智慧の言葉
 
You are the Supreme Master - Part 1 March 20, 1993 Brisbane, Australia (In English)    Part 3
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スプリームマスター チンハイは 小さな集まりで 言語の異なる各国の 私達の団体メンバーと 語り合うことが あります 一九九二年 マスターチンハイは 中国人のメンバーと インドネシア スラバヤで話しました

では菜食について お話ししましょう 私は色んな所を 旅行したり 数日間 出張する こともありました

私の元夫は医者でした 仕事せねばなりません 時々 病院に泊って 家に帰れなかったり 会議に出席する 期間が長い こともありました しかし 彼はそれでも 菜食を続けました 私達が本当に求めれば 仏陀は 手配してくれます

中にはどんな 菜食なら食べられるか 分らない人もいます

中国人にはいつも 対応策があります 彼らは饅頭とか パン 又は乾燥した 食べ物を持ち歩きます 中国にはそのような 食べ物が多いのです

時には数日も外に いることがあります すると缶詰を食べます それもいい食べ物です また自分で作った 物を持っていって 外で温めて食べます 一日や二日ぐらい 冷たい物を食べても かまいません

食べたければ いくらでもあります 時には 出かけて 中華料理を 注文できます 菜食料理を 作ってほしいと 言えばいいのです 様々な料理が あるのです 例えば 肉の代りに 豆腐をいれて欲しい そう言えばいいのです 焼きそばに豆腐を 入れるとか  スープを注文する時 肉の代りに豆腐 またはグルテンと 醤油 塩 砂糖を 入れてと 注文するのです

いくらでも 美味しい 料理が食べられます そういうこと! ご飯と野菜だけで 十分です

それに豆腐ですね ここにはありますか? 豆腐を買って 外出の時 少し 持ち歩いてもいいです 菜食のものが 見つからない時に ご飯を買って豆腐に 醤油かマギーソースを 交ぜればいいですね 食後は 果物を少し食べれば 陰と陽 熱いのも 冷たいのも揃います

そしてサプリメントや  朝鮮人参のスープを 飲めば充分です 簡単です 毎回贅沢に食べる 必要はありません 食習慣は 変えられます 菜食するのは とても簡単な事です

それに中国人は どこででも豆腐が 買えるし 安いです

肉の代りに豆腐を 買って醤油を少し かければいいのです 白い豆腐や豆腐花 絹豆腐に醤油を かけても おいしいし 栄養価も高いですね 生野菜が 足りなければ 果物を 買えばいいですね 色んな果物で 野菜の代りに すればいいのです そして家に帰って もっと美味しい食事で 補えばいいのです 外出の時は簡単に すればいいのです

菜食の惣菜を 買うのもいいですよ 二、三日の場合は 缶詰を食べるのも いいでしょう 私が以前ドイツで 生活していた時は もっと大変でした ドイツには 中国人があまり いなかったのです

そこのレストランは 全部非菜食の レストランでした 豆腐やグルテンを 売る店は一軒あった けれど 豆腐は中々 手に入りませんでした 毎日あるとは 限りません たまに豆腐を 並べておき  売れ切れてもすぐには 補充しないのです 時には数週間 待っても 豆腐が おいてあるかどうか 分りません それに私は 遠くに住んでいて 三、四時間かけて 一丁の豆腐を買いに 行くので 毎日は 行かれません グルテンがないので 自分で作りました 作り方を 知っていますか 知らない? パンを作る小麦粉で 作ります 知っていますか 塩を少し入れます 塩を入れます (卵) 卵は入れません 塩を入れてから 水を入れて 軟らかく捏ねます 暫くおいてから 澱粉を洗い流します すると蛋白質だけが 残ります かす状のものが グルテンです それから丸や棒状など 色んな形にします これがグルテンです

自分でグルテンを 作ったのは 蛋白質が 豊富だったからです

豆腐に グルテンを混ぜても いいです それに 野菜 例えば人参や 大根 キャベツ カリフラワーなど 一緒に入れて さっと炒めます 良質の油を使います

そこに塩 砂糖 醤油と水を入れます 蓋をして 二十分ほど 加熱します ご飯と一緒に 頂くと 栄養たっぷりです それでも 栄養の事が気になる 場合は 豆乳を一杯 飲んで下さい それで十分です または果物やお菓子に または果物やお菓子に お茶一杯飲みます

なんて 快適な生活でしょう

私達が本当に自分を 改善したいと望み 仏陀の 慈悲博愛の 精神を学び 動物を か弱い子供と同様に 愛するとしたら その死体など食べたく ないでしょう 例えば 死んで 二、三日経った 人間を見た場合 それを食べますか 虎でさえ食べません 虎は 死んだ動物を食べません

聞いた事ありますか 本当です 分りますね   私達は虎より劣ります 私達は死んで 何日も経つ動物を 食べているのです 肉が腐っても それを食べては 美味しいと思うのです 自分で自分を騙して 醤油など沢山の 調味料を使って 何とか食べるのです もし 誰かに 腐ったビフテキを 出され すぐ食べろと 言われれば  きっと吐き気が するでしょう

私の元夫は医者でした 会議で外出した 時などは 本当に 不便でした

それでも彼は 菜食をしたのです 背が高く 体が壮健な ドイツ人でも 菜食できました

私の弟子には大勢 皆さんのような ビジネスマンがいます 彼らも とても忙しい 時があります マレーシアに 華僑の弟子が います 彼はずっと ホテル暮らしです 色んな所を回らねば ならないためです この夫婦は 各地を回るのですが それでも毎日 菜食しています ホテルで菜食する ことは難しいですよ 知っていますか 大きなホテルでも 菜食料理がない 場合もあります

彼はサラダやレタス ご飯とパンを 注文して食べます 菜食料理は 何でも 食べます 誰でも菜食をしよう とすればできる ものだと彼は言います 彼には家がありません 過去五年間 彼は ホテルからホテルへ この国から別の国へと 転々としていました そうせざるを得ない ビジネスだったのです そういった生活を している人もいます 彼は過去五年間 ホテル暮らしでしたが ずっと菜食を続けて いると話しています 彼は 痩せも しませんでした ハンサムで背も高い 中国人です 背が高く 体が大きい 若い四十代の人です 従って菜食できない ことなどありません 違いますとも 卵は食べられますか

卵? いけません 健康に よくありません それに卵は否定的な エネルギーを引き寄せ 純粋になれません 霊修行をしていない 人には分らないと 思いますが  している人には 分ります 祈祷師の中には 卵を使って悪霊を 引き出す人もいますね 知っていますか 彼らは卵を使って 否定的なエネルギーや 悪霊を引きつけます ですから卵を食べると 体に悪霊を入れるのと 同じです 私達 霊修行者は 純粋であるほど よいのです お金のために道を 捨てて構わないのか? よくありません 経典には善行だけを するよう 書いてありますね しかし お金を 稼がなかったら どう布施しますか 十分なお金がなくて どうやって戒律を 守れますか お腹が空いているのに 盗まずにいられますか どうやって 戒律を守りますか 論理的ではありません 釈迦が存命の時 彼の弟子は殆どが 在家の人でした

今も同じです 皆さんが お経を唱えるのは 仏陀の教えと 仏陀が教える 道徳的な事を 知るためです どこででも 唱えられます 仏陀は 家で唱えては いけないとは 言っていません 家で唱えられ なかったら どこでできますか 公園に行って  やりますか 在家の人が どうやって毎日 時間を割いてお寺に 行き お経を 読むのでしょうか それに遠くに住んで いる人もいるし 読経に長時間 かかることもあります 出家者にならない限り 毎日 寺院に行って お経を 読む事は無理なのです だから家でするのです 静かに座って 唱えればいいのです 仏陀の教えを 読み上げたら 仏陀が教えた事を 実践することです それが お経を読む利点です 

どこででもできます そうすると財運が 私達の所に来なく なると言っています そんなことありません 私は今以前よりずっと お金を持っています 私は金剛経 だけでなく  色々なお経を読みます 弟子達に 説明するためです 研究が必要です 分りますか 私は前よりずっと 経典の勉強をして 前よりもずっとお金を 持つようになりました 使い切れません それで人々を助け 経の講義をし 道徳についての 本を印刷します 私は助けを 必要とする人を助け 絶えずもっと多くの お金を稼ぎます 問題ありません

私達が唱える 経典を理解すると 徳性が現れてきますね 本当に経典を 理解すれば 修行したくなります 仏陀に 接近したくなり 智慧が高まります これこそが お経を唱える利点です すると もっとお金を 得る方法と お金の 使い道が分ります 以前  私達は道徳を知らず お金を稼げば ギャンブルや 不要な物に使って いたかも知れません 今は道徳を知り お金があれば 正しく使えます それで各地の 被災者救済に使い また 同胞や 困った人を助けます お金は役に立たないと 誰も言っていません 誰もお金を稼げない とは言っていません ご存知の通り お寺の人たちも お経を唱えています そうですね

私達は仏陀の 経典と教えを 理解するために 唱えるべきです それこそ お経を読む 真の意味です

私達は何かを 信じる前に それが 正しいかどうかを 判断し 分析せねば なりません ですね? そして証明し  どこがいいかを 探さねばなりません 人の話を全部信じる わけにはいきません いつも人の話を聞いて 自分の主張がないと 思考が人に コントロールされ 智慧は徐々に しぼんでしまいます そして 自分が持っている 知性に対し 益々 分らなくなります こうなると 迷信的になって  人の話をうのみにして  何でも 人の 言いなりになります すると多くの 問題が生じます

前にこのような話を した事があります ドイツかどこかの 国の市街地では 時速四十キロ制限 という交通標識が あります しかし 皆が時速 五十から六十キロで 走ります これでいいのです もし 誰かが本当に 四十キロで走ると 警察が来て調べます その人に問題があるか 車に問題が あると思うのです 分りますか 実際は誰もその規則を 厳守していません もし 誰かが本当に 四十キロで走ると 警察が来て その人を調べるのです そばの車も クラクションを鳴らし 頭がおかしいのかと 皆が 好奇の目で見ます

精神に問題があると 思うわけです ですから 私は時々 仏陀の真の 教えを話しますが 皆さんは長い間 これを 聞いていないか 違ったものを聞き 経典をあまり 研究していません 忙しいからです そこで人が話している ことを聞くだけで それを考える時間が ありません 私が本当の話をすると 皆さんは信じがたく 違和感が あるのです

女性が生理の間に お経を唱えても かまいませんか 大丈夫です

寺に入っていいですか かまいません 親族が死んだ時も かまいませんか 心が純粋であれば どこも純粋です つまり 心が善良で 純粋であれば どこも仏陀の 仏土になるのです

中国の諺です これは 自分が純粋であれば 周りも純粋だという 意味です 分りますか 体も純粋になります 人間の血液は汚く ありません ご飯や  野菜や栄養ある 食べ物は血液になる のだから汚くないです 血液が汚いとすると 私達が食べた物も 汚いと言えます 女性の体は 違うのです 子供を生むため 体内に卵子があります 卵子は使われないと 体内で分解します すると 妊娠しなくなります 卵子が分解すると 月経になります

卵子が分解すると 血液は体外に出ます その血液は元々 体内にあるものです 体内にあっても外に 出ても血液なのです では一体 いつ清潔で いつ汚いのですか 何も違いはないのです 分りますか 有難うございました 仏陀は狭量な人では ありませんでした 自身も女性から 生まれたことを 彼は知っていました

考えてみて下さい 血液はご飯や野菜から きていませんか これらの食べ物は 栄養なのです だから 血液が汚い わけがありません もしも 血液が 外に出なければ 体内にあるわけです 血液が汚いとすると 体内にあっても 汚いといえます 男性の血も女性の 血も同じです だとすると 男性も女性も血液は 汚いはずで 月経中 だけ汚いと言えません 論理的ではありません

ある友人からの 質問です 菜食もせず 修行もせずに 智慧を高める 方法はありますか あります 本当ですか 本当です 私が彼の代りに 菜食し 修行する ことです すると私の智慧は 高まります それは極めて困難です 彼も修行できます まずは簡単な方法で 例えば 方便法の修行です ただ できるだけ 菜食を することです というのは肉を 沢山食べると 重いカルマの障害で 智慧の発展を困難に するからです 例えば 汚れた グラスに ものを入れると 味が 変わるか有害になる 可能性があります だから修行や 瞑想をする人の中には 魔に取り付かれたり 精神的に不安定に なる人が多いのです 方法が 間違っているからです もし  方便法をする場合 あまり長くしては いけません 二十分から 三十分で十分です もっと長くすると 問題が生じて 智慧もあまり発展 しないかもしれません

私達が 誠心誠意だとしても やはり自分の 行為や言葉 考えなど 清らかであるべきです でないと 誠意も台無しです 毎日熱心に瞑想しても 肉を食べると 功徳は 悪いカルマにより 差し引かれます 商売して お金を稼いでも 使い過ぎたり 多くの借金が あるのと同じです 沢山稼ぎますが 差し引かれます 何も残りません だとすると修行する 必要もありません

もう一つの質問です 説法が 好きな人がいます 善意からですが 分ります しかし経典を よく理解していない ために間違った事を 説法した場合  悪いカルマ(報い)を招きますか 彼は経典について よく分って いないのですか 深くは分っていません しかし確かに善意です 分りました 悪い意図は ありません

ただ経典にある話を 広めるのです 分ります しかし説明が 間違っています

彼はこれによって 悪いカルマ(報い)を 招きますか

はい 招きます 聞く人は彼が正しいと 思っているからです 間違った説法は 彼だけでなく 聴衆に間違った概念を 植えつけるのです 従って 彼は来世に戻って来て 何をするかに かかわらず その人たちが 全員開悟して 解脱するまでは 解脱できません 彼が何をするかは 関係ありません それが彼の 悪いカルマ(報い)です 盲目で 道も 知らない人が 自分と 同じ盲目の人を 案内するとしたら 両方とも むやみに 歩き回るわけです 目的地がどこだか 分るでしょうか どこにでも転げ落ちる 可能性があります 両方とも盲目で 道が見えないからです 自分は目が見えず 道が分らないと 自覚していれば 道を知っていて 見える人に 聞いた方がいいのです でなかったら 座って いた方がいいのです 自分が害を 受けるならまだましで 他の人に害を 与えれば悪いカルマ (報い)を招きます だから仏陀は こう言いました 「仏陀を信じていても 仏陀を知らない人は 仏陀を誹謗している」 まず自身の 内面の智慧を知り 直に体験することです それで初めて 私達の 話が人のためになり 悪いカルマ(報い)も 招かないのです

彼は なぜ夢に貴方が 現れたかと聞いてます それは 彼を別の所に 連れて行って学ばせる ためで 私は言葉で 教える他にもパワーが ある事を証明する為と 答えました それは夢ではないです 内面の 体験です はっきり 覚えているからです 普通の夢では ありません また聞かれました 「つまり 貴方について 行くべきか」と その必要はなく ただ 私の教えに従いなさい  と言いました 私をマスターとして 認める必要はないです 私は皆さん自身が マスターになる道を 教えます 皆さんに 生き方を教え 自身の力を知る方法 自らのマスターになる 道を教えます 自分をコントロールし 自分に勝つ事が もっと大事です これは極めて困難です 誰かの弟子や マスターになる事は 重要ではありません だから 決して 私に 従うよう強いません 私の 教えに従うべきだ という意味です 私の教えがいいと 思えば それに 従えばいいのです

マスター  この子は長い間 菜食していますが 何故時々肉が 食べたく なるのかと 聞いています 分ります とても肉が 食べたくなります 分ります すると突然 内面から 食べるなという 声がします 彼の内面には一種の 力があるようです その声はどこから 来るのかと 聞いています 肉を食べるな という声ですか いいえ 肉を食べないよう 教えることですか 彼は肉が食べたくて 我慢できず 肉を買おうとした ほどです

彼の心が教えたのです もう少しで食べる ところでしたが その声が 止めさせたのです 分ります ある種の力が食べるな と言ったのです

それが止めたのです その声が なぜ肉を 食べようとするたび 彼を支配できたのか 知りたがっています それは 守るパワーです 時々ある人が 霊修行することに なっている場合 その人のマスターは 出生時から守ります 分りますか マスターのパワーが 子供の時から 守るのです 時には本人も 知らないうちに 保護して その困難を 和らげます そして霊修行を する時が来たら 色々な方法で 気づかせます これは誠意のある 人に起こることで 彼らの過去世の 修行の功徳に よるものです なぜ肉を食べたく なるのでしょう

それは 習慣からです 彼は小さい時から 肉を食べたので それに慣れています 例えば 中国人は子供の 時から中華料理を 食べています 彼らにパンと フライドポテトを 食べさせると 一日や 二日はよくても 長くは続きません 同様に 西洋人もそうです 洋食に慣れています 彼らに中華料理を 毎日食べさせると 厭きてしまいます 分りますか しかし 時間が 経てば慣れます ただの習慣です そのうち彼は 菜食に慣れて  肉はもう食べたく なくなります 単なる習慣です これからは空腹時に 外出しないことです 食べ物を見ると 食べたくなりますから

時々 外出する時 子供が お腹が空いたら パンか饅頭を食べ させたらいいです バッグに入れて 持ち歩くのです 饅頭は冷めても大丈夫 お腹が空いたら  食べさせます りんごやなしなどの 果物でもいいでしょう これで満腹になると 他のものは 欲しがりません お腹が空くと何でも 食べたくなります お腹一杯だと最高の 食べ物もいりません お伺いしたいのは 人は皆 三つの世が あるのでしょうか 過去世 現世・・・ 因果についての 話ですね  三つの人も 二つの人もいます

どう分るのですか 大半の人は三つの 世を持ちます 前世の生き方の 報いとして  今生があるのです また現在の 生き方は新たな 悪いカルマ(報い)を 作ります それで未来の 人生が決まります 債務の返済がまだなら それを返済しに 再び戻ってきます 望みが満たされ なかった場合 達成するために 戻ってきます しかし 観音法門を 修行したため 二つの世しか ない人もいます 過去の悪いカルマは マスターによって 洗浄されています 彼らのマスターが ボタンを押すと 彼らの悪いカルマは 完全に洗浄されます コンピュータと 同じです 

私達の内面は それと似ていて マスターはボタンが どこにあるか分ります 目に見えない 方法でやります 物理的にやりません マスターには 充分な力があって 今生の報いだけを 残し 他の因果は 全部なくせます 今生の報いは 過去世の原因に よるものです 今生でマスターは 彼らにどんな悪い事も しないよう教えて いるので 過去の 債務を清算できます 過去の債務を清算 できた時 倉庫に 格納された債務は 焼かれます

例えば  農家の種が全部 焼かれたら 野菜は栽培できません 分りますか 格納庫にある悪い カルマ(報い)は こんな感じで印心の時  私が焼き払います 今生のカルマ (報い)だけを 残します それは 過去世での産物です 彼らは悪いカルマ (報い)を償うと 同時に新たな悪い カルマ(報い)は 作りません 新たに悪いカルマ (報い)を作らざるを得なかった時は 瞑想を通して洗います 従って その種は 将来成長しません すると再び戻ってくる 理由がなくなります 過去と現在の 二つの因果しか ないからです 死んだ後は どうなりますか 来世はありません だから 一世で 解脱というわけで 観音法門を 修行してこそ 達成できます 開悟や解脱した後 他にやることは ありますか はい あります

釈迦牟尼仏のように 悟った後 彼は働きました 仏の仕事です 大人は 大人の 仕事をすべきです 悟れば仏陀の仕事が できるはずです 悟った人も 修行すべきですか 悟りを得ても なお修行する必要は あるのですか いいえ 必要ないです ですが 日々 衆生と関わりがあって 時々 彼らや弟子の 悪いカルマ(報い)を担う必要があるため 悪いカルマ(報い)を 除去せねばなりません 例えば あなたの ゴミを私の車に置けば 外へ移動し それを 捨てねばなりません 毎日車内に残しては おけません あなたのゴミを 引き受けてあげれば 私の車内はゴミで 溢れます 分りますか それで 出かけて 捨てる必要がありますそういう訳です 元々 彼の車には ごみがなく 悪いカルマ(報い)は ないのです 時々 修行するのは 衆生や弟子に 手本を示すためです ですが どこかの 境界で停止できず 退屈になるからです 真理は無限です

例えば悟った人は 学校を出た医者の ようなものです 彼は学び続ける べきだとは言えません けれども 彼は学び 続けねばなりません ただし 彼が今 研究しているのは 学生時代のものとは 違います 卒業して すでに 医者になったためです 彼が医者であると皆が知っています それでも学ぶべきです そうでしょう 医学は学んでも 学び切れませんから しかし 医学も一つの 分野にすぎません 悟ることなど もっての外です 宇宙は広大なのです 学ぶべきでないという わけではありません 学ぶべきです 意味が分りますか 有限のものはなく 全てが無限です 学びたいなら学び 学びたくなくても 構いません そこで止まっても 良いですし もっと 勉強を続けても 構いません 学習ではなく 研究と言えます ですが 彼の 研究方法は 医学生の それとは違います

修行しなければ また輪廻のレベルに 落ちることは ありますか その人が達した レベルによります 例えば 輪廻の領域に いれば そうですが それを超えれば そうなりません 皆が仏(悟った)の レベルに興味が あるのは知っています ですが どう話せば 良いのですか ここの床に 座っているだけで 天国を語ろうとします 話しても良いですが 固定観念をあまり 与えたくありません 皆が瞑想の時に 天国の様子をずっと 考えてしまうからです 考えてしまうからです それでは 自身を妨げます だから少しだけ話して 沢山は言いません 体験があれば 自分で分りますが 境界が見えるだけが 天国ではありません 時々 内面に 善良で純粋な心が 高じた時 貪欲さ 怒り 愚かさが 突然消えたり 欲望が消えたり 智慧が現れたりします それが天国です 昔 真理を 求める人がいました

ある師の所へ行き 言いました「今すぐ 天国と地獄の存在を 証明しないなら あなたを信じません」 師が言いました 「できない 説明の 方法が分らない 君に証明する 方法が分らない 自分で探すべきだ それで分るだろう」 例えば 私達は今 ここにいるのに 「早く台北を見せて」と あなたが言うとします できますか 自らは 行きたくない 霊修行もしない それでは無理です そうですね 霊修行をすれば 内面で見えるため 比較的 確信できます 他人が言っても 意味がありますか 例えば 釈迦牟尼仏が 阿弥陀経を説いた時 阿弥陀仏の世界には 瑠璃の家に 黄金の地 宝石の木々が あると言いました 聞いたことがあり 毎日 それを 唱える人もいますが 見たことはありますか ないですね

彼が見たものは あなたとどんな関係がありませんね 例えば あなたが食事をしても 私には その味が分らず 満腹にはなりません だから その師は 彼に言いました 「霊修行をしてこそ それが分る 君に証明できない」 その人は剣を出して 言いました 「もし言わなければ あなたを殺す」 そして武器を 師の喉に向けて 脅しながら 言いました 「もし言わなければ すぐに切る」 師は笑って言いました 「ああ 地獄が 今出現した これが地獄だ」 それを聞くと 彼はすぐに悟り 理解して  師に謝りました 跪いて 剣を折り 師の許しを請いました

彼は言いました 「すみません ひどいことをしました やっと分りました」 師は笑って言いました 「ああ  今 天国がまた開いた 天国はここにある」 分りますか 全ては心から 創られます もし 自分自身の 行動 言葉 考えを 正さないなら 仏土のことを尋ねても 意味がありますか 何の意味がありますか 私達はここにいる間 よく修行して 環境をきちんと整え 責任を果たすべきです すると 智慧を持ち 全てをうまく 処理できて 行動 言葉 考えを 清く保てます 殺生せず 盗まず 嘘をつきません 自分の 行動 言葉 考えを きちんと世話します

修行をするほど より智慧が現れ 大衆に奉仕できます すると天国に行く 必要などなくなります 何のためでしょう? 仏のレベルが どれ位大きいか 知る必要はありません その時 私達はただ 心地よく感じ 悟ったかどうか 気にしなくなります もしこの世界が良くて 互いに支え合い 皆が平和であれば 天国に行きたく なくなりますね どこにいても 同じでしょう 安らかで 幸せで 智慧があって 皆が平和であれば 天国に行く必要がなく 仏のレベルも 気にする必要は ないでしょう 仏土も同じく安らかで 幸せだからです 土地が 黄金か土か それも気にしませんね もし幸せなら 小さな家に住んでても 幸せです

でなければ お金を 沢山持っていても たいへん苦悩します 金銭のことで 自殺したり 争いや面倒にあう 人々がいます お金を持つ良さは どこにありますか だから私は 自身を磨くことが 最も大切だと言います すると 智慧を持ち 全ての状況が 明白に見えます どんな状況にも 耐えられて どんな仕事でも 簡潔に 明白に 賢く 迅速にこなせて 私達の愛が広がり 他人を理解でき 共感できます 他人に侮辱されても 我慢できて 彼らに良く接し 彼らを愛せます 彼を加護するよう 仏や菩薩に祈ります それが一番大切です その生き方が良いです 悟る事を渇望したり 彼らの仕事を 知りたいのではなく
彼は瞑想を始めると 即座に落ち着けると 言っています

誰が彼に教えました? ここの僧です

彼らは呼吸法を 修めています 呼吸法 分りました それで?

彼はすぐに落ち着くと 言いました でも   雑音を聞くと 乱されるそうです 分ります 乱されると 再び 落ち着くのは 難しいそうです 彼が尋ねているのは なぜ一度目は 容易に落ち着き 二回目は困難なのかと いうことです

自分の師に尋ねて 修めている 法門によりますから 分りますか ある宗派の 修行をするならば その宗派の先生に 尋ねるべきでしょう 私が言う事と その先生の言う事が 違うといけませんから そうなったら更に 混乱するでしょう あなたが歩く方向が あるなら その道を 行くべきでしょう 急いでやたらに こちらに来ると 道に迷いますよ 観音法門を 修行したいなら 他の法門と 混ぜこぜにしては いけません 足を片方ずつ 違う船にかければ 海に落ちます 暫くすれば 落ち着くでしょう

ベジタリアンになって 印心を受ければ 落ち着けるでしょう 穏やかになる方法を お教えします 私達の法門のパワーは 違います 呼吸法は 呼吸によるものです それはまだ物質的で 永遠ではないものです 私達は死ぬと 息をしません 又は気を失えば 息をしません つまり そのパワーは 強力ではないのです でも私達のものは 永遠の内在のパワー 仏性 仏陀のパワーに よるもので 永遠で強力です 瞑想をする時 ビジョンを見ます それは心が創り出す ものですか イエスでありノーです 頭脳は極楽浄土の ビジョンなど 創り出せません できますか 釈迦牟尼仏は 「一切は心が創る」と 言いました その意味は 心地良く生きているか どうかは  善良かどうか 或いは 過去に善行を為したか どうかによるのです 残念ながら頭脳では その様な極楽の世界を 創り出すのは 自らの仏性を 見つけない限り 困難なのです

すると どんな 世界も創造できます

瞑想すると 非常に穏やかになり 良い境界がはっきりと 現れます 分りますか 私達がこの境界を 創るのではなく 既に 存在しているのです 再発見するだけです こういった 境界を通って上昇して 仏性を見出すのです これは単に 途中の風景です

釈迦が言う様に 天国や地獄が 頭脳で創られるなら それは 観音法門の 修行者と同じものを 見るのでしょうか そうかもしれません 私達が地獄と関係が あるとか そこへ 親類や友人を救う為に 行かねばならないと したならばですが 観音法門の修行者で それを体験した人も います ええ 地獄へ親類や 友人を救う為 或いは 私について 彼らを救う為に 行った事があります 時には 天国も見ます 彼らがそのレベルに 到達したからです

私達が そういう 境界と関係があっても かまいません

観音法門を 修行すると 中には そういう 天のレベルを凌いで 高次の境界へ行く 人々もいますから より心穏やかなら 高次の所へ上がります 天国や地獄は 自らが 創りだすと言う事は 正しいです そして また自分で創るわけで ないというのもです 例えば 地獄は 否定的な考え方の人が 創り出し 自ら罰すので 彼らにとり 地獄はあります でも善良な人々には 地獄は存在しません 存在しないなら 地獄にいる人を どう救い出せますか 地蔵菩薩は 衆生を どう地獄から 助け出せると いうのでしょうか ね つまり 存在はします でも天国も地獄も 心が創り出すのも 真実なのです 例えば 地蔵菩薩は地獄に いても 心は地獄の 状態ではありません

彼は仏土にいる様に 感じています 地獄の衆生は苦しみを 感じても彼は違います 心が善良なら もちろん 天国は 近いと感じ  天国へ 行くのは容易です つまり 天国も地獄も 自分で創れるのです 誤った心が 創り出すのであって 真の心ではない という事ですね 偉大な心から物事は 創造されます それは智慧とは 異なります それが私達の智慧です 小さな頭脳ではなく はい それは「心」の 定義によります 「心」が頭脳だと 思っているなら 誤りです もしも「心」は 偉大な 仏性である 本性であると思うなら 正しいと言えます インドには多くの 修行者がいますが なぜインドは 貧しいのでしょうか

お金がない事を 意味するなら 貧困と いう事になりますね でも お金や 物質的な基準で 計らないなら 貧しくありません インド人は非常に 幸福で 苛立っている 人は珍しいです 生活は貧しくとも 幸福です 彼らは微笑み 仏名を 毎日 唱えています 私が真理を求めて そこへ旅した時 時々 小さな村や 森を通りかかり 現地の人と 親しくなりました 例えば 彼らと 食事をした場合 彼らに お金を渡します でも彼らはお金を 受け取りません インドの家庭を 訪ねると 客人を 神の様に待遇します 神が時に貧しい者に 姿を変えたり 通りかかり テストを すると考えています 彼らはその人に よくしないと問題が 起きると考えます その人に よい待遇をすれば 福報が得られると なぜこの様な話や 伝統があるのでしょう

実は こういう話は 道理に適っています インドには多くの 修行者がいます そして誰が聖人か 真理に到達した人かは 分りません 釈迦牟尼仏が 在世の時 普通の僧衣を 着ていました インドのバラモン僧が 着る修道士の 衣服をです 釈迦牟尼仏が 現れる前には いわゆる仏教はなく あったのは バラモン教で  これは今もあります 釈迦牟尼仏が毎日 托鉢に出かけた時 誰が彼を悟っていると 気づいたでしょう 彼が戸口に来ても あなたは彼にお金を 渡すのを拒否した かもしれません 食事を布施するのを 拒否し 追い払った かもしれません ただの物乞いだと 思ってです インドでは物乞いは 僧と似た衣服を 身に着けています

僧が着る僧衣は 卑しい物乞いの 衣服と似ています インドの修行者は こういった服は 修行に耐えさせ 謙虚にさせ 簡素な生活にさせて 修行を助けるものと 考えています 自分を他者より 劣る様に見せて 贅沢な生活を放棄し 真理を 探求するためです ですから彼らが貧困か どうか分りません 肉体の死後 私達の心に道 (タオ)があるなら より良い肉体になって 戻れるでしょう 私達はかまいません どこに生まれても 関係なく はかないのです 今日はインドに生まれ 明日は 米国に生まれるかも しれないのです

この人生で貧しくても 来世では 裕福かもしれません 因果によります ただ来て 去ります 深刻な事は 何もありません インドを愛す人は こう言います 「どんなに金銭を要し 条件があったとしても インドに生まれたい マスターを見つけ 霊的雰囲気に近づく 機会を持てるように」 こういう人がいます 代価を払う 必要はありますよ 「代価を払って」 交換するために 支払わねばなりません 望むものを得る為には 状況に 耐えねばなりません

例えば 釈迦牟尼仏は 王子でしたね 真理を求める為に 豪華な服を脱ぎ 美しい髪を 剃りました 馬も  美しい服も捨てて 歩きました お金も持たずにです 長年 物乞いの様な 辛い生活を送りました 真理を求めて 勤勉に修行しました

真理を求めて 苦行し 多くの法門を 修行しました 貧しく生まれた わけではありません 修行中 彼は自分が貧しいとは 思っていなかった でしょう 悟りに 達した後も 毎日食物を托鉢しに 出かけましたが 貧しいとは感じて いませんでした 貧しい憐れな生活だと 考えていたら 息子に 僧になる様 求めなかったでしょう そうでしょう 実際 九歳の息子に 僧になるよう 彼は求めました つまり 僧の生活が 良い事を 知っていたのです それで 将来王になるであろう 一人息子に  そう求めたのです 考え方が他者とは 異なる事を意味します 豊かで輝かしい 生活と考えたのです それでそうしたのです 人はそれぞれ 考え方が違うので 分りませんね 国によって 風俗習慣が異なり 人によって 考え方が異なるのです 例えばあなたが大きな 家に住んでいるとして 又は大きな家は良いと 思っているとします

私達は自然な環境と 新鮮な空気を 好みます

これはただ 考え方の違いです 簡素な食事と テントに住み 例えばですが それも快適です でも大邸宅に住み 更に大きな家を 望む人もいます 車があるのに 更に 車を欲しがるのです 幾らかお金を持てば 更に欲しくなり 満足を感じないのです 仕事に縛られ 資産に縛られています だから自由でも 幸せでもありません

つまり自由で 満足しているのが 富むということですね そのとおり! 足るを知り 満足に 感じるべきです 私達は自らに 満足すべきですね

自分自身に満足を 感じるべきなのです 自分に満足すれば 富者となるのですね そうです この事から 貧困は必ずしも悪い カルマ(報い)では ないと分ります そうとは限りません 裕福も必ずしも 悪い カルマ(報い)では ありません それは 自らの 富と人生の 見方によるのです 裕福である事も 悪くないでしょう

お金持ちでも良いです 修行者が貧乏である 必要はありません でも貧しければ そのように生きて 裕福ならそのように 生きるだけの事です

神が望むように するのです 仏陀の手配によって 生きる事です もし裕福なら そのお金を書籍や 経典の印刷や 助けが必要な貧困者の ために使えます お金がないなら 自分を救う事です 自らの面倒を見て 自分の徳を 訓練する事です つまり仏陀は 人が 外に出て苦しむ事を 望んではいないのです 自分の面倒を よく見ればいいのです もし裕福ならば 多くの責任が かかります 神は私達に与え他者に 分配させるのです 私達が分配しないなら 他者に分かち合わない ならば 問題を 抱える事になります 一円でも 人々に 分け与えるべきという 意味ではありません でも与える機会が あれば ためらわない ことです

例えば もう自分の家を 建ててある人は 慌てて建てる必要は ありませんね ゆっくりで かまいません しかし私がここに 来たので彼らは即座に 仲間の利益の為に ぐずぐずしては いられません 彼らは高価な絨毯さえ ここに敷く為に 購入したりします 人々がそれを嫌えば 取り払います 怒ったり 面倒がったりしません ここに人が大勢来ても 厭う事は ありません これこそ 奉仕の精神です 裕福な事も 貧しい事も 悪い事ではありません 対処の仕方に よるのです 気にしないことです お金を嫌う事もないし 貧困は悪い事だと 思うことも ないのです 自分次第です 古代の中国に 在家の 修行者でパンという 名の者がいました

彼は裕福でした

また 仏教徒でした ある日 仏陀が 言うのを聞きました 「富は毒だ」ね 彼は即座に全財産を 船に積み込み 海に出ました 全て海に投げ捨てる つもりでした 彼は財産が人々を 束縛し 彼らのためにも 霊修行のためにも 良くないと聞いたため 財産を船に乗せ 投げ捨ててしまう事に したのです 海に出ると 五百人もの海賊が 財産を奪おうと しました 彼は言いました「おい 私はこの毒から縁を 切ろうとしているのだ なぜ欲しがるのだ? 欲しいなら 持って行くがいい どうせ捨てる ものだから」 彼の言葉に 海賊は ハッとしました 彼らはこう思いました 「彼は大金持ちなのに これをいらないのだ 奪うのは 俺達にとり 良くないに違いない」 後にパンはそのお金で この五百人を養い 彼らは出家して 阿羅漢に なったそうです いい話でしょう お金が捨てられたら 役に立たなかった でしょう それを人々の修行の 支援に使う方が ずっといいのです 財産があるなら それも良いことです 捨ててはなりません

多くの貧しい人 寡婦や孤児には それが必要です 捨てないで下さい しかし 貧しい人への 寄付が唯一の 方法ではありません 別の方法は 今 私達がしているように 多くの人に道徳の話を 聞かせるため 場所を提供すること お寺のようにです この行為の功徳は 絶大です 良い方法はお金の寄付 だけではありません 彼らに今 食べさせられても その後は やはり 食べられません でも人々に場所を 提供し 道徳の話を 聞かせれば  その話を長い間 覚えています 彼らは生涯 また 来世も その利益を 受けられます 彼らの子供も社会も 利益を受けます

帰って 彼らもまた 多くの貧しい人  無明な人を助けます

その利益は大きく 事業のようにどんどん 大きくなります だから  釈迦牟尼仏は 寺を建て人々の修行を 助けるのは 無限の 功徳を得られると 言ったのです 人々に経典を聞かせ 人々に経典を聞かせ 修行を助けるため お寺を建ててこそ 無限の功徳を 得られるのです 見せびらかしにお寺を 建てても 梁武帝が 菩提達磨に沢山お寺を 建てた自分に 功徳があるかどうかと 聞いた時と同じ答えを 得るでしょう 達磨は「何の功徳も ない」と言いました 修行をせず  悟りを開かなければ お寺を建てても 霊修行の面では あまり功徳を 得られません 少し福報は得られる かもしれませんが

一つ質問があります 医者がマスターから 印心を受けたい場合 やはり五つの戒律を 守るべきですか なぜ守らないのですか 私が聞きたいのは 医者の場合 如何にして四番目の 「嘘をつかない」 戒律を 守れるかです 例えば  患者が不治の病で ある場合でも 患者に正直に言うべき でしょうか はい 患者は遅かれ 早かれ亡くなります なぜ秘密に するのですか 教えなくても  彼には分ります 自分の状況を一番 良く知っています 彼の魂も知っています 彼を騙したら 彼の 魂と仏性を騙した ことになります だから役に立ちません できれば命を救います でも嘘はつきません こう言うべきです 「貴方を救うことに 最善を尽くしますが 貴方の命は 薬や私の 能力ではなく 仏陀の  手に任されています」

中には  肉体的には ひどく病んでいなくて 医者も良くやって くれても 亡くなる患者もいます また 重病で 絶望的で 医者も藪医者で 十分に面倒を 見なくても 回復する 患者もいます だから 嘘をつく 必要はありません 彼が生きられるか どうかは分りません 最後の一分で 仏陀が助けて  生きながらえる かもしれません だからこう言うのです 「私はベストを 尽くして治療します でも あなたの運命は 仏陀の手配と あなたの 因果によります」 これが正しい方法です そうでしょう 彼は生きられるかも 明日死ぬかも 嘘を つく必要はありません 言葉を換えても 同じことです 嘘をつく必要は ありません 多くの場合  嘘をつくのはよく訓練 されていないからです 実際 嘘はいけません どんな場合でも  嘘はいけません ビジネスをする人も 含みますか

同じです なぜ嘘をつくのですか 商売で利益を得るのは 結構なことです 例えば 1ドルで 物を買った場合  法律ではその4倍で 売ることが 許されています 税を納め 商売を維持し 残りが利益です  法律ではこれは 許されています 誰が損を出すため 商売をしますか 買った額で売るなら 何でわざわざそんな ことをしますか 商売が低調な時に 備えて 少し蓄える 必要がありますし 時には運賃を払う 必要がある かもしれません 万が一 商品が 半分だめになっても 責任を持って ガソリンや運賃を含む 費用を負担しなければ なりません 商品には1ドルの 価値しかなくても 別の場所に輸送する 必要があります だから 車が必要です 車にはメンテナンス ガソリン 税金が 必要です 車はお金がかかります 2ドルで商品を売れば 1ドルを儲けますが 運賃は誰が払いますか 単なる例ですが 嘘はついていません お客さんに 価格を示すだけです その商品を買えば それもよし 買ってくれなくても 強制しません 誰も騙していません

合理的にして いるだけです 誰もだましません 例えば  商品が腐っていると 知りながら 良い物と言い 買わせ 食べさせようと したとします これだと お金を もらったが 商品は その値段の価値が ないことになります 良くない商品と 知っていますから 嘘をついています 商品が良いと 知っているなら 良いと言い 値段はこうこうで 「よろしければ どうぞ」と言います  買ってくれなくても 構いません 嘘はいけません なぜ 人に嘘を つくのですか もちろん  商売繁盛には 巧みな 話術が必要です 人とおしゃべりをし この食品には 栄養があると伝えます

どんな食品にも 栄養はあります その人の 状況によります 時には  強壮剤を与えても 死ぬかもしれません 各人の功徳によります 人とおしゃべりをして 製品を宣伝するのは 嘘ではなく 弁才が あるだけの話です その才能があってこそ 商売がうまくいきます 商売をするには 商売の 才能が必要です 何をするにも その分野での 才能が必要です  でも 嘘はいけません 悪いものなら 良いと言っては いけません こう言うべきです 「品質はこうこうで 値段はこうこうです どう思いますか」 人の信用を得れば 更に買ってもらえます 生地を売る あるインド人の 商人がいました

皆は 値段を高く 設定する習慣が あるので百ドルの 価値の物なら  四百ドルと言います

そして 値引かれる ことを待ちます それを面白いと思い 両方でだまし合うのが 楽しいと思っています 商人は 客をだまし 客は値引きの 交渉を続けます

客が百ドルと言うと 売り手は こう言います「だめ 二百ドルならいかが」

「ノー ノー ノー その値段じゃ 赤字ですよ」 すると 客は去るかも しれません するとこう言うかも 「分った!分った! 今日運が悪いな この値段で いいですよ」 そして どちらも 喜ぶのです 売り手は 客をだまします 価格は百ドルでした つまり 彼は 百ドル稼いだので うれしいのです 客も喜びます 安い値段で 買ったからです 四百ドルのものに たった二百ドル 払っただけだと 思うからです それでどちらも 値段の交渉で 相手に 勝ったと思うので 喜ぶのです インドでは 人々は 交渉して楽しむのです ある人が  布を売っていました

彼もインド人です 彼は従来の方法では 提示価格があまりに 高いと思ったので 正確に価格を 計算しました 彼は もともとの価格に 想定外の損失と 輸送費を考慮しました そして言いました例えば  一割の利ざやなら 全費用をまかない もうけもある それで一割上乗せして すべての 布を売っていました 客が店に来ると 彼は定価を 提示するだけで どんな交渉も 拒絶しました 皆うんざりして 言いました 「この人は貪欲だ 沢山もうけようとする あまりにも がめつい 誰も彼とは違う 他では値引きするのに なぜこの人は定価に こだわるんだ」

面白くないから 皆 他の店に行きました 初めのうち 彼の商売は 最悪でした 誰も交渉を楽しんだり 彼から商品を 買いませんでした よその商品の方が 安いと 思ったからです 「もとの値段は 四百ドル さて! あなたは 親切そうだから 二百ドルで売ります」 そして 客は 喜ぶのです しかし この人は 定価で提供するだけ 彼は人々に 値引きさせないので 皆 彼の正直さを 疑ったのです ある日 一人の女性が 店で布を買いましたが 足りませんでした そこでさらに買おうと あちこち探しましたが 同じ布はありません 彼女が布を買った店は 品切れでした 同じ布を買うには 嫌いな彼の店に 行くしかありません 彼の店は 偶然 同じ布の 在庫がありました

それを買って とても安いことに 気がつきました 同じ品質の 同じ布でしたが 3分の1の 値段だったのです そこで彼に尋ねました 答えはこうでした 「私は利益が一割で  十分だと計算したので それに応じて 値段を決めたんです」 その時 やっと 女性は分りました 彼女は別の店で 同じ布を 買っていましたが 非常に高価でした それで理解したのです 評判が広まるにつれ 彼の商売は 徐々に 順調になりました 人として 私達は みな 本来の善良な性質を 維持すべきです 自分の魂 尊厳 道徳をお金のために 売ってはいけません そうしてこそ 真の自尊心を持てるし 人の目を 正視できるのです

真直ぐ見られて このように歩めば 私達があらゆる点で よいと分ります 貧しいかもしれません でも 正直で真直ぐで 幸せで 罪の意識など ありません 誰もがこのように 振舞っていたら世界は 浄化され とっくに 平和になったでしょう

マスター 大変重病の 老人がいました 彼が亡くなる前 医者は彼を だまし続けました 「大丈夫 手術を しましょう」などと 彼の親族も同様に 彼をだましました 娘は 彼が死ぬ前に 仏名を唱えることを 望みました そこで ある日 率直に話しました 「お父さん お医者は もう長くないって もうだめと言ってるの ここにいても 快方に向かいません 薬を飲んでも 良くならないわ 私はお父さんに 仏の 名を念じて欲しいの」 そしてこの娘は 阿弥陀仏や 南無観世音菩薩の 名を唱えることを 教えました

これは効果的でしょう 皆が彼をだませば 彼はまだ 生きられると思って 霊修行を したがらないでしょう でもこの父は できないと言いました 娘の善意にも かかわらず この父はショックを 受けて やがて 意識不明になりました そうして 彼は数日後に 娘が側で仏名を 唱えるなかを 亡くなりました 娘は彼の臨終の床で 仏名を 唱え続けました 彼女は棺のそばでも 仏名を 唱えました 今でも彼女が 感じているのは・・・ 罪の意識? はい

この娘は悪いカルマを 招いたでしょうか 彼女は 真実を話し 何か方法を・・・ 次の生涯がより良く なる事を 望みました でも・・ 分ります しかし 彼女の父は おびえていました ショックを受けた 父にショックを与え 彼は・・ 数日間 意識を失い そして亡くなった 間もなくでした

なぜ悪いカルマを 招くのですか? 真実を言うならば 悪いカルマ(報い)は招きません しかし 彼女は じょうずに 話すべきでした 彼の生死について 話す必要は ありませんでした 彼が死ぬことは明確 ではなかったのです 医者の間違いかも さっき言いましたね 人がいつ死ぬかを 予測すべきではないと どうして分りますか? そうでしょう? 医者でも 時には間違えます 私の弟子が病気で 手術を受けるために 入院したことが あります 医者は すぐに 手術しないと 命があぶないと 言いました しかし 彼は起きて 包帯をとり言いました 「家に帰りたい 私は病気ではない」 彼は私に祈願した後 家に帰れました 彼は手術を受ける 予定でした そして 手術のための器材は 準備されていました こういうことは よくありました だから医者は必ずしも 正しくはないのです

奇跡は時々 起こります だから人に「あなたは すぐに死にます」と 言うことはありません

マスター 娘はそれは 言いませんでした 彼女はただ お父さん 医者と薬では あなたを救えない あなたは仏陀に祈り その名を唱えないと そう言ったのです そうですね それもよかったです しかし 父親は 仏名を唱えた事も 教会に行った事もなく それで できないと 言ったのです もしできないのなら 放っておくのです 恐らく彼は悪い 知らせを聞いて すぐに落ち込み その晩は 意識を失ったのです

恐らく 彼の時間が 来たので逝ったのです 彼女が 自分を責める 必要はありません 誰にも分りませんよ 彼の時間が偶然 来たのかもしれません たまたま 念仏の 話をして 父に仏陀の 事を考えさせましたが でなかったら更に悪く なったかもしれません その時が来たら 彼は自然に 意識を 失い そして徐々に 亡くなっていくのです 彼の娘がそばに いなくても 彼は 亡くなってたでしょう それはただの 偶然なのです 医者は 彼は間もなく死ぬと 既に言ってました 彼に言うのです 「あなたの為に 仏名を唱えます 私に続くか 心の中でただ 考えて下さい あなたの年なら いつ 去るかもしれません 医者が救ってくれる でしょうが 心の準備は必要です 万が一去る時は 楽しく行ってください 仏名を唱えるのは 良い事です 私も一緒にします」 たとえば 彼と一緒に仏名を 唱えてもいいのです 彼はしないのではなく やり方を 知らなかったのです

彼の為に唱えるとも  言えたでしょう 或いは 仏陀の物語や 高いレベルの話を 伝えてもよかった すると臨終のとき 彼は良い思いが持てた かもしれません

彼の役に立った かもしれません 彼女はそうしました それなら良いです 気にしないで下さい それ以上話さないよう 彼女に伝えて下さい 生死は大した事では ありません 数えきれない 生と死が毎日 起きているのです 話し過ぎても 何の役にも立ちません 生は本当の生ではなく 死も本当ではないです それは「服」を着替える 過程に過ぎません 次回着るために どの「服」を 準備したかに よるのです 今 準備しておけば もしお金を沢山 稼いでいたら 美しい 服を準備できて次回は 美しく見えるでしょう

準備してなかったら 服はみずぼらしく 雑巾のようです 当然  良い「服」を得られず 同じ古い「服」を 次回着る事になります そうですね よい「服」を準備して 霊修行をしっかり していれば 「服」を変える時に なっても 痛みを感じず 美しくいられます 死は恐ろしくないです 殆どの人は死後 天国に行きます 善良な人は 明るい境界に行き 美しい世界を楽しみ そこで休むのです この世界で 一生懸命働いて 良い行いをしたので 天国でしばし 休むのです 休暇に 行くようなもので  何も悪い事など ありません

しばらくしたら 戻って再び 人間になるのです それを望まないなら 観音法門を修行すれば 戻りません そうすれば  面倒な生死の循環を 繰り返さずに すみます その女性は 理解していません 理解するには 若過ぎます 彼女のせいではないと 伝えて下さい 遅かれ早かれ 父親は 亡くなったのです 彼女は悪くありません 彼女は 最高の娘でした 彼女は正しい事をし 父親の役に立ちました 自分を責めては いけません 亡くなる人は行かせて 命ある人には 生き 続けてもらいましょう あまり自分を 責めると 彼女は 精神的に傷つき 何も上手く いきません 彼女のために 良くありません ね 父親の仕事を 世話して 輝かしい 人生を送るべきです 父親もそれを見て 喜ぶでしょう それが最善の事です いいですね

皆さんの生活が 良いようで嬉しいです 物質面も良いし 事業も順調でしょう 自分の母国で なくても 信念が 道(タオ)にあります 東洋の道心は まだ堅固です これは とても良い現象です 中国人がどこでも 成功するのも うなずけます 少なくとも 良い報いがあります

それは 心が 道から離れなかった からでしょう 常に天地を敬い レベルの高い聖人や 仏菩薩を 尊敬しているからです それで自然に 良い報いがあるのです そうですね?結構です

とても希望が持てます  中国の伝統 中国の血統に とても良いことです これを続けて 子供に同じ事を 教えて下さいね お休み ありがとう! 皆さんの愛情と 忍耐心に感謝します

 
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