慧溢れる 講義をご覧下さい 題して 「体験こそ 最良の学習方法」は 智慧の言葉にて

スプリームマスター テレビジョン 本日の 番組をご覧下さい 「体験こそ 最良の学習方法」は 智慧の言葉にて
尊敬すべき尼僧様 伝統によると 年配者が亡くなると 葬式の際 通常紙幣や紙の金を 燃やします それは正しいですか それを持って行くと 得だということですか はい そうです 印刷した紙の金や 紙幣を沢山持ってると 得をします 尊敬すべきマスター 観音法門は マントラ蜜法 なのですか この法門はどの 教派でもありません この法門は元々の 真の教義です 人々は何度もこれを 「密法」と言いますが 何の理由がありますか 伝達された人は 他の人は 理解できないので それを「密法」と呼び その伝達を受けた 人は知っているのです

なぜなら その領域は その人に属し 彼の隣に座っている 人は見えないのです だからそう呼ばれます だからこれは マントラ蜜法と 呼ばれるわけではなく チベット仏教の 教派や他の法門と 同じなのです いわゆる秘密の マントラはそのため 秘密ではありません 尊敬すべき尼僧様 私達が「オムマニ ペメフム」と 唱える時 身振りは どうすれば良いですか 身振りは不要です 唱えるのも不要です 身振りや 唱えることは何も 影響がありません 「オムマニ  ペメフム」の音を 内面で聞けるので その時に 効果があるのです

観音法門を 修行するとき 時々その音を 聞く事があるでしょう それを梵天の音と 呼ぶのです 従って 普門品では 梵天の音で 海潮音になるのです 海洋波の音の意味は 多くの場合 海の潮の音が 聞こえるのですが 外面的な海潮音では ないのです しかし梵天の音は 仏陀の音は 海潮音のようなのです または時に 仏陀の音は梵天の音に 梵語マントラの 音に似ているのです 梵語マントラは オムマニペメフム これを梵天の音と 呼ぶのです 他にも沢山の 梵天の音があります 霊修行をする時 内面ではっきりと それが聞こえるのです

それを「マントラを 唱える」「陀羅尼を唱える」といいます その時だけを 陀羅尼と呼びます 真の陀羅尼を修行 するとそうなります 多くの人が それを修行していて 内面で彼らは その音を聞いていて その後彼らは  その体験を書きます 先ほど 私が若い男性について 述べたように 私と修行していて 彼は私に彼の 体験を見せたのです そこには 彼が聞いた 音が書いてあり 彼が見た仏陀を 描いてありました そして 時に 彼の兄弟や親戚が それを見つけ 「おお観音仏陀だ これを唱える良い」 と言います 「オムマニペメフム」を 唱えると 彼らには聞こえるので 彼らも唱えてますが

私達は聞こえません なぜ唱えますか 人々はご飯を食べて 満腹になります ただ立って「ご飯 ご飯」と唱えたら 満腹になれますか 尊敬すべき尼僧様 誰かを助けて そして ある日 その人が 私達を傷つけるなら 彼は私達の悪いカルマ (報い)の一部を 受け入れますか はい でも彼に私達の  ためにそれを受け入れ させてはいけません まず 自身を保護し  他者が私達を傷付け ないようにすべきです 私達に慈悲があります

しかし それは私達が そこに座って誰かが 私達の頭を殴るのを 待つか 蛇が来て 私達を噛んで 蛇が 私達の悪業(報い)の 一部を取るのを待つ ことを意味しません それは何も取りません 私達は愚か者です 私達は耐えるべきです 第二に 他の人に 私達の悪業(報い)の 一部を取らせるなら あまりにも可哀相です そうでしょ自身を守り その人を 保護せなばなりません 私達が他人を助ける時 彼らが私達に返しを するようにと どんな利得についても 考えてはいけません 誰かが私達を傷付ける 時 自身を保護し 彼らが間違わないよう その人を守る方法を 見付けるべきです 彼らが悪事を 働くなら 負債と悪業(報い)を 負う事になるでしょう

さらに 私達に智慧が あり 彼らがこの悪業 (報い)を避けるのを 手伝わないなら 私達も悪業(報い)を 負う事になるでしょう 誰も私達の為に私達の 悪業(報い)を受け入れ ません

彼らが悪行を行うなら 彼らは悪業(報い)を 負います 彼らが 私達の悪業(報い)を 負うのではありません 尊敬すべき尊き尼僧様 私の父が生きていた時 彼は決して菜食を しませんでした しかし 彼が往生して 以来ずっと私達は常に 菜食を供養しています このようにして 父は 速く解脱しますか その人が速く解脱 するのは私達が菜食を 供養するということで ありません あなたの誠実さです あなたが子孫の関係で あれば幾らか死者を 助けることができます 菜食の供養をするのは 常に良いことです

あなたが死者のために 菜食の供養をするなら それは生きている 人々にも良いです そして 死者はより 多くの悪業(報い)を 負う必要はありません 分りますか 死者のために 生き物を殺して  肉の供養をすれば  たとえ 死者は どんな悪業(報い)も 作らなかったとしても 彼らは突然 私達の 悪業(報い)によって 影響を受けます それは私たちが 罪を犯したせいです 分りますか ですから   菜食の供養は 常によいことです

尊敬する尊き尼僧様  仏経には書かれて います 衆生には 仏性があり  そして誰でも 霊修行するなら すべてが仏陀になると  それではどうして この世の人々は皆が 仏教に従わず 多くの異なる宗教を 持っていて そして 教義も異なるのですか それが本当なら 仏陀の智慧を見る時 どのように 悟りを 得ることができますか すべての人間が仏性を 持っていることは 正しいです しかし しばしば 他の国々で 人々は 「全ての存在は神聖が ある」と言うでしょう また 神の王国は 私達の内面にあると 仏教徒は仏性は私達の 内面にあると言います キリスト教徒は 神の 王国は内在し神は内面   にあると主張します それはほぼ同じです ただ名前だけが わずかに異なります

すべての衆生が悟り 誰でも本当に真理を 理解すると言う訳では ありません それで ある人は 「仏陀」と言い 他のは「神」と言います そして 両者とも 二つが異なると思い それが論争と戦いと いう結果になります しばしば 言語が 異なる事は言うまでも なく 仏教と言う同じ 宗教の人々も競争し ます そうでしょう 分りますか それは 各々の人々が 彼ら自身の個性と 理解の異なるレベルが あるからです そして 異なる宗教を 確立しました それで それは仏教が キリスト教と異なり  あるいはキリスト教が 道教と異なると言う 事でありません すべては同じ源 同じ言語  同じ目的から来ました すべては同じ真理に 言及しますが 私達は 違って理解しました それから 皆は異なる ものを発明し 塩と 香辛料を加えて それらは皆異なり ました 分りますか

人は菜食者向けに 魚や鶏や肉みたいに  動物そっくりの 食べ物を製造します それによって 私達は罪を犯しますか いいえ それは 罪を犯していません 構いません 第一に 多くの人々が 菜食の食品を製造して 販売しているからで 肉を食べる人達を だましたいのです 第二に芸術的に 製造したいのです 分りますか手工芸です 人をだますのに 動物そっくりに 製造するのは悪い 意図ではないからです 手工芸品を作って いるのです しばしば 主婦はあれこれと より楽しみを 作り出したいのです

あるいは家族を ビーガンにしたいけど 家族が反対するのを 恐れています 食事がつまらなく 見えようが 目を楽しませないので 「魚」や「鶏」か 「鳥」を作るべきです 同時に食べて楽しむ ことができます 人々を幸せにするのは 問題なく 幸せは良いことです 同時に食べて 楽しめるので良いです 罪ではないです 敬愛する高貴な尼僧様 霊修行に瞑想は 不可欠ですか なぜ瞑想を学ぶのに 開悟したマスターが 必要なのでしょうか 瞑想は とても不可欠です 金剛経では 仏陀は六波羅蜜を 説いていますね ええ 

六波羅蜜とは 「布施 持戒 忍辱 精進 禅定と智慧」です 重要でなければ なぜ仏陀はそれを 語ったのでしょう 仏陀は瞑想から 教えましたし感覚ある 衆生が聞くための すべての非常に 高いレベルの経を 説いたのです 毎日仏陀は 感覚ある衆生に 教えるために 自身の智慧を開くため 瞑想する必要があって 仏陀さえ瞑想するのに なぜ私達がしないのか 覚えていますか いつも 私達は話題の前に まず経典を読みます こう説きます 「釈迦牟尼仏は 瞑想から出てきて 教えた」そして あれこれ経を 話しましたね

つまり毎日瞑想を していたのです 仏陀さえ瞑想するのに なぜ私達はしないの 私達は少し早く そして少し多く 瞑想するべきです 私達は開悟した マスターが必要です 開悟したマスターは 低いレベルから 高いレベルまで 修行しているからで どこが危ないか 妨害があるかを 知っています また私達は修行中 どこかで ひっかかれば 尋ねられ それの抜け出し方や 避け方 私達が自分で 解決する方法を 知っています 開悟したマスター なしで修行すれば 自分によって盲目的に 進んで つまづき 落ち 穴や溝に 転がり落ちるなど あらゆることをします

私達は魔にとりつかれ 魔に誘惑されます いわゆる 「精神的混乱」です 分りますか 敬愛する高貴な尼僧様 なぜこの世に人々が そして私がいるべきか お話し下さい そのように より楽しいからです この世に一人だけで 生きたい人は いますか いませんね 私達がそう望むので そうなっているのです 私達が欲しいものを 私達は得る 他に何を 求められますか 尊敬する高貴な尼僧様 私は瞑想中 体が地面から飛んで 行く感じがしました どういうことですか 良いことです 大丈夫 あなたは少し 進歩したのです 進歩しました

尊敬する高貴な尼僧様 地獄はありますか あります 世界を一周して下さい 地獄が見ませんか 他の世はさておき この世には多くの 地獄があります  ええ あります 地獄はここのようです 私達は心配し恐れ 私達の乱暴で邪な 考えは雰囲気を生み その雰囲気は 磁場は私達に くっつき悩ませます そのため私達が何か 悪すぎることをすれば 磁場はいわゆる 圧力を私達にかけ 私達は苦しみます それは 私達の悪行に関する 罪悪感と呼ばれます 地獄が私達を待って いるのではないのです 一人ひとりが自分に 地獄を作ります

敬愛する高貴な尼僧様 仏陀は二ヶ月間 水を飲むだけで 不食をして 恐れのない方法を 教えました これには私達の 霊性の養成に 何か利益はありますか こんな感じです 中道を修行するのが 最高です 分りますか お腹いっぱい食べ物を 食べて  二ヶ月間断食をして 二ヵ月後に 以前よりもっと 食べるのではないです ではどう食べ物を 控えるのでしょう 私を信じないなら 試して下さい 一、二日食事を 止めれば後でもっと 食べるでしょう そうではありません 私達は中道を 修行します 

そして 毎日一、二、三食食べ それで構いませんが 軽く食べるべきです 食べ過ぎないことです 例えば 腹八部から九部 食べれば十分です 満タンまで食べません 分りますか 「食べ物を控える」は そんな感じで良いです 仏陀は一日一食しか 食べませんでした でも私達は仏陀では ないので 私達は  一日三、四回食べます でも軽めの食事です 怠惰になり 智慧ははっきりせず 鋭くならないので 食べ過ぎないで下さい

例えば 病気を 軽減するために 断食の方法を教える 先生がいるなら それは構いません 私達が自分でするなら 時々間違って行い 身体に害を引き起こす 恐れがあります 私達の健康に危険を 及ぼします分りますか 私は 観音法門が 百や千の病気を癒すと 思います 癒せない病気は ありません

一度観音法門を 修行すれば ますます毎日 そんなに沢山 食べたくないと思い 自然に 少なくなります

敬愛する高貴な尼僧様 私はキリスト教徒です イエスキリストを 棄てませんが 寺に行ったり 法の講演をしている 場所にもすぐに聞きに 行くのが好きです 私は菜食者でもあり イエスと仏陀の 両方に従います 私は死後 どこに行きますか 天国か涅槃(極楽浄土) に行きますか 神に従うことは 仏陀に従うことです 仏陀に従うことは 神に従うことです 天国に行くのは 涅槃に達することです 私達が法の講義を 聞くとき  真理の教えや 道徳の教えを聞くとき それは神に反する ことではありませんね

神は更にあなたを 愛します いいですか でも経典を聞くだけ では十分ではないです 霊性を培わねば いけません 経典を聞くことで 沢山の加護を 得るでしょう マスターが 経典を述べるとき 完全な開悟に 達した人は その加護の力は莫大で 私達が死ぬ時 彼は私達を救えます たとえ霊性の育成が なくても 私達はまだ 解脱できますが 仏陀にはなれません この世に生きている時 他の人々を 救うことはできません 印心するために 彼に従うのなら 私達は自ら習い 自ら仏陀になります まだ地球上で 生きている間 他の人々を救える様に 自分の先祖五、六、 七代を救うことが できます 少し高いレベルと 言われていますね

私達が他界する時 確実に神の王国に 行きます 確実にあなたは 神の王国や 涅槃(極楽浄土)に 行きます 神の王国と涅槃には 名前がありません もともと 名前がないのです それでも 世界の言語のため 命名するべきです すべてに名前があり ちょうど人間にも 名前があるようにです 名無しの人には なれません そのため この法門はまた 観音法門と呼ばれたり 生死からの解脱の 法門とも 仏陀の法門 神の法門 とも呼ばれます ですから涅槃に名前が あるのではなく 命名 すべきだったのです

名前はありません 私達がそこに昇り 解脱したとき それは解脱の境界で 浄土です 天国や涅槃(極楽浄土) と呼ぶ必要は ありません 例えば 私はこの花を見て 大変美しいと分ります そしてとても楽しく 幸せに感じます それで十分でしょう その花を名前で呼ぶ など必要ありませんね 花は私達の目を 和ませるためにあり 私達の魂は軽く 軽快になります このように 花は 使命を全うします 「ホアホン」や「ローズ」 と呼ぶのはまさに 同じことです 言語が違うだけです

英語では「ローズ」と呼び オゥラック(ベトナム) 語では「ホアホン」です それだけです そして「ホアホン」が 美しいか「ローズ」が 美しいかかかわらず ただ立って論じます 尊敬する高貴な尼僧様 霊修行をして一世で 解脱するのは 可能でしょうか はい 大変多くの人が すでに解脱しています 既にお話ししましたが 解脱とは 私達の欲 怒り 心酔 偏見や無明から 開放されることです またこの生涯で 解脱できます 私達は解脱したと はっきり分ります 私達が死ぬ時  自分の理解と 智慧のレベルに 釣り合う境界で 生きます

ではもう少し 説明いたします 解脱はこんな感じです 例えば 学校に行き勉強します つまり私達は 文盲から解放される 分りますか 勉強をすればするほど 自分のレベルの差が 大きくなります 私達が働く時 仕事は  ますます良くなり 私達の家もまた 教育レベルに 合っています 私達の仕事や友人は 自分の教育レベルに ふさわしいのです ですから同じ事です 私達が仏陀になるのを 学べば自身の智慧は ますます高くなり その結果自身の 愚かさから 無知から 開放されて  私達が死ぬ時や  日々霊性のレベルが 自分の理解に ますます適するように なります いいですか

例えば 医者の家は ごみ収集人の家とは 異なりますね それは各自のレベルに 似ているからです 相関関係では一度 仏陀になるのを学べば レベルがより似てきて 境界はますます 異なるようになります 私達が死ぬ時 後に  自分の慈悲と智慧と 同様の境界で 私達は生きます 敬愛する高貴な尼僧様 神が神の状態に 達するのが可能な 霊性の育成から 得られる神の 霊的な功徳について お話下さい 神は霊修行しません 元々そんな感じです 多くのものが元から そんな感じです 分りますか

神は大変自然な 現象なのです ただ自然に起こります そのため私達は 「神」と呼ぶのですよ 無上 最も高いのです でないと神が修行する 必要がまだあるなら あれこれすべきなら 私達は神と呼ぶ 必要はありませんね 自然とそうなのです 説明し難いです 例えば 空気は 自然とそうなのです 元から良いのです 私達にとって 吸えば 良いのです 毒ガスや それらを 混濁したら 空気は有毒になります 有毒ガスは 吸い出されたら 空気はまさに以前の 空気になります

敬愛する高貴な尼僧様 准胝観音 仏母は 菩薩ですか 准胝観音は仏陀です 仏母は こんな感じです 大勢が私に言います 「女は仏陀になれない なぜあなたの生徒は あなたを仏陀と言う」それは私の生徒が そう言ったからで 生徒は拘っていません 私が言ったのではなく 生徒が私は仏陀に なったと言いました そしてこう言いました 「女は仏陀に なれない」 ではなぜ 仏母や観音菩薩が いるのでしょうか なぜ「仏母」 なのでしょうか それは宇宙の陰陽を 表します 分りますか 宇宙には陰陽があり それで私達には 古代の仏陀や仏母が いるのです

つまり 天と地球に 陰陽があるのです 「母」であるとか 彼女はなにがしだとか 女性であるということ ではありません そんな風ではないです 仏母は仏陀です 古い仏陀です 敬愛する高貴な尼僧様 私達の親が亡くなると 大抵何かを 供えます ですが死後 私達の 愛する者は転生し その人たちは 私達からのお供えを 楽しめません また十年後 二〇年後 まだお供えをします それで何回目で私達は 死んだ親へのお供えを 止められますか 私達は親に対し 先祖に対し 彼らが 私達の感謝と愛を 示すために お供えをします 彼らが食べるために 食べられるために お供えをするのでは ありません 一部の者は すでに天国に 行っているからです 私達の世俗的で不潔な 食べ物はいりません 大勢が既に 解脱しています もう飲食は 必要ありません それで地獄に行った 多くの人が大勢いて 彼らは食べられません また人間に転生した 人が大勢います

それで彼らも また食べられません 一部の人は 動物に転生します なので食べ物を 飲み込めますか 更に彼らの世界は 私達の世界と違い 食べ物も 私達のは違います 私達がお供えをする時 彼らは食べられません ですから彼らの 福報と美徳と称えて お供えをします 私達がお供えを したいのなら 菜食を供えるのが 良いですそれだけです 「語りうる道は 道そのものではない」 について 説明して頂けますか 道すなわち 仏性は 言語では言い表せ られないという事です

だから「語りうる道は 道そのものではない」 なのです 一切が言語で 説明されるなら 道ではありません 同様に 釈迦牟尼仏は 四九才の時言いました 自分は道を詳しく 道を説明なかったと まさにそんな感じです 仏陀が道を 説明する時 それは 彼が黙っている時です 私が印心を授ける 時のように それは 道を伝える時です 私は何も言いませんが 皆さんは開悟します 私は沢山話しても 皆さんは開悟したのが 確実ではありません 開悟したなら 真理を伝えることでの 私の見えない力に よるものです 私の口からそのような 事を発せられて開悟 するのではありません ですから 「語りうる道は 道そのものではない」 そういうことです

マスター 現在 「気功」は 非常に人気があります それは仏教徒や 道家の瞑想の修行と 同じですか もし私達が五つの 戒律を守って 同時に気功を 修行すれば 私達は 仏陀に達しますか 気功の修行は 仏陀に達することに 役立ちません 気功を修行しないなら 私と一緒に 瞑想を 観音法門を 修行するのです 仏陀に達すると 保証されます でも気功には 二種類あります 一つは体操の ようなもので 武術の一種です いいですか 私は以前この種の 気功を修行しました これは何の問題も ありません

この種の気功を 修行して 一定の レベルに達したら 他の人々は 物理的に傷つけられず 又はナイフを使っても その修行者の体を バラバラにできません この種の気功は 体操です 修行者が 内面のエネルギーを 放出する時 外側の力に対して 体を無感覚にできます これが一つの種類の 気功です 他の種類の気功は 霊性の力を修行し 人々は癒しにそれを 使います 私はこの種の気功は 私達の霊修行により 害があると思います 無作為に自分の エネルギーを使うので 浪費し そして 私達は自身の偉大な 智慧をあけるのに 利用できません

それで後者の種類の 気功を修行しないのが 最善です 観音法門を 修行すれば 仏陀に達するには 十分です 最初の種類の 気功と観音法門を 同時に 修行できます どうしてですか 身体的に 健康なら 様々な意味で結構です 健康のため体を 動かすべきです 太極拳や他の運動 ハタヨガなどを 観音法門と 一緒に同時に 修行できます でも霊性の力を使う 種類の気功は 避けるべきです マスター この数年間 常に沢山の 乱雑な考えがあります 乱雑な考えを 取り除く方法を 教えて下さい

乱雑な考えがあるのは 私達が毎日 世界と 情報交換をして 無駄な情報を色々 集めているためで 脳は全ての情報を 記録する記録装置の ようで そして つけた時に 後から再生します そういう訳で 多くの乱雑な 情報を受け取ると 静まろうとする時に それが出てきます そういう訳で 多くの霊修行者は 乱雑な考えの 収集を避けるため 静かな場所に隠れます それから 彼らが瞑想する間  あまり葛藤せず 乱雑な考えが より少ないからです しかしながら 普通の人々は 永遠に 隠れたりできません

たまには リトリートに行けて それも役に立ちます しばしば 乱雑な 考えがあるなら 放って置きましょう 瞑想する間 修行する法門に 注意を払って 乱雑な考えを 放って置きましょう それはちょうど 運転している間 エンジンやモーターの 音が避けられない様で それを無視して 運転をし続けねば なりません 乱雑な考えを 持っている間 なおも天国の音楽が 聞こえます 隣に座っている 友人と会話をする間 モーターの音が 聞こえるように それは避けられない ものですね

こんな感じです 最初の質問で 中国人が聞きました 気功と観音法門を 同時に修行すれば 仏陀になれますか 現代では 気功は 大変人気があります 二種類の 気功があります 一つは 運動により 体を丈夫にさせます 体のエネルギーを 使って 体を少し より逞しくさせます だから これらの 気功を修行する時 人々がナイフで 私達を突き刺しても 刺せません 多くの場合 体には 首のような 柔らかくて弱い 部分があって 人々は鉄の棒で 首を突き刺したくても 突き刺せません 全くケガしません

また時々 トゲや 釘や 割れたガラスの  上に横たわっても 耐えてケガしません それが 体を鍛える 気功の方法です 前に この方法を 修行しました それが一つです もう一つもまた 気功と呼ばれますが 霊的能力を使います 多くの場合 霊能力を使って 病気を治療したり 体のエネルギーを そのようにして 前後に巡らせます 私の学生の一人も この種の気功を 修行しました 前に 自身の技巧は 非常に高いと 考えていました

多くの場合 彼女はここに立って あそこにいる人を 一撃できて そのエネルギーは 前後に走ります または 時々 跳躍さえできます でも今は 私に従って習い もう自身の技巧は レベルが高いと 思わなくなりました 今彼女は 非常に謙虚学生です 私がどの国に行っても 追いかけてきます 今ここにいます 少し前 中国語で 話した時 これを 言いませんでした ではオゥラック語で
オゥラック(ベトナム)  語で少し追加すれば 皆が有利ですね

最初の気功の法門を 修行できると 言いました その法門を行うのは 体に有益です 体を強くします 問題ありません 気功と観音法門の 両方を修行できます 時間があれば 時間がなければ 気功か ハタヨガを 習わなくて良いです 毎日 床を掃除し ドアを掃除し 服などを洗って 前後に走っていれば それで十分です 二番目の 気功法に関して 病気を癒やすために 霊的能力を使うため 霊的な進歩に 有害であるため 使ってはいけません エネルギーを 誤用すれば 全てを あげてしまうからです

一緒に集中させて いないため ある日 爆発します 大きな開悟に 変わります 分りますか 大きな開悟  すなわち成仏です そういうことです 乱雑な考えを どう止めるか 私はこう説明しました 乱雑な考えがあるのは 毎日外側から 情報を集めている からです 見る目で 聞く耳で 匂う鼻で 常に外側から 集め続けます 記録した何であれ 放つ時が来れば そのように放ちます 私達の脳は コンピュータのようで 記憶したものは何でも 同じく伝えます 多くの場合 少し冷静な時 より明白に見えます

冷静でない時よりも 座って瞑想する時に 乱雑な考えが現れる ということでは ありません 乱雑な考えを 避けたいなら 時々 瞑想するために 平静な場所を 探さねばなりません 私達が 見ず 聞かず 知らず 匂わなければ 記録しません テープレコーダーと 同様で 記録した全てを 後につければ 記憶したものを 正確に再生します ですが「再生」の時 静かに座っていれば より明白にさえ 聞こえます さもなければ 時々活動している時 何を再生しようが 明白に聞こえません 多くの場合 注意を払わなければ 再生していると 分りません ね

それは正に こんな感じです ですが 普通の脳を 持っている人々や 普通の人々にとって 世界と相互に作用し 働かねばなりません これらの情報を 集めないことは あり得ません だから 瞑想の時 より乱雑な考えを 持つことになります ですが 来たら 来させましょう 私達はただ 瞑想を続けます 車を運転するように 騒々しい 車のエンジンを 止めるのは不可能です モーターが止まれば 車は走りません

従って運転していたら 運転し続けます 友人と談話していたら 話し続けます テープを聞いていたら 聞き続けます ラジオを聞いていたら 聞き続けます モーターの音と共に 車の音と共に 聞きます ただ聞かねばならず それだけです 聞くために モーターに停止せよと 強制できません モーターが停止すれば ラジオも停止します 分りますか 電力がなければ 従って ただそれに 耐えるべきです 瞑想していたら 瞑想をし続けること 考えを放っておきます 私達は 仏を唱え 脳は 乱雑な考えを 唱えます 唱えさせて 大丈夫 そんな感じです

避けるのは不可能で サマディにいる以外は 自動的に 魂は 乱雑な考えを 乱雑な考えの振動力を 乱雑な考えの振動力を 越えます 普通の脳を越えたら 乱雑な考えは もはやありません ですが こうなれるよう 常に修行すべきです 座れば乱雑な考えが 直ちに止まる 訳ではありません そうであれば すぐに 成仏したでしょう 霊的な耕作は 不要です 分りますか 乱雑な考えがなければ 修行する必要は ありません 尊敬すべき尊い尼僧様 尊い僧侶が歩いていて 突如溺れている女性を 見かけたとして 飛び込んで彼女を 助けるべきですか

または「男女は接近し 交わりを避ける」と 言われているため 彼女を無視し 歩き続けるべきですか 飛び込んで助けます なぜ無視できますか 彼女は 溺れようと している仏陀です 仏陀は 他の仏陀を 助けるべきです もはや男女に 関係ありませんね すでに話しました 規則は人間を 守るもので 人間が規則を 守るのではありません どんな尊い僧侶でも 溺れかけている 女性を助けなければ 地獄に行きます 彼らは全く 霊修行をしていません 分かりますか 修行していれば なぜ人を助けませんか

「男女は接近したり 交わりを避ける」とは 欲望への刺激を避ける ためです 分りますか 従って 美しい女性を見ず 彼女の手を取らず 肩をさすりません 欲望を減らすために それで私達は 平穏に修行できて 智慧が持てます あまり修行を してない人々や 修行しない人々の 問題を解決するための それで 私達は 彼らを助けられます どの状況も同じでは ありませんね 尊敬する聖人の尼僧様 私の法名はデユニュム あなたの回りに 後光を見ました 私の魂は私が前世で あなたのそばにいたと 私に話します ダルマ(真の教え)を 広げるためにあなたに 従ってもいいですか

それは大丈夫ですか そうしてもいいです 誰でも歓迎です 誰でも私に従うのは 大丈夫です あなたが家族に対する 義務を果たしたなら そして誰も反対しない なら大丈夫です 誰にでもダルマ (真の教え)を広げる 義務があります 私だけではありません 尊敬する聖人の尼僧様 私は無為方法で 修行を行います それはよいですか 第三の目を開く方法が ありますか あなたの第三の目が 開いていないなら それは無為瞑想が よくない意味です 他に尋ねる事は? 観音法門を修行すると 開きます 無為には沢山方法が ありますが あなたは どちらをですか

第三の目 そして 聴覚器官を開く ことができる 無為瞑想の多くの 方法があります それは正しい 「無為」瞑想です それは観音法門と 類似しています どんな方法でも 「非動作」(無為) 「動作」に関らず 智慧眼又は智慧耳を 開けないなら それは誤った 無為方法です 尊敬するマスター これで私達の 質疑応答の部を 終わります おばさんがいます 名前はドゥーホアで 彼女は考えを 表したいと思います ありがとう マスター 南無釈迦牟尼仏 尊敬するマスター ここダルマ講堂で 出席している全ての 修行仲間を代表します

僧 尼僧及び功徳高い 年配の方がいるので 私はここで皆の 代表をする 勇気がありません 従って 私はこれらの 方々を代表する 勇気がありません 私が誰も差別すると いう事ではありません 理解して頂きたいです 私達は誠実と崇敬する 心をもって謹んで マスターを紹介します 受け取ってください 尊敬するマスター 悲劇でいっぱいの 現世の人生で 罪の暗い森で 不幸の海で 不幸でいっぱい 今 私達は悪夢から 目がさめました あなたが伝えられた 貴重な金色の 教えのため 彼らが非常に高貴で 十分に称賛する 方法を知りません

これは2回目です 私たちはアメリカ サンタアナ市で貴方の 功徳に感謝します あなたは現世の岸から 出るために 経路を 私達に示しました あなたは幻想の森から 私達を連れ出しました 私たちを縛る 五感の鎖を ばらばらに切るために 智慧の剣を私たちに 下さいました 私たちの心の中で再び 灯明を灯すために あなたは慈悲の光に 火をつけました 今まで 無限の生まれ 変わり以来 無明の ベールが私たちを 覆っている世間の 汚れを自浄することが できるように あなたは 素晴らしい聖水を 私達に持ってきました

尊敬するマスター あなたの素晴しい 慈悲深い心 私達は どのように 称賛したり恩返し できるか分かりません 私達は最善を尽くして この教えに従うことを 誓います 例えば 菜食になり五戒を守り 三昧に入り瞑想します 私達は仏陀の恩恵を 無駄にさせないため  仏陀にならなければ なりません 尊敬するマスター もう一度私達は謹んで 三宝を尊敬する 私達の誠心を あなたに献呈します そしてあなたの教えに 従うことを誓い あなたの高貴な任務と 永遠の素晴らしい 最高悟り境地を すぐに達成するように 祈ります 南無 釈迦牟尼仏 個人的には 私はマスターの努力を 返す方法を知りません

私の限られた知能と 才能にもかかわらず 私は詩を書きました 承諾を頂きたいです 説法の会場で 私達の心を静め 花のランタンと いい匂いの水を作り 神に捧げ 仏法が永遠に 続くように祈り 誰も平和に 喜んで 経典を勉強し 謹んで 三世十方の諸仏に お辞儀致し 私の心の線香で 謹んで 阿弥陀仏にささげ あなたの深い慈悲で 偉い智慧を浄化し 世界を救うため マスターは観音法門を 伝え 混じり気のない エメラルドのように 清く(チン) 海(ハイ)の灯台は 遠くて広く光を放ち 存在と 無存在(ウー)は 永遠にこの無常な 世界に残り 無上(シャン)の レベルで 智慧を見守り 阿弥陀仏に 開けられ 用いられ マスター(シ)は 如来の法を伝え 全世界に普及させ 世俗の意識を 目覚めさせ 妙法が 遠くて広く流布し 道を開き 良い種を拾い 愛の松明の光で 人を哀れみ 妙音が悪いカルマ (報い)を洗浄し 世間の塵を減らし 明確に真理を理解し 咲いている花を取得し 衆生が 意味深い仏法 (本当の教理)を悟り 仏土に生まれ 蓮の王座に座る ありがとうございます デェウホアさん 穏やかで(デェウ) 調和してます(ホア) あなたの無限の 平和と満足 すぐに悟りに到達し 仏性を見つけますよう 祈ります 阿弥陀仏 お幸せに

皆さんの幸せと 菩提の早期達成を 祈ります 阿弥陀仏
なぜ瞑想を学んだり 神と再結合するために 私達にはマスターが 必要なのでしょう あなたがフォルモサ (台湾)での講演を 私の弟子が集めた 本を読んだなら マスターはただの 水道管として見なす ことが分かるでしょう 水道管はあなたの家に 水を送り込みます 管を保護しなければ 水は汚れますし 道に迷うでしょう あなたの家に 水が来る前にです 分かりますか 私達のこの世は 幻想の世界であり 物質の世界です 神自身がこの世界に 降りてきたなら 目に見えず 実体のないものなら 私達は決して 神を把握できません 従って神がこの世に 来たいと思うなら 神の魂を送ったり この世界を愛するなら 神は自身の体を 包まねばなりません ちょうど香水瓶が 香水を入れるように

私達は瓶について気に しません 丸くても 四角でも長くても 大きくても中身の 香水を気にかけます しかし 瓶が壊れたなら 香水を他の瓶に 移してもいいです イエスは「瓶」でした ふざけている つもりはありません いいですか ただメッセージを 明確にしたいだけです 仏陀は「瓶」でした ほらね 今 平等になりました 仏陀にも触れましたよ 私もまた「瓶」です とても小さいけれど 中に入っている香水が 神です 誰も作れません 私達が開悟しようが しまいが それは 慈悲ある神によります

私達が何にもまして 神を愛する時 この世の欲望を超えて 開悟したいと思った時 それを得るでしょう 私達は神を脅迫できず 神に嘆くことはできず 苦情をいうことも できません 強要したり 抑圧する こともできませんが 献身と切望 心からの切望で神を 魅了する事はできます この切望は時々痛みや 苦しみにも似ています ええこの世のいかなる 苦難より辛いです 私達がいったん 開悟すれば痛みは 落ち着きます でも大きくなります

更に多くを 切望するようになり そして心地良い痛みと なることでしょう どう言ったらよいか 分かりませんが 「心地良い痛み」です ちょうどこのようです 中毒のような感じです 申し訳ありません 世俗の言語ではこんな ひどい言葉を使います 神に関連する事を 説明しようとすると 言えば言うほどひどく 聞こえてしまいます あなたがこう聞いたと します 隣人の少女か 少年が美しいと それであなたは彼らを 見たいと思います まだ見てはいませんが 見たいと思うでしょう 今現在は好奇心で その事をよく聞くので 見たいと思うのです それは単なる好奇心の 欲求ですが しかし 時々とても 緊急な感じがします 「そこにいるのに 見たことがないの?」 一度彼女を見たら わあ あなたはもっと見たく なります以前より 悪くなります

その少女がどれほど 美しいかとか 才能があるか いかに道徳的で あなたの好みに適して いるかをです 同じことです 私達が神を見る前に 神について沢山 聞きます 経典は神を 説明しています 「神は愛で 栄光で 永遠の至福です 神を見たならあなたは 魅了されます」など しかしあなたはまだ 夢中にはなってなく まだ神を見てなく 触れてもないからです そして一度 陶酔すれば あなたは常にもっと切望します でもあなたは世俗の 感覚全てに満足する ことになるのです ええ ただ愛なのです

神に陶酔することで 全ての世俗の欲求を 取り除きます 世俗の歓び 悲しみに 執着することが なくなります あなた神の存在を どんどん失って いきます、 そして最後には神と 一つになります イエスが言ったように 「私と父は一つ」だと 彼はその状態に到達し でも人類の全歴史上 その状態に 到達した者は 彼一人ではありません そうだったとして イエスだけが 神の意識レベルに 到達したというのが 本当なら そうなら 非常にがっかりする ニュースでしょう 考えて下さい 数百万 数億 数億万の人々 イエス以前の人々は 地獄へ行ったのですか 分かりますか 信じられますか 教えて下さい ええ はいかいいえか 「はい」「いいえ」 そうですね両方を 受け入れ 説明します なぜ「はい」か 説明して下さい 「はい」と言った人 立って説明して下さい なぜ他の何億何億万の イエス以前の人達は 地獄へ行ったのですか ええ説明下さい 神がいかに慈悲深いか

「はい」の人立って 説明下さい 神が どれなにひどいか 教えて 勇気がないわ では次回はそれほど すぐ言わないように 話す前に考えて下さい でないと 大きな過ちを犯します 時に自身が導き 他者も賛同したり します 誤った方向にです では「いいえ」と言った 人 理由は何でしょう はい 教えて下さい 神は皆の内に 一人 ひとりの中にいると 私は信じています ただそれを 生じさせるかどうかで そして微妙な手段を 使い 神と接触します その事柄を 目で見るのではなく 耳で聞くのでは ありません 使わねばなりません

(内面の人を ええ) 内面を そうです 分かりました あなたは理解してます 第三の眼を開きます ええ いいでしょう それを通し神を見ます そうです そうです 内在の眼 内在の耳を 開き神を見て聴きます そうですね その通り 私も同じ意味の事だと 思います ええ その通りです では神は内にいます 皆が知っています でも内に住む神を 私達は知りません フォルモサ(台湾)から 来たチンハイが 神と接触する方法を 教えます でも質問は なぜほとんどの人々が この世界の救世主は イエスだけだと信じ イエスを信じない人は 地獄へ行くと思って いるかです

問題はそこです それで「いいえ」と言い 私は「いいえ」集団に 賛同するのです 神は慈悲深いのです 初期以来 神は常に 人間の面倒を見てきて くれています イエス以前の人々は罪を犯し 人々は苦しみ 神を 必要としていました 神はまた遣しました モーセのような洗礼者ヨハネのような 人 多くの人々を 送りこんできました はいモーセも 神の使者でした それでモーセ以前 何年も大昔から 神は常に誰か一人 二人 三人 四人と 神の使者を この世に 私達の救世主を送り 私達の誤った考え 行為を改めさせ 神の王国に引き戻す ためにです

でないとイエスだけが 人々を救うなら イエス以前の人々は 何億年も前の多くの 人々はどうなりますか 神は愛さなかったの? 論理的ではありません 本当に神を崇拝して 理解しているなら 私達はイエスだけが その人一人であると 信じるなら 仏教徒の人々は 仏陀だけがその人だと 信じるなら ある人は イエスさえ 信じていません 彼らは互いに 言い争っています 私達が慎重に考えたり 開悟していれば 仏陀とイエスは 異なる時代に 人類を救うために 神により送られた ことが分ります

それは大変興味深く  印心を受けた後は 神と繋がるのに 内面深くへと入り そして 世界の聖典の類を読み 内側に全く同じ教えが あるのを知ります 皆さんの一部の人は 私に同意し 一部は同意しません 読んだ事がある人 読んだことのない人 少し開悟している人 あまり開悟していない 人もいます でもイエスが唯一で あるとは 意図していません イエスを語るのは これを証明するに十分 イエスは自身の人生を その当時の人々の 罪のために犠牲にし またその後  数百年間 加護し続けました

ええ 現在 約二千年です 私達はイエスの教えを その大半を忘れて また聖書は時に 多くの場所で 半分略され 検閲され 誤解されました 私達が 開悟していないなら イエスからの 真理の言葉を識別し 把握するのは 困難ですし それらは 誤解されています 彼は自分は唯一では ないと証明しています こう言いました「私が 今日為した奇跡は 汝らもできる 汝らの 方がうまくできる」と そうではありませんか 聖書では 違いますか それで私達はイエスの 言葉を信じるべきです 私達はイエスのように なれると言っています

その上 私達はみな 神の子だと 自分だけが神の子では ないと言いました それは逆説のようだが ある方法で言いました 「私を通さずして 天父の元に行ける者は いない」と それから 一方ではこう言います 「汝らはみな 神の子である 私が今日できることは すべて汝らは将来より よくうまくできる」 逆説ではありません つまり イエスは既に 神を知っているのです 自分が神の子だと 気付いています  また当時の人々は すなわち人類全ても やはり 神の子なのですが でもそうであると 気付いていません

仏陀も同様に 言っています 「私は仏陀に達した 汝らも 仏陀に到達する」 彼はまた言いました 「全衆生に仏性がある」 仏陀と等しく 彼が 得ているのと同じです 仏性は神の魂のように 父と子と聖霊です 同じです 聖霊とは神の魂で 子は 神の創造物です 神が創造したものは皆 神の子であり 天なる父は 子と すべての子を創造し それらに 聖霊に吸収されます 聖霊とは 神の本質なのです 私達は皆 内に 聖霊を得ています それで自分は 神の子だと呼びます イエス 仏陀 ムハンマドは 自身に聖霊が宿って いると気付いています つまり その他 他にもいます 聖ペテロ 聖パウロ 聖フランシス ええ 聖ヨセフ それで私達に内在する 聖霊に気付く人は皆 神と一つになります 神はその者が神の子と 気付いています

忘れる前に お伝え しなくてはいけません 昨日 多くの質問があり 約千件の質問があり 全部にお答えできま せんでしたので 今日 答えるとお約束します そして一日中私達は それに取組んでいます どれそれがどれだけか どれほどの作業か ご存じではありません それで今まで 遅れたのです 九時前に出て  講演が終わる前に 出られたら準備できて いたらご自身のために 一つお選び下さい まだなら 私が 質問にどう答えるか 知りたいとまだ 興味をお持ちです

ご住所を 受付にお渡しになり 一つ選んで ご住所を 書いて下されば私達は 後日郵送致します 宜しいでしょうか お仕事に関して不満を お話しにならず なぜそんなに遅いか ただ説明下さい ですから 書くことが沢山あって 書き直して 私に スペイン語で説明 されれば私は英語か 中国語でお話します そして彼らが再び スペイン語に訳します もし本質が 通訳を介して 正確に書かれているか 見るために すべて全部が再び 私が目を通すべきです

では言及したい項目が もう一つあります 昨日どなたかが質問を され 私は今日の午後 読みました その方は私の教えに 従いたいのですが 思うに私が女性なので 躊躇されています この世に 女性がいなければ 彼はどう存在しますか イエスですら どう この世に来ましたか あるいは仏陀や より 偉大な人達の皆は? これは逆説です つまり これは人間性です 私達は自分起源 非常に簡単に忘れます 恩人をです 自分の母や姉妹を含め 女性の利益や 愛深い配慮と献身を そう簡単に 忘れられるのなら 神をどう思い出すと いうのでしょう

大変難しいです 「女性と母」は 目に見えるもので 私達に大変近いです 毎日 私達はこの事を知り 忘れます この事を忘れます 常に女性を軽蔑します あんなに遠く離れ 抽象的で 形而上学的で 今まで神を一度も 見たことがないのに 神を知れるでしょうか 私はこの事実に不満を 言ってるのではなく 私は私の価値を知り 皆さんの賞賛も非難も 必要ありません ええ この世にとって 女性の利点は 打ち消し難いのです 女性はすべての仏陀の 過去 現在そして 未来の聖人の 母親なのです 私達は聖母マリアを なぜ崇拝しますか なぜ?

彼女は普通の 女性にすぎません マリアも女性です 私達がイエスに表す 敬意のせいです 私達の知る限りでは 聖母マリアは何も 奇跡は起こしてません 誰も助けていません なぜ敬うのですか マリアには イエスを生んだ 価値と功徳があり 私達の世にイエスを もたらしたからです 聖人を生んだことで 一人の女性を 尊敬できるなら なぜ他の聖なる女性を 尊敬しないのですか 聖テレサと比べて 私の違いが 分りますか または聖母マリアより 私は劣っていますか 私は何かあなたに 面倒でもかけましたか 何か悪いことを 教えましたか 或いは何か不都合でも いいでしょう

「男性」と「女性」はただ 私達の見た目の違い 認識の違いなだけで 内側はみな同じです 私が「聖女」と言えば 自分で誇っている わけではありません 皆さんの西洋の用語が 聖人について説明する ように私はカテゴリー の方法で話しします 聖人とは何ですか 何れも好きでないです 分りますか 聖人とは 高徳な人です 他者を助け 他者を愛し 神と天のすべてに献身 的で 開悟しています ある人が 開悟し 愛深く 神に献身的なら その人は聖人です ですからあなたの 西洋とカトリックの 専門用語によると 私は聖人だと思います

それで構いませんか 宜しいでしょうか ありがとうありがとう 私がそういう時は 誇りに思っていません 誇りに思うかは 関係なく ただ 私はあなたが真実を 理解するよう ただ物事を明確に 説明するためです あの女の子のように ケンブリッジ大学を 彼女は卒業し 医者になりました またある男性は米国の プリンストン大学を 卒業し 医者になりました 二人とも同じく 開始しました 分かりますか 二人とも言いました 「私は医者だ」と 何も誇りに 思う事はない ただの卒業です イエスが 彼は聖人だった 彼は形而上学的 学校を卒業しました

どうして知りました? どう知るのですか 医者が 医者だと 言わなかったら 患者はどのようにして 彼を訪れるのですか ただの仕事なのです 聖人でいることも 仕事なのです 形而上学的な仕事 金銭的な仕事ではない 地位もない この世界には 完全がなく 称賛がなく 時に感謝も ありません 例えば  イエスの人生です 彼は人々の罪のために どのように犠牲になり どのように犠牲を 払ったのでしょう この物語で 聖書を読むたび 私は何度も泣きます 彼の愛で泣きます 人々の無知と 残酷さに 私は泣くのです 現代でさえ 彼を批判する人がいて 彼は偉大な聖人だと 信じていない人がいて それが最も悲しいです それは長期間による 洗脳なのです

これは 私達が イエスは一人の 人だと洗脳して 信じていて 神は無慈悲で 全てのイエスの 前に居た何十兆の 無数の人々は 皆地獄に行ったという それはイエスの名を 聞いたことが無く 彼を信じる 機会が無くそれは仏教信者も 同じように洗脳され 女性は仏陀に なれないと 信じています 開悟したマスターに なれないと言う意味で これら全てを拒絶する ことを紹介します とても憂鬱です どの宗教でも 希望 信念 そして 自信を人間に もたらすべきです 宗教に対する 解釈が間違ってるなら 拒否すべきです 宗教を信じますが

間違った解釈と 洗脳は 信じていません 分かりますか ありがとうございます では神を自分自身で 見つける最善の方法と 宗教の本当の 本質を理解するには 開悟して 直接 神と触れることです 私が言った事を あなたが信じるなら 試す機会を 皆さんに与えます 金銭的な 寄付は一切無く 無条件で いかなる 束縛もありません 私に礼拝する 必要はありません 私を「マスター」と 呼ぶ必要はないのです 私を友達のように または「チンハイ」と 好きに呼んで下さい 宗教を 変えなくていいです 同じ様に 教会に行き 聖書を読み 印心で皆さんに 見せる方法で 毎日  神と接触して下さい

私達が生まれる前 母の胎内で 私達の魂は 解脱を求めたのです

私達は誓いを立て あれこれ誓いました 「生まれたら わたしはきっと 全衆生を助け 人々に奉仕し 慈悲深くなり 全てに愛深く ビーガンになり 観音法門を修行する」

スプリームマスター テレビジョン 十月二四日日曜日 スプリームマスター チンハイの講義 題して「現世こそ 最高の学校である」 第一部を智慧の言葉で ぜひご覧下さい

本日のスプリーム マスターテレビで 「現世こそ 最高の学校である」を 智慧の言葉にて ぜひご覧下さい

在世のマスターは 全衆生を教えられます でも皆がマスターから 学べるとは限りません 弟子として認められた 者だけに 最後まで教える 困難を受け入れます 天人でさえ彼から 学ぶことはできません 彼から学ぶために まず人間として 降りて来る必要がある

スプリームマスター テレビジョン 十月二六日火曜日 スプリームマスター チンハイの講義 題して「現世こそ 最高の学校である」 第二部を智慧の言葉で ぜひご覧下さい

本日のスプリーム マスターテレビで 「現世こそ 最高の学校である」を 智慧の言葉にて ぜひご覧下さい

そんな状況でも 絶望してはいけません 心が霊修行を 忘れない限り 内面のスプリーム マスターを 忘れない限り 私達は進歩します

スプリームマスター テレビジョン 十月二九日金曜日 スプリームマスター チンハイの講義 題して「現世こそ 最高の学校である」 第四部を智慧の言葉で ぜひご覧下さい

本日のスプリーム マスターテレビで 「現世こそ 最高の学校である」を 智慧の言葉にて ぜひご覧下さい

 
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