智慧の言葉
 
Surrendering to God's Will is Freedom-Part 1 Mar. 9, 1993 Singapore (In English)    Part 2
Part 1
Part 2
Download    

それは実際そのように 真実です いいですか たっぷり瞑想すると 実際空腹を感じないと いうのは本当です 食べたいと思いません 食べ物は好きではない それが私の経験です それで私は大抵 朝食を摂らないのです 四時 五時 六時 八時までという具合に 忙しいかどうかにも よりますが 部屋を出て することがあれば まず働きます 本当にめったに 先には食べません  お腹がすかないのです そして働いて 働いて働いて働くと 少しお腹が すくので ペコペコに なる前に食べます 本当にペコペコに なるまで待つと 食べ過ぎるからです ですから空腹の 六、七割ぐらいで 食べれば そう食べ過ぎません その後は大丈夫で もう夜になります そして 差し迫っていない 仕事をした後 続けて働いて その後瞑想するのです

時々私は 出かけねばならず 寒い中を暫く歩くと 少し空腹を感じるので 戻ってから  何か食べます でも家ですから とても簡素です 話しましたよね ゴマと玄米を 皆のために用意します もちろん彼らは それに豆腐や 作ってある簡単な サラダも食べます 豆腐はこうして 生でも食べられます または時々 飽きたら 少し油と調味料と 醤油で さっと炒めて  玄米とゴマ それにサラダと 一緒に食べます それだけです サラダには 何かのソースや 醤油をかければ 出来上がりです サラダは 色々な野菜を混ぜて 生で食べられます

ですからさまざまな 栄養が得られますね またある日は このサラダで 翌日は 違うのを食べられます 大丈夫です そして それが毎日で 本当に飽きたら 野菜を炒めます 生で食べられないか おいしいと 思えないものをです 生だと おいしくない野菜も ありますから そんな日は炒めて ご飯と食べるのです とても簡単です 沢山はいりませんし 何品もいりません 彼らは時々 何品も作りますが 私には分かりません 私は一品だけです おいしければ それをずっと食べます

大抵は一品で十分です 一種類です 簡素です 簡素で とても気軽です

気軽で簡単です 私のライフスタイルは とても簡単です 何日間か玄米も ゴマも何も食べずに いることもあります サンドイッチと サラダとキュウリ そんな物を食べて 後で果物を食べるか ジュースを 飲んで終わりです そして 空腹でなければ 数日は玄米やゴマも 欲しくないのです 場合によりますが 玄米と豆やゴマだけで 十分です

全く何も 料理しなくても 他に何も食べなくても 十分です 毎日そういうものを 食べるだけで 栄養は十分です 果物や野菜さえ いりません 本当です フォルモサ(台湾)に 知り合いの僧侶がいて 彼はオゥラック (ベトナム)人です 玄米とゴマと塩以外は 何も口にしません ゴマ塩にしたものです 彼はゴマを 大きな大きな袋で 大量に安く買います そして 周りの人が 彼のために挽いて 瓶詰めにして保存し 毎日玄米だけ炊くと 彼は一緒に食べます 他に何か食べるのを 見たことがありません 時々 果物ジュースを 少し飲みますが 人が 作ってくれた時だけで なければ何も食べず 水とゴマと 玄米だけです でも彼は大柄です 私の三倍ぐらいです お奨めはしませんが

そして彼は気功の 先生でもあります 誰も傷つけられません ナイフでも弾丸でも 死にません

気功をする人を 知ってますね ナイフで刺しても むだです はね返すだけですね 彼は気功を教えてます いいですか 教えるのを見ましたが ただ話したり 教えるのとは違います 彼は鉄の棒を曲げたり のどを槍で突いても 平気なのです 最も敏感な場所にも かかわらずです 槍でのどを突いても そこで留まり  少し赤くなるだけです 肌に何かを 当てた時みたいにです ほんの小さな 赤い点だけで 他に何もありません 血も出ず 皮膚に深く 刺さりもしません  槍は赤いあとを 残すだけです 

何かで押すと 赤くなりますから ただそれだけです それも二秒で消えます 血も出ず  あなもあかず 傷も何もありません またガラスの破片の 上に横たわって コンクリートを積み ハンマーで強打しても 何ともありません 赤くなるだけで それも消えます ええ 本当です そして玄米とゴマを 食べて 水だけです ええ 私が証人です それを見たのです 私は最初フォルモサ (台湾)に来た時  彼の寺にいました 日常を知っています ですから もちろん  ごまかしはありません  さまざまな気功や あらゆる事を修行して 生活もそうでした

食べ物だけではないと 思います そして彼は常に いくつかのボールを 使って訓練し 気の調整をしたり していました とにかく 皆それができます 日本にある人がいて 日本にある男性がいて 玄米とゴマの提唱者で オーサワ(桜沢)と 言いますね 何かを修行してるとは 思いません 彼は 私が話した 僧のように大きくも 太ってもいません 彼は痩せていて 七十歳かそこらの時 彼はまだ 世界中を回り 玄米とゴマの食事法を 語っていました なぜなら 彼は  あらゆる病気を 治すと言ったからです ガンやその他 すべての病気も同様に 証明しています 世界の多くの人々は この食事法にならい 病気を治しました しばらく 玄米やゴマを 食べていくうちに 何か他のものを 食べると 体がそれに 合わなくなるようです その方が体が 吸収するのに ずっと 簡素で純粋だからです まさにその通りです そう言われています

でも私は狂信的でも 何でもありません

私は 数日玄米と ゴマを食べました いつでも用意しておき 主食のようですね 他になければ それを食べます それで十分良いですが ただ何でも食べます たいていはそれです ほとんどその食事です でも時々 多様に サンドイッチとか 何かを食べます それにジュースで 大丈夫です ビタミンも取ります 必要なビタミンなら 何でも あるいは 総合ビタミンをとるか 年を取っているなら おそらくカルシウムか 何かを少し取ります 必要だと思うすべてと 補助成分をとれば それで良いです

ここにいるより その方が気分が良いと 認めざるを得ません ここの食物はおいしく 種類も沢山ありますが 食べた後 常に気分が 良いとは限りません とても疲労を感じ 眠る必要さえあります 食べた後 もう機能できません 多すぎて 豊かすぎて 体は全エネルギーを 使って消化すべきで たぶんそれが原因です 自宅にいると とても簡単に食べます 食後 すぐに 働き続けます どんな違いも 感じません でも ここにいると 違いを感じます 食べた後はいつも たとえ 出て来るよう

請われても 私はそう しません できません 多すぎるのです 可哀想なカビール 私が何を話しているか 彼が分かりさえすれば 彼の妻がただ  石を料理したから そうですね

はい妻は ただ 石を料理しました 彼らはほんの僅かでも食糧を借りに行く はめになったのです ええ 覚えてますか 彼は妻を食糧と交換したほどです なんて人でしょう でも彼は分かります 起こりそうでないと 知っていました たとえ起きても 彼は 無頓着ではないです

彼らは 神の教理を 広めるために 何でも売ります ほら 彼は何と純粋でしょう すべての人々が 彼の家に来ても 彼は何か寄付するよう 彼らに求めません 静かに出かけて 妻を売って ほとんど 売りそうになりました

チャパティのためにね なんて 安いのでしょう 体は 体は安いですね いずれにしても 例えば私達が死んだら たぶん 腎臓を 移植のために 売ることができます 約二千ドルくらいです でも 私達の体は そんなものです 腎臓がまだ使えて 心臓がまだ 鼓動していたら  たぶん二百ドルか 約二千ドルで売れます どの部位かによります さもなければ 体は役に立ちません 死んだら役に立たず 誰もそれを買いません たぶん 研究所には 提供できます 学生が研究するために 細かく 切り分けられますが 大して役立ちません

ですから食料雑貨屋の 男が 妻を一晩買うと 期待しても 彼は気にしませんし 彼女も気にしません

二人とも完全に 神に献身しています 自身の体であっても どんな形であれ 神の意志に従い 感覚ある衆生や 他の人々を救うために その体を提供します 彼らは本当の聖人です 彼らは幸運です そのような妻と そのような夫がいて 羨ましくありませんか 羨ましいだけでなく 見習って 同じようにすべきです 古代の聖人と賢者の 物語を読むのは 自身を楽しませるため だけではありません 面白くしますが もちろん私はいつも 面白いですが 内容を 十分納得しています

ただ面白いからとか 自身の娯楽のために 読んだりするのでなく 聖人の生き方や 生活様式を知った上で 彼らの生き方に到達 できるよう努力します それが 人々が 聖人になる方法です たとえ聖人に 生まれてこなくても 聖人になれます 聖人にならい 彼らがしたように 全く同様にすればです 光と音と繋がる法門を 修行すると たとえ最初は暗く ぼんやりしてても 一生懸命に努力すれば あなたはすぐに 偉大な聖人になります 誰もが生まれながらに 聖人の品性があり 使うかどうかです 本当にそうです 神の王国を拒否する 人は誰もいません 本当に望むのなら 誰一人拒否しません たとえ阿修羅界か ちょうど地獄から 戻って来たばかりでも すぐに聖人になります 本当に誠心誠意で 献身的であればです

「全聖人に過去があり」 本当にそうです 「全罪人に未来がある」 神の目から見れば 罪人はいません ただ間違いを犯し 状況がそうさせた だけなのです それはこの世界の誘惑 白檀の木に まとわりつく蛇です ですから私達がすべき すべては ただ集中し 他の何もかもを超越し 本当に神を愛すこと そうすれば あなたは 本当の聖人で または すぐに聖人になれます

これはとても論理的で 簡単な解決法です 聖人でいることは 何も神秘的ではなく 決してそうではなく ただ本当に神を求める 願う それだけです それが唯一 要求される要素であり 神と共に ありたいと思う あなたの真の願いです 心から家に帰りたいと 願うその想いだけです あなたが 考えを変えて 概念を変えて 神が すべての上に存在し 真のあなたの家であり あなたの居場所だと 新しい概念を受け入れ 家に帰る事を願います それが唯一の概念です 心の中で 変えるのです 受け入れるべきです それこそが あなたの人生であり 今からそれによって 生きて行きます 聖人への条件は これがすべてです もう何もあなたに 触れることもできず 変えることもできず 何もあなたを困らせる ことはできないのです

でもどれほどの人々が そうできるでしょうか それが問題です 概念です 心の中の概念を 変えねばなりません 考えを変えるべきです 生きるために働かねば これをちゃんと やらなければ 仕事をしなければ この世で成功せねば という考え方を 神を知るという 概念に変える 必要があるのです あなたはまだ仕事を 続けますが それが 重要点ではないのです 最善を尽くしながら でも これをすれば 神を見出せる やるべきことはやる そうでなければ 放っておこう 神のために放っておく これが真の 放下の精神で 真の出家者の精神で 真の聖人の精神です

ほかにありません では次に行きましょう 第四節です 「全くの無知な者らは 気楽な睡眠を楽しむ だがこれを知った時 未知なるものを知ると 私は災難の中に 落ちるであろう 何も知らない人々は 本当に 全くの無知な人は 気楽に眠れるのです そうでしょう 彼らは皆外へ行き 何かを売ったり 肉体労働か 頭を使う仕事をしたり そうして夜を迎え 月給か 週給であれ そうやって お金を稼ぐのです 稼いだお金で お腹を満たします そういうことです 他に何もありません それで もちろん 眠るのです

しかし未知なるものを 知った人は それまで 神を知らなかったけど 今や神という 未知なる存在に 気づいてしまうと 困難が始まります この詩で「災難」と 表現されているのは 災害や悲惨な状態とは 違います 言うなれば心の中に 起きる動揺のようで 彼はもう神以外は 欲しくないと思います 分かりますか この世的に  文学的に表現して 災難と言っています 仕事を気にしない人 とは どんな人ですか 妻に触れることもなく 食欲もなく 夜も眠らない人とは どういう人でしょう 災難ですね

実際 この世界で そういう人は どう見えるでしょう 狂人と思われますね ですからカビールは そのように言いました 彼は今災難に陥って しまう原因の未知なる 存在を知ったからです でも彼の受け入れた 災難はとても幸せです でないと あのままの 生き方を続けてますね 恋をしてる時と同じで なす術がなく どうにも出来ません 恋をすると何であれ 両親の言葉は聞こえず ああ あいつは貧乏で 悪いやつで お前には釣合わない お前には相応しくない と言われる時と同じ 聞き入れますか 聞き入れませんね

ただその人が 欲しくて 欲しくて この先 どうなろうとも 気になりません 誰か他の人の ご主人に恋をする 女性と同じで どうにも出来ません してはいけない 悪いことだと 分かっていても 傷つくと知っていても どうにも出来ません 分かりますか 神に献身するのは これとよく似ています 愛する 未知なる神を 垣間見ることを 知ってしまったら あなたは引付けられ いくらでも続けて 少しでも時間があれば 座って長時間 瞑想してしまうのです あなたは気にならなく なります 食事も 仕事も 妻も 夫も子供も 何もかもです ですから私は皆さんに 警告するのです この世ですべきこと 仕事は続けて下さいと そうでなければ 皆さんは一日中ここで 座ってしまうでしょう

ですからインドでは こんな制度があります 若い時には 学びなさい 両親の言いつけを聞き そのようにしなさい 人生の半ばでは 結婚をし 他の人と 同じようにしなさい するべきならする そうでないならしない いいえ つまり これが普通の状況です 古いインドの社会では そのように なっています だから誰も文句なく 人々は生活し 制度もそのまま 続きました そうでしょう ですから 何も変わっていません

しかしほんの一握り 全部省略する人がいて

青春時代 学生時代を飛び越し 家族をも飛び越し

第三の時代氷の時代に 直接進むのです 氷の時代ではあなたは すべてを凍結させ すべてを捨てます あなたは直接 道場のマスターの 足元に座るのです もしくは自分自身で 修行します おそらくそれから後 弘法に出かけるます

古き時代の 僧侶と同じです 全段階を 省略したい なら そう出来ます でも一段階ずつ 進まねばならないなら 若いときは学び 人生の半ばで結婚し 子供を持ち 仕事などをするのです 年を取り 引退したら マスターの教えに 自らを捧げ 教えを広めたり そうしないまでも 道場で修行するなど 例えばこのようです

ええ 私達もできます 私が朝昼晩の食事を 一度で済ませる ようにです 時間を節約します 私にはあまり 時間がないので それが便利なのです

だからそれを続ける だけでも良いのです すると瞑想時間を もっと持てます  世界にとって 皆にも 自分にとっても より重要だからです 私も皆さん同様 真の 故郷に帰りたいです 仮に皆が帰って 私が いないと言うでしょう 「マスター  まだ下にいるのですか 手を貸しましょうか」

私は皆の山ほどの カルマ(報い)を 譲られて ここで苦しみ 悪い カルマ(報い)の下に 埋まってるかも分かりませんよ その時は 下を見て 私を助けて下さいね ええ 時には 子供が成長したら 親を手伝いますよね 親は年を取ると 弱くなり 病に苦しみ 長い間犠牲となった だから子供が 世話するのですね ですからもし皆さんが 上に行った時に 私がいなかったら 電話してくださいね Eメールか何か 送って下さいね

いいでしょう では第五節に移ります 別の節です 「科学や知識の ある人は その意識の中で 強烈な混乱が起き 剣を持たない 戦いをして 毎朝目が覚めると 自分と格闘する」 そんなものです よく分かっていますね

それでは さっき彼が言ったのは ひどく無知な人は 楽しく 気楽に  寝ていられるという事 おそらく 言葉の知識や 知的なゴミを 積み上げていない人も よく眠れると 言っているのです その通りでしょう 労働者や そういった世間の 名声や肩書きに 貪欲でない人は 自由に眠れます それで 悟った後でカビールは このことを発見し 労働者のように 手仕事で報酬を得て 気苦労せず 働いて 正直に暮らしました 家に帰ると 食事をして 眠ったのです 罪悪感も重責も心配も ありませんでした 同様に 聖人が そういう状況にいれば 簡素で 単純に考え 野心はありません 一日一日を暮らし 労働で報酬を得て 気ままに眠りました そんな感じです

でも以前はそれを 知りませんでした 彼もまた深刻な 災難にあったのです ある意味では 四節は二つの分類に 解釈できます とにかく聖人の ほとんどがそれを 書いていて 深遠です

繰り返し 調べて下さい でもカビールによれば 知的なゴミを多く 積み上げ過ぎた人は 眠っていても 頭の中の雑音が 多いのです そう言っています 刀も銃も持っては いませんが  全世界と 毎日毎晩 戦っているのです なぜなら あれもこれも 心配しているからです 知れば知るほど より気がかりです 多く考えすぎ 計画を立てすぎて 時々 頭の中で その計画が動き  時々は動かず 騒がしすぎて 忙しすぎます カビールによれば それが毎朝起きて 自分自身と格闘する ということです ゴミが多すぎ 役に立たない知識や 情報が多すぎます それら全てと戦います これは良いこれは悪い これは良いなどと 科学でさえ 常に更新されるので ついていかないと いけません 医療技術でさえ 常に更新され 常に新しいのです なので いつどこが 新しくなったか ついていこうと 奮闘せねばなりません 常に忙しくいつも 忙しく 決して決して 止まらないのです マスター 四節では 神への無欲で 五節の一つでは神の 居場所がありません

ええ そうです 四節では無知過ぎて 神に対して 何も求めず

何も知りません 五節では忙しすぎて 神との時間がなく そのどちらも とても悪いことです でも無知に見えても 彼は違い 聖人のようなのです

聖人や無知のように 見える聖者は 一種の無知なら そうではなく 彼は問題ありません さて 六節ですね 目を見開いて 私はさまよった だが視界を横切る ものはなく 誰の心にも マスターは宿る どうして彼は 難解なままであろうか それについて 何か分かりましたか もう知っていますか 「難解さ」は近寄り 難さを意味します

違いますね それはこうです 彼が瞑想していて だれも彼の視界を 横切らず 誰もその道にいなく 誰も視界を遮らない

彼はマスターの心に 住んでいるからです

それで道において 強いままでいられ 難解さは揺るぎない ことを示すでしょう ええ でもどうしたら 難解なままなのですか

いえ 良いでしょう マスターが 彼の心の中にいれば 隠れられず 現れます 分かりますか 神のために神に捧げた 人にはそれが現れます 難解なままでいられず 隠れられません そうですね マスターは 心を 持つ者の心に宿るので 隠れられません

人々は勘付き 彼らは わかるでしょう 皆さんよく知ってます 何も言わなくても 誰かが寄ってきて 根掘り葉掘り聞き 何かしら 言ってきたり 尋ねてきたりします 隠せないのです 私と同じです 自分自身を 隠そうとしても うまくいきません 身体のまわりの光や 頭のまわりの光が 見えてしまったり するので 彼らは近寄ってきます ホテルでも声を 掛け合い寄って来ます

内にある光を 隠すのは 簡単ではありません 一度光が漏れたら

悟りのボタンを 押してしまったら 悟りとは光が 明らかになることです

あなたの内に 閉じ込められていた 光の存在が 印心のあと こじ開けられ 人はそれを目にします だからです 心の中にマスターへの 献身があるのです いつもマスターを 思うのです 隠しようのない 他人にもそれとわかる 伝わってしまう ものなのです

「目を見開いて 私は 彷徨った だが視界を 横切るものはない」

心にはマスターが いるだけです 心の中には神のみ ですから歩いていても 仕事をしても食べても 人と接する ですが自身は 誰のことも見ていない 誰のことも認識しない という意味です 誰のことも 気にならないのです

恋をしているとき この世の他の女の子も この地球の他の男性も 全く目に入らないで 一切忘れてしまう いつもその人の事だけ 考えてしまうのです 若かったとき 恋をした人は皆 私の言うことが 分かるでしょう

分かりますね 最低でもその週は ハネムーンのとき 蜜月の その一カ月は ハネムーンです オゥラックでは 蜜の週といいます タントラングマット タンは週 一週間のことです 英語では もっと楽観的ですね 蜜月といいますからね

月は一カ月ですね

はい一カ月ですね

蜜月とはもしかしたら 高い月かも知れません なぜなら オゥラックではただ 蜜週と言いますから 私達の方が 現実的でロマンスの 経験が豊かなのかしら

とにかく蜜月が 長続きするといいです ときどき 一生涯 続く事もあります

人間の哲学は このようなものです 自分達に似通って いるものを好みます

それは彼らが 動物を食べる もう一つの理由です また他の人種を ないがしろにするのは 見かけが 違うからです 彼らは すべては 同じであると 学ぶべきですが 時間がかかります おそらくこの世界は 動物にとっても 良くなっていきます

私は全世界に 目覚めて欲しいのです 世界の指導者と それ以外の全員も 目覚めるべき すると この世は天国です
親愛なるスプリーム マスターチンハイ こんばんは そして ようこそスロベニアへ ようこそ私達の都市 リュブリャナへ ようこそ私達の心へ

皆さん スプリームマスターの 学生はお互いに ブラザー シスターと 呼び合います  そして 私達のブラザーが スプリームマスター との体験について 少しお話しします

あなたに紹介される 名誉を与えられました

スプリームマスター チンハイ おそらく最良の方法は 私自身の体験を あなたに話すことです マスターチンハイと 初めて瞑想をする 機会が持てたとき 彼女は光の海から現れ 私に近づいてきました 彼女が現れないと 光の色は ありませんでした 人生の中でそんなにも 苦しむ存在を見た事が ありませんでした 私は誰もそんなに 堪えられるとは決して 思いませんでした 霊的な文学からも おわかりのように マスターは印心時に その弟子の 悪いカルマ(報い)を 取り除きます 私にとって衝撃でした

しかしながら 一分か二分後 情景は変わりました マスターがすっかり 輝き 幸せなのを見て 彼女の体の各々小さい 部分から最後の細胞へ 喜びと共に輝き それぞれの思考は輝き 彼女の魂の それぞれ小さな部分は 愛で 愛だけで 満たされていました 完全に覆された  状況でした 私の人生で誰かが それほど幸せで他人の ためにも幸せなのを 見たことがありません 私は自己実現の過程を 励ますため 永遠に私自身の中で 完全の この感覚が もたらされることを 望みます つまり質問に対しての 答えは 「スプリームマスター チンハイとは誰か」 瞑想の中で 彼女に 会うのは常に可能だが 彼女に個人的に会う 名誉はごくわずかの 人だけです 心から全ての人を 代表し お迎えします マスターチンハイ

ありがとうございます どうか立っている人を 迎えて下さい 必要であれば ここに来てステージに 座ることができます 私が立てば 他の人々は私を 見ることができます 彼らが話している時 誰かを見るのは いいですね

では 楽にして下さい では 楽にして下さい スロベニアへようこそ はいここに来て下さい どうぞこちらに ここへどうぞ 座って下さい 二、三席あります 私は非常に小さいので 立っています 私が立つと 人々は3センチ長く  私を見る事ができます

ここの人は非常に 賢いです 誰もが英語を話します 市場で果物を 売る人でさえ 私に英語で話します 私は のどのために レモンを買いに 出かけました 私はちょっと手を 使って試そうとすると 彼は英語を話せますか と言いました 私は嬉しくなり 「はい はい」と 言いました 誰もが英語か ドイツ語を話すので 私はここで非常に くつろいでいます タクシー運転手 コーヒーの給仕 彼らは皆完璧な英語や ドイツ語を話します すみません タバコです 二次喫煙です 瞑想する人がなぜ 咳で苦しむのか 不思議に思うでしょう 家にいるなら 自分の家ですが 十分瞑想し 休息してそれでどんな病気にも かかりません ただ出かけた時だけ こういった状況になるのです 皆さんのこの 小さい国にいられて 私はとても幸せです なぜなら 私は通りに出かけ 皆さんの国民に会い 彼らと話しても もちろん 私が誰か 彼らは分かりません

ただの友達です すぐに 私をとても幸せにし 歓迎してくれます 彼らはとても援助的で とても保護してくれ とても正直です 皆さんの国民は非常に 素晴らしく ほとんど 天国にいるようです それで今日私は座って 神に言いました 「どうして私をここに 送ったかと不思議です ここの人は完璧です」

初めてここに来た時 道に迷い 駐車したばかりですが 少しのお金も ありませんでした するとちょうど通りに ある人が来て 英語で私に話しかけ 私を助け 更に私のために 駐車料を払おうとさえ しました また私はここずっと のどがすごく痛いので レモンを買いに 行きました その時 私は十分な 小銭がなかったので スーパーの販売員は ただ「気にしないで」 と言いました でもその後で 私はお返しに 彼女に花をあげました 私は通りで ある人からそれらの 花を買いました 彼はアイスバーグを 売っています 私は小銭もないので 彼にもっと多く 払いたいのですが

彼は受け取るべき 金額より多くは受け たくないと言いました 私は本当に幸せで 少し思いがけないです おつりに対しても 正直で正しい人に 会えて嬉しいです 私は常に価格より もっと多くを払います とにかく タクシー ホテル ウエイター 何であれ それで今日神に尋ねて 「ここで何をするよう お望みですか ここの人は素晴しく 天使のようです」と 私は言いました 「あなたはたくさん 彼らを加護します この国を加護します この国には 何でもあります それほどの愛と 加護を受けています どうして私をここに 送りましたか」 神は私に言いました 「そう そう そう これらの人はとても 幸いである とても 私を愛してるから」

神は 皆さんに神を 見せることを望みます だから私は言いました 「ああ 分りました」 なぜなら 通常 神が私を どこへ送っても そこの人は 本当に哀れで不幸で 快適さが不足してると 思っています 神は私を来させ 彼らに神を思い出させ それでより幸せな 生活を送れるからです でも私は 幸せで 恵まれた国でも 神を見る必要があると 思いませんでした 神は「彼らはとても 私を愛しているので 示現したい」と ですからあなたが すでに毎日自分の家で 神を見ていると 言っても 私は驚きません でも万が一でも神を 見逃がさないように 私達と一緒に座って 私は皆さんに 方法をお見せできます そうすれば皆さんは 毎日神が見られます 毎日神の 直接の教理が 聞けます 言(ことば)から来る 教理です 

聖書に述べられてます この言(ことば)は 神の教理であり 私達の心を溶かす 天国の音楽で 私達の魂を高揚させ 私達の智慧を 広げます 貴国民がとても芸術が 好きなのが分りました 芸術家や 芸術が好きな人は 優しくて親切な 性格です お金にさえ芸術者の 肖像を印刷します ええ インドでは 音楽家  芸術家 詩人は半分 聖人であるという ことわざがあります これらの高尚な芸術 生命のより高次の 高尚な表現も ある程度天国と 共通点があります それで優しい 国民性の中で芸術  音楽 絵画 詩などに すべてを傾注する人を 見つけても 驚きません

昨日 私が公園で会った 紳士は音楽家でした もちろん 後で 私は彼に お金を返却しました でも彼はコーヒーを 飲もうと私を誘い 私も飲みに行きました するとそこで彼は もう一人の音楽家に 会いました 至る所に 音楽家だらけです 彼らはとても優しく とても優しいです 優しい人々と一緒に いるのは素敵です もちろん 私達は 霊修行者として 他人の幸せのために 死ぬことは 気にしません でも幸せな人々の間に いるのは嬉しいです 軽い感じがします 寛いだ感じがします 場所が狭くて すみません 彼らは私に言いました 会議場の外も いっぱいで これ以上席もなく 私は言いました

なぜもっと広い場所を 借りなかったのですか これが彼らが得られた 一番大きい会場だと 私に言いました そうですか はい ここはスロベニアです 全てはダイヤモンドの 大きさに詰められてる でも皆さんの心は とても大きいです たぶん私はここに 留まろうと考えました 非常に素晴らしい国 ありがとうございます 可能ですか(はい) ビザの問題は(いいえ) それは素晴らしいです 皆 後で私に聞きたい 質問がいくつか あると思います それで講義を止めて 質問してください それとも続けますか もう少しあなたに 話してほしいです もう少し話しますか

何を聞きたいですか 愛についてです 愛についてね 人間の愛 または神の愛ですか 神の愛です あなたは神の愛に ついて知りませんか あなたは知っています いいです 私の体験の いくつかを話します 私達団体のブラザー シスターの体験と 同様です 必ずしも全く同じでは ありませんが それはちょうど 神の愛

それはいつも同じです 私は 毎日 毎秒 神の愛を体験します そして毎日が奇跡です 神は常に私達を愛し 私達を保護し 私達の世話をします そして毎日私達を 見守っています 私達が再び繋がった後 それが より良く分かることは 当然なのです まるで訓練のようです 神を知った後 あなたは突然自動的に 訓練させられ  神が いつ  何かをしてほしいか 知るようになります 数種類の非常に鋭い 直感があります あるいは時々 私達の日常活動で 何をすべきか 分かるように 直接の指示さえします

繋がる前には 神が私達の祈りを 聞くか聞かないかさえ 分からないようです 時々 私達には神の存在や 神の愛についての 証明がありません 神が何をしているか 分からないからです 私達の祈りに対する 神の答えを 感じないのです 再び繋がること いわゆる印心後  私達はより明確に それが分かります なぜなら 私達は毎日 神を見 神の教えが 聞けるからです 神は常にそこにいます 誰でもそれを話します 神は私達の中に生き この体が 唯一の寺院であると 聖書は明確に述べます ここに座っている 皆さんは物質界での 神の化身なのです 私達が 神の恩恵を 認識しない理由と 神の愛を 感じない理由は 私達が間違った場所を 覗いたからです

皆とても忙しく お金を稼ぐのに忙しく 地位の保持に忙しく 生き残るために忙しく 全てのものを与える人 全てのこの 楽しみの持ち主は 私達の内にいることを 忘れています それで誰かが私達に 神がいる所を指差すと すぐにそれを見ます 私達がすべきことと 言えば毎日内面の神を 認識するために少しの 時間をとっておくこと それで後になって 神を思い出すのは 自然になります そして神を見ます 神はほとんどの時間 二四時間見られます いつでも見たい時に いつでも聞きたい時に 後で 見たいとか 聞きたいと願う 必要さえなくなります 神は常にそこにいます 神は私達を とても愛して下さり 仕事に遅刻しないよう 起こしても下さいます 目覚まし時計に 問題があった時とか 見知らぬ土地に行った 時には 正しい店へと 導いてくれたりします

どこでその物を買うか 分からない時にです 個人的な事柄でさえ 面倒を見て下さいます 失恋した時癒してくれ 傷ついた心を癒し 慰め とにかく 再び神を知ることを 可能にさせます そういう訳でイエスは 「汝に慰める者を 送るだろう」と言い キリストの力はどんな 形にも 誰にでもなり 慰めにやって来ます イエス以前 神は他の マスターを送りました イエス以後神は他の マスターを送りました でも彼らは皆同じで 違う体 姿をした 神の一人子なのです それで誰かがイエスに 尋ねた時 「あなたはこれこれの マスター 例えば エリヤのような マスターの 生まれ変わりか」等と イエスは沈黙しました 否定しませんでした

なぜなら 同じ力を保持していて この地球上に世々代々 送られてきた 神の 愛する子を慰めるため 彼らを天国の家に連れ 帰るために送られた たった一人の直系の 聖霊だったからです あなたが真に神を愛し 会いたいと思うなら いつか私達はいわゆる 「慰める者」精霊に 出合うことでしょう その精霊は 神からやって来て 事務所として選択され 私達に慰めをもたらし 再び光をもたらす 仕事をするため選ばれ 肉体を持つ者です そして私達の生活が 全ての道で思い通りに なり 非常に安心で 愛されてると感じます それで私達は知ります この肉体を離れてから 私達は天国へ行きます 私達は天国へ行きます なぜなら私達は既に 毎日天国へ下調べに 行っているからです

聖書の中には 聖人がいて 彼は言っています 「私は毎日死ぬ」と それは私達が学べる ように 復活の過程を 何度も何度も繰り返す ということです 死ぬというのは 終わりで生がなくなる という意味ではなく ただ駅を変える 家を変える 衣服を 変えるにすぎません 二通りの死があります 例えば大きな死 永遠にこの肉体から 離れる時 しばらく 死ぬことができ短期間 一時的な死は身体から 離脱しますが 接続のコードを保ち 再び戻って来られます そしてたぶん 明日か 今日の午後か 夕方か 朝でも離脱 できるかもしれません 単に修練の過程に すぎず 私達は決して 死を恐れなくなります なぜなら死後どこへ 行くのか知るように なるからです 皆が 天国は私達を 待ってると聞いてます

キリスト教徒 仏教徒 他のどんな 宗教であれ 天国は私達を待つと 信じています キリストを信じ 神を信じ 仏陀を信じ アッラーを 信じていてもです 死後 真っ直ぐ 天国へ行くと 誰もが聞いています どの宗教もそう 約束しています でも何人かは今 知りたいと思うのです ここにいる間に 天国を見たいと ただ確実にしたいと 思うのが第一です 第二に私達は神の愛を 今知りたいのです この世界ではもっと そのことが私達に 必要だからです いったん既に天国に いれば私達には全ての 物が与えられます 本当です 私達は 神の愛を知ろうが 知るまいが 気にしません 既に天国にいるので 私達は天国のことを 知っているのです それでこの苦しみの 世界にいる間  私達には神の愛が 更に必要なのです

ますます天国での 場所を更に確信する 必要があるのです このような人々のため 私達は助けを提供し 私達の手の内にある 天国を知らないとは 大変残念なこと だからです 聖書で言っています この神殿に住む神を 知らないのは 残念なことだと 神はそこにいます それを知らないという ことは残念で 私達は知るべきです 確かに神は天国と同様 ここでも私達を愛して いますが私達がそれを 今知ればうまくそれを 利用できるのです ずっと良いでしょう 私達には父や母が いましたが 両親から引き離されて いたとします 小さな時に すると 子供のころから本当の 両親のことを私達は 知りたいと思います 本当の両親が一番 私達を愛してくれると 信じているからです 同様に私達は天の父が どこかにいると 聞いています

もちろん 私達は神を 知りたいと思います そういう理由で 私は懸命に様々な所を 探し回りました  ただ神に会うために そして今私は神を 見つけ出したのです 私はこの知識を 天の父を知りたいと 思う誰にでも 同様に 共有したいと 思うのです なぜなら この世界の愛も何も それと比較することは できないからです 私達が内在の神を 得た時 再び内在の神を 知った時 私達は 何もかも得るのです 私達は全く安心し 全く愛されて 価値があり 大切にされていると 感じます 私達は感じ 知るのです そして 私達は確実に 自身が天の王子で あることを知ります そういう訳で  私達は古代より 神を見つけた人々は 殆どこの世のものは 何も必要ではない ように思えることを 知るのです 彼らは何もかも すべてを放棄します

王位でさえ放棄し 王国も放棄し 美しい夫 妻をも 放棄し 彼ら自身ただ神の愛に 浸るのです そしてこの世の人々は 誰も彼らのことを 理解できず おかしい ちょっと均衡が 崩れたと非難するかも しれません 彼らは神を称賛する 歌を歌い 彼らは神の愛に 酔いしれ 彼らは真理を 宣誓するのです 「私と天の父は一体」 イエスの場合と同じで それで人々は 彼を理解できず 彼を傷つけずには いられなくなります 全ての聖書 全ての 宗教で述べられている ことですがこの身体が 唯一の神殿であり 神が宿る肉体の 神殿であると それは人間も 悪魔も天使も何も 神以外は私達の内には いないという意味です 私達が神なのです そして イエスが知った時 彼は宣誓したのです 彼は真理を述べました

内面の神が 自身であるという事を 認識できない他の人々 彼ら自身は未だ自身を 人間の身体 自分を人間だと 思っているか 神より自らを低い者と みなしています もちろん難しいです 生まれた時からこの 肉体という牢獄に入り 私達はずっと 目隠しされてきて 私達の天国の思い出は しばらくの間消されて しまっています でもそれは神性の 目的からなのです なぜなら創造の 目的とは 色鮮やかな宇宙の 目的とは 私達が 異なる役割を演じねば ならないことなのです この役柄に 専念して 演じるために 私達は 天国を忘れねばならず 神の一部であることを 忘れねばなりません しかし 今はもう 恐らく私達多くの者が 十分演じ 家に 戻る時が来ています

あなたが家に帰る 時だと思うなら ここでの劇場に うんざりしてきたなら 家に連れて帰れます 非常に単純です バスは待っています いわゆる古い魂が 既に家に帰る準備が できています なぜならこれらの いわゆる古い魂は ここにそれは長い間 ずっといたからです 彼らはこの世界を 加護し 彼らが持つ 全ての物を与えました 彼らは様々な仕事や この世界のため 彼らのために創られた 異なる出来事を 経験するのです 恐らく彼らはもう 十分だと思います このような うんざりしている人  神の愛を楽しみたい人 ずっとこの世で 疲れている人に私達は 解決策を提供します

それであなたはもはや 疲れたと感じる事なく 寂しいと感じることも なくなります もはや神はどこなのか 私はここで何をし 世界はどうして こんなで問題があるか などと思い煩うことが なくなります すべての答えが 明確に分かります もはや戦争について 神を非難することも 神の存在を疑うことも 神が聞いていようが いまいがよくなります 全く明確に分かります 皆さんが 聞きたいと思う質問に 私はお答え致します 誠意ある ご清聴に感謝致します あなたはなぜこの事を なさっていて あなたは誰ですか

私はすべき事をします 神がそうするように 私に言ったからです 私が誰かですか 誰でもありません 神がこの身体を通し その仕事を行います 誰の名のもとに あなたは印心を 授けるのでしょうか 天の父の名で 実際 神が印心を  授けるのです  私は何もしません 私はそこで傍観して 何をすべきか言います 印心の時  私は何もしません 私はそこにいる 必要もないのです 私はただ神をどこへ 探しに行くか示し あなたが直接 神と交流するのです

でも自身の意識が 上昇した時は より良く 理解できることに なるでしょう それを世俗的に 説明するのは困難です 私は歌を歌い 詩を書いて  私のデザインで 表すことができます 私の絵画でも 表せますが神の本質を 説明することは できません あなたはご自身で 知るべきです そしてどうやるか私は 示すことができます それで神と一体で あることを知ります ええあなたの偉大さを 本性を私はただ 示したいと思います なぜ印心は 即刻開悟を示唆して いるのでしょうか なぜ印心することで 即刻開悟できると 言うのでしょうか それは即刻に 起こるからです 開悟はあなた自身です

あなたが 光の本質なのです そして私が光を あなたに示したら あなたは即座に光を 見るのです それを 即刻と言いますね 神はあなたの内にある と私は言いました 神はすぐそこにいます 私が示しましょう 簡単でしょう 議論好きな頭脳に 騙されないで下さい ただ行って神を 直接 すぐ見るのです 本当に即刻です その後あなた自身で 毎日続けられます 私がここにリンゴを 持っていたとしますね 今すぐ持てますか 聖書で言っています 「神は汝の内にいる」 直ぐに神を知ることが できないとしたら おかしなことでしょう 非常に簡単です 忘れてしまっただけで 私がお見せしましょう 神は本当にあなたの 内にいて神以外の 何者もそこにいません

 
全ての番組を検索
 
 
一番人気
 道士 柴 鄭 珍の物語 2/2 二〇〇八年九月九日
 指導者の本拠のための吉祥地、世界平和への恩恵 1/2 二〇一一年八月二四日
 私達の未来を守る指導者たち:気候変動の速度と優先事項1/7 英国 二〇一〇年十一月三日
 黄金時代への人類の跳躍 -ワシントンDC気候変動会議 第一部/10  二〇〇九年十一月八日米国
 「子供達の健康と持続可能な地球」済州島国際会議 第一部/8 二〇〇九年九月二一日 韓国 済州島(英語)
 在世の生けるメシア 1/4 米 、ハワイ 一九九四年九月三日
 美しい星への解決法 1/9 二〇〇九年八月十五日 タイ ノンタブリー
 地球の結束:共に生命を救う 第一部/8 二〇〇九年十月三日 香港
 魂の再会 1/3 二〇〇〇年四月二七日 ニュージーランド 、オークランド
 国際人権会議 1/5 一九九四年五月二五日フォルモサ(台湾)台北(中国語)