智慧の言葉
 
まず神の王国を捜し求めよ 第一部/3 一九九三年三月七日 シドニー、オーストラリア    Part 1
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二十一世紀に 生きる私達は 科学教育を受け 私たちの信仰も 科学的根拠に基づいた ものであります 迷信的な現象と 個人崇拝は 完全に 排斥されています しかしスプリーム マスターチンハイと 彼女の教理を通して 私達は知識では 理解できない 素晴らしい奇跡的な 体験を得ています 車の事故に遭った時 車が安定感を 保ちながら無事に 止まり 乗っていた 修行仲間は傷一つ なかったことをどう 解釈したらいいですか 時速百キロの スピードで走行中 前輪が突然パンクした 状態でした これもどう解釈したら いいのでしょう 又亡くなった親戚の 魂が嬉しそうに私達に 有難うとお礼を 言われた体験もあり これらの 普通ではない現象は 重ねてスプリーム マスターチンハイは 千百万億の化身が あるだけでなく 霊的方面から物質界に 至るまで遍在しており いつでも真摯に マスターを覚えている 人々を助けている事を 物語っています 観音法門は 先祖の恩に報いる 最も速く 最も力強く 最も便利な法門です 私達はよく 一人の人が 悟りを開くと 先祖九代が 超生できると 言っています

実際この法門を 修行する人と しない人とでは 外見上は何の区別も ありません 私達も皆と同じく この物質世界を楽しみ 大事にもしています しかし今私達の 唯一の願いは 無常の欲望を気高い ものに変えることです 私達は人と論ずる ことに執着しません なぜならそれには 限度があるからです これほど価値ある修行 体験は言葉では到底 説明できません  錯覚でしょうか  その可能性もあります しかし瞑想を通して 何を錯覚しているかが 分かるようになります

ご在席の皆様 私達の真の郷里に 対する愛着は 心と魂の中で永遠に 消える事はありません 故郷のことを誇りに 思っているのです そこが乾燥した 不毛の地であろうと 美しく豊かな水が 肥沃な地に注がれて いようとまったく 関係ありません  故郷の思い出は 私達の人生の 一部であり いつも 脳裏に浮かぶものです そして無数の輪廻の 中で私達は新しい 土地に生まれ変わり よって郷里に対する 切実な愛着を満足させ たいと思うのです しかし 厚い無明の幕に遮られ 真の永遠の故郷が あることをすっかり 忘れています その永遠の家で 私達は共に成長し 思い出を分かち 合いました 無数の 輪廻の中でこれらを すっかり忘れ  この無常の世界に 落ちぶれて しまったのです 結局私達は この愛する祖国 神の王国とも呼ばれる 国へ戻りたがります そこは天国であり 阿弥陀仏の 西方極楽浄土であり 涅槃なのです そこでは苦という字を 聞くことができません 全く苦しみません この故国は  遠くて 近い所にあります 私達はそこは遠い所 だと思っています 真実のものではないと 誤解しているからです 私達はただ神話の中で その話を耳にします 仏陀やイエス以外は 誰も到達できないとし 受け入れないのです

天国はとても近いです なぜなら今日敬愛する マスターが体系的に 科学的方法を伝授し 私達が今世で 故国に戻る方法を 見せてくれます 皆様に敬愛する マスターチンハイを ご紹介でき 大変嬉しく思います チンハイマスターは 観音法門という 得がたい法門を教えて 私達の魂を永遠に 輪廻から解脱させます

オーストラリアに 来たのは私の本意では ありませんので 何があっても ご了承下さい 例え私が言ったことに 賛同しなかったり 気にいらないとしても これも神も意志です なぜなら元々ここに 来たくなかったのです 山とか どこかに または自分の家に または川辺にいて 皆さんのように好きな 事をしていたいのです 静かに平凡な暮しが なぜなら私は 皆の内面に 神の王国があると信じ この世界でする事は 何もないと思います ただ神の意志は 常に私の考えと異なり  私の身なりや 今日と明日の身なり 来月はどこどこへ 行きなさいと 指示するのです

最近一冊の本を 読みました ラマナ マハシに関する本で 彼は大分前に往生し たぶんこの本を読んで 彼の名を知ってる人が 多いかもしれません 彼は開悟した偉大な 人で 国を出た事は 一度もありません 私は彼を責めません 彼はただ 自分の家にいて ごく少数の人 例えば 数人のヨーロッパ人や インド人が訪ねてくる ぐらいでした ある人は私に聞きます なぜあのマスターは 出てきて人に開悟の 方法を教えないですか 彼が慈悲に満ち 智慧があるとしたらと 教えるべきですと その時私は思いました そうです 開悟した マスターとして 慈悲深く 慈愛に満ちていれば 出てきて法を広める べきですと 彼は決してそうせず 彼は 何のためにと言います 彼が出てきても 人が信じるとは限らず だったら彼は何を 言えばいいのでしょう 人に向かって 私は開悟した マスターだ 私にはこのような パワーがあると 言う訳にはいきません それをやったら人は 彼は空想の話をしてる と思うかも知れません

しかしそう言わないと 人は彼が開悟した事を どう分かるのですか 彼は自分のことを 言うのが大変困難です 自分のことをよく 分かってもそうです マスターであれ 誰であれ 大抵は公に出て 自分が信じている事を 分かち合おうと した場合 殆どの場合 抵抗や 誤解を招きます だから人々は イエスを殺したのです これは一例です ただ今の時代は どんなマスターも 殺されないように 神に手配されています 私達はより文明的な 時代におかれていて 野蛮な発展段階に いるのはありません 私も嬉しく思います いわゆる 罪深い人を 救うために 血を流さなくても いいからです 私達はそれを求めても いけないし そんな考え方すら あってはいけません なぜなら いずれの時代も人類は 進歩してきました そしてますます多くの 悟りを開いた マスター達が地球を 加護しています また 多くの準備ができた人 霊修行のため 肉体を手放し 往生の方法を学んで 解脱を願う人に開悟を 与えてきました 私はずっと 神の意志に従い このように 東奔西走し 大衆の批評の 的になっています

拒否しているのでは ありませんが  時々ゲームが堅苦しく 多くの人は生真面目で 面白くありません そうでなければ  私は 楽しみながら仕事し ついでに もっと何かを 楽しむ事ができます しかし私達の多くは 真面目すぎます 人間界のゲームや 人間界のいわゆる ドラマを学ぶことに 真面目過ぎるのです 多くの人は 思いっきり笑うことも 泣く事すらできません 人に自分の感情が 利用されるのを 恐れるからです これは間違いではなく 何故なら感情は 恐れるべきものだから 感情は私達が 物事に対してまたは 自分が賛同しない事に 対して または 正しくないと思うこと 自分の観点と 合致しない時興奮し このため 世界的な戦争も 勃発する事があります 権力闘争や 経済的要素を除いて 全てに感情が 関与しています  時には二、三人の間で 又は団体内部の不和で 戦争が起こります そこから始まるのです 時には 宗教戦争も感情に よってまたは感情から 始まることがあります これらについて 私達は時間をかけて 本当に値するかどうか 熟慮する必要が あります 時には誰かが私達に 何かを手放すように または何かを犠牲に するともっと価値ある ものを得る事ができる 勧めると私達は 怒ってしまします それが嫌だから 感情的になるのです もちろん 私達が忘れているのは 物質的な世界と神を 同時に崇拝できない事 霊修行のために 肉体を手放さなければ 永遠の生命を得る事が できません

裕福な人は 天国に至る事は とても難しいです 裕福な人とは 何でしょう 快適な生活をし 悠々自適な生活 充足した生活を 意味します でもこれらを私達は 有する事ができますが ただたぶんそれを 最小限度にして 生活をもっと精神的に もっと自適に もっと神に近いものに することです 例えば 菜食のことは 毎回厄介な問題で 私も皆さんが菜食を せずに印心ができたら いいと思うのです 菜食は皆さんにとって 大変厄介だからです いつもあの 口の中の一切れの ビーフのためです 他に理由はありません 科学研究によると 菜食は健康にもよく 世界の経済にも 有益です これは自論ではなく 全ての科学研究者が このように 言っています 皆さんは本屋で 関連の資料を 入手することが できると思います 皆さんの国にも関連 資料が多いと思います 最近では 英文の 科学実験による資料は 何でも調べることが できます また違った 観点から見た場合 ヨガの修行者や 他の静心法門の 修行者と接すると 分かると思いますが 私が言うまでもなく 彼らは全部 もしくは ほとんどが 菜食を好んでいます 菜食の方がもっとよく 瞑想や心の平和にも よいと分かっています なぜなら肉食すると 興奮しやすくなります

多くの食べ物は 薬のように 体にいろいろと 影響を及ぼしています 例えば 肉食は体に何の影響も ないというのは 非科学的です 口に入った物が 体に何の影響がないと したら毒を飲んでも 死なないはずだし 死なないはずだし また 麻酔薬を飲んで 意識がないうちに 医者が手術をしても 全然分らない ということも あり得ないでしょう ですので この世では 物質的なものは やはり体や精神に 影響があります だから麻薬を吸うと 意識が朦朧とし意識が なくなる場合もあり お酒を飲んでも 酔って頭痛がしたり 時にはまっすぐ歩く こともできないのです 物質世界のものは 多少なりとも私達に 影響を及ぼします ご存知の通りです ですので食べ物も 私達の心身と精神に 影響を与えます これは古代から 実証された事実です 私が何を食べるべきか 決めたのではなく 私はただ皆さんに 完全に自分の偉大さを 知る方法を 提供しているだけです 皆さんがこれを好み 受け入れればですが 私達は 自分の収入源を 持っています 皆さんからのものは 何も期待していません 私は絵を描き デザインすることで 稼いでいます 全ての弟子は仕事を しなければならず この世界に対し貢献 しなければなりません 私達は小さい時から この世界に愛され 育てられ借りが多い 私は報いを求めません

私は生きている間 神の意思に従って この世に少し 貢献したいだけです この好意を受け取るか どうかはあなたの 自由意志に任せます

私がここに来たのは 神の手配だったので 今ここにいます でないと私から見れば 世界は何事もないです いずれも神の手配で 私とは関係ありません 私はかつて世界を 救いたいと夢見ました そこで家を出て開悟を 求めに出かけたのです というのはあまりにも 多くの苦しみを目の 当たりにしたからです

しかし数年後 今に なって分かったのは 全てが神の手配で 私がすることは 何もないという事です しかし神は私に何かを させています 私をどこかの山の中に ただいさせることも あまり好ましく ないのでしょう いつか私も老いて 死んでしまします 神は私を路頭で 死なせたいのでしょう これらのことは 私達が心を静かにし 興奮と偏見を 捨てた時に自然とよく 分かるようになります 古代において  この悟りを開く法門を 学ぶことは簡単な ことではなかったです だから多くの人は 開悟について 大変神秘に思うのです 開悟は それらの見るからに 天使のような人 聖人のような人 長い髯を生やした人 白くて長い服を着た人 空中を歩く人が するものだとか そうすべきと 私が世界で弘法した 経験から言いますと 人々は当然そうだと 思っているのです ですから一般大衆に 開悟はとても簡単だと 知ってもらうことは 難しいです 彼らは あくせくした複雑な 生活に慣れています しかし私は重ねて 保証します 開悟は 本当に簡単なのです 小柄な人間でも できるのです 私のような 皆さんはもっとうまく できると思います 皆さんは体力的にも 頭脳も 私より勝るし 背丈も私より高く 丈夫です  生活の面でも私より 成功しています 皆さんの国は 私の国より 文明化しています この肉体が属する 国のことです 私の真の祖国は 地球のどの国よりも 文明的です ただ 証明できないので これ以上言いません 私について学べば これを証明します ここに座っている だけで学びたくない 人には証明できません 私についてこない限り ロンドンを見せる事が できません 

例えば 古代では大多数の マスターは公に自分の 知っていることを 伝授しませんでした 理由は簡単です まずマスターにとって この世界には本当に やる事がないのです 彼らは全ての 兄弟姉妹達のことを 神の化身として 見なす事に慣れていて 全ての人の内面には 皆神が宿ると 信じているからです ですから彼らは 本当に何もすることが ないと思うのです 老子も同様に言います 天下には何事もない ただ人々は いつも彼らを 見出したり 神の手配で 人々は彼らを見つけ 出すのです そして 彼らは注目を浴びます 一人から二人へと 徐々に広がり  マスターは公に法を 広めざるを得なくなり ただ当時は メディアが あまり発達して いないのと 政治的背景により 実際に世の中に 知られたマスターは 多くありません メディアが十分 発達していないことや 交通の便がよくない ことからです ですから これらのマスターを 知っている人は マスターを とても神聖で 貴重で 尊敬する得がたい 人として扱ったのです 現代で 今のマスターも同じ 事をしたら 当然少数の人にしか 知られません ただそれでもやはり 古代メディアが 発達していない 時代よりは 多いでしょう 古代では 物質的に十分では ありませんでした だから愛着を感じたり 執着するものが それほどなかったため 何かを手放すことが 難しくなかったです 現代 私達は多くのものを 簡単に入手できます 高度な現代文明を 有していることは 喜ばしいことですが しかし時には 場合によっては 人々の霊修行の 妨げとなっています 釈迦も 楽な生活または 天国のような 生活をすると 仏陀の修行をする事が 難しいと言っています つまり完全開悟の 境地に至る事は 難しいという意味です つまりその一部に 到達するかもしれない けれども完全開悟では ありませんという意味 完全開悟するには もちろん 代価があります 私達の修行仲間も それぞれ違う レベルにあります 霊修行のために 本当に命を賭けている 人はもちろん 修行によくないことを 手放します 手放します 一部の人は ただご利益を得たい だけで あまり 犠牲にしたがりません 修行仲間にも二つの タイプがあります この二種類の 修行仲間に対し彼らの 必要に応じて違った 指導を与えています 例えば シンガポールで 誠心誠意修行したい 人には印心を与えます

別の人は私に聞きます  マスター この法門は 素晴しいと思いますが 今はまだ完全菜食が できません 月に十日間菜食を するか都合のいい時に しても いいですかと もちろんいいです と私は答えました それて彼らに いわゆる 方便法という方法を 教えます ですから二グループに 分かれています 完全菜食する方と そうでない方です 彼らは一緒に混じって 同じセンターで 瞑想もできます 私達の内面は本当に 偉大なのですが それを知りたいと 思わないだけです ですからいわゆる 聖人と呼ばれる人と 聖人ではあるが 平凡な人間との間には 差があるのです 聖人と呼ばれる人は 生まれながら 持っている天国の 遺産を知っています 彼らはこのパワーを 使って自分や周りの 親戚や友人に 利益をもたらし ひいては自分の国や 全世界に利益を もたらします これらの聖人達は 公に出て法を広める ようなことはしません ただどこかに 座っていて 人が 訪ねて来るくらいです 極少ない数の人しか 来ません 聖人の教えには 言葉は必要ありません 言葉で天国の メッセージを伝える ことは低い次元です 一つ最高の 方法があります

内面から伝える方法で 智慧を使い 天国の言葉を使って 通じ合う方法です マスターが現場に いる必要も 言葉を 使う必要もありません しかしこの世界では 言葉を使わないと 時には人は 理解できない事もあり 頭脳で整理することが できなかったり 心の疑問が解けない こともあるため 言葉で伝えざるを 得ない事があります しかし実際に法を 伝授する時 つまり 自分の本性を認識する 瞬間 マスターは 一言も話しません 二人とも黙っています マスターと弟子は 何も話しません 二人とも沈黙を 保ちます これこそが 最高の言葉です マスターが公に出て 法を広めるときだけ 人々の期待に応じて 言葉で 開示します でも開示すると同時に 他の事もします 目に見えない力で すでに準備ができた 聴衆や弟子達を 加護します ですからある人は 経の講義を聴くときに 神秘的な体験を することがあります マスターが 光輝いていることや 会場全体が仏光に 満ちていて 全ての 人が光に包まれている ことを見ます この物質の世界では 人はいつも物質の 神通力を求めます そこでマスターは 時には神通力で 人々を引き付けて 彼らに非物質のものを 与えます しかしそのような事は 稀です 例えば あるマスターが いつも神通力を使うと 人は彼の偉大さや 開悟については 語らず いつまでも神通力に ついて語ります 何々大法師を 知っていますか 彼はこういう事もでき 物も創り出しますと そして 皆が耳にするのは指輪 ネックレスといった 物です 天国に関する ことは何もありません こうなると 物質的な物を好む人に とても 物質的な物を好む人に副作用が生じます そこで大多数の マスターは神通力を 使う事を避けます たとえ使うとしても 密かに 神通力を使います そしてその神通力を 受けた人だけが 分かります  最も近い弟子さえ それを受けた人の 傍の人も分かりません 彼らが一緒にいた時 例えば事故などに   遭った時にその類の 事態の時に分かります
人はよく私の所に来て 私にこういう病気で ここが痛い ここも痛いと言っては 加持を求め  病気を治すよう 求めますが 私はほとんど 何も言えません 私はいつも思います 私は天国をあげたいと 言うのにそれだけを 求めているのかと ただこの肉体の はかない体を求める だけなのかと たとえ今日病気を 治しても 明日また 病気になります  いつかは死ぬだろうに と思うのです しかし大半の私の所に 訪ねてくる人は 物質的な物に捉われ 過ぎて 私は何も 言うことはありません たとえ私が病気を治す 万能の力が内面にある と言っても無駄です 内面に向かい 神の 王国を捜しさえすれば 全てがあります  神は全てを加護します 想像もできなかった事 深い祈りの時にも 得られるとは 思わなかった事まで 手に入ります 多くの人は 自信がないようです 自分の偉大さと無限の 力に自信を持てません 問題はこれです これが唯一の 語るに値する 罪なのです 私の観点から言うと 罪など存在しません それはただカルマ(報い)の力の 働きです カルマが こうして ああして どこそこに行きなさい よい事 悪い事を しなさいと操るのです ただしある人が 特に功徳があって 特に功徳があって ある聖人と出会って 真摯に聖人の傍に 座り 直接彼の 磁場の加護を得た時 その人の 人生は変ります 以前と違うのです 心の中に愛が満ち溢れ 自分の中の 強いパワーを感じます

内面の智慧が目覚めた ように感じます なぜよく病気になるか 医学がこれほど進歩し 生活はこれほど 裕福になっているのに なぜ病気になるので しょうか それは私達がすべてを 管理する自身の無限の パワーと繋がって いないからです 私達はこの宇宙の力に 背を向け 逆走しているか これに対し無知です それが私達の全ての 不幸の根源です 私は決して全ての人が 印心を受けて 開悟すると全ての 病気が消えるとは 言いませんが 私達の 修行仲間の中には こういうケースも 少なくありません 私はよく知っています 病気がすぐ治った 多くのケースを 知っています しかし 彼らは肉体のために 来たのではありません ただ真摯に 一心に 神を求めて来たのです ですから体の病気も 消えたのです 私は決して 皆がこうであるとは 言いません しかし徐々に皆が 心身 自由自適の 境地に達します 全ての体の不調と 全ての病気は 全部治ります 時には内面の無限の パワーを覚えている だけで またはこの パワーに溶け込んだ 功徳だけで 周りの親戚や友人 二、三人ほどの病気を 治療する事ができます ましてやマスターは なおのことです

この種の治療や 治癒は 干渉の 悪いカルマ(報い)を作りません 自然の法則に反して いないので 弟子に 問題は及ぼされません 自分も分らないうちに やったからです 病気を治すのに 決して物質的 精神的 力を使ったりして エゴを助長させたり 治った人に神様の ように崇拝させたり することはありません ですから 因果の法則は これに適用しません でも普通治療する人が 自分の精神的な力で または霊的力で 治療に当たる場合  治療する人と 治療を受ける人は これが分かるわけです 彼らの脳裏には悪い カルマの印がつきます 私達の法門は神通力の 使用を強調しませんが しかしとにかくいつも 奇跡が起きます 自然の法則に反した カルマを作ったりは しません 私達は それをしながら自分も 知らないからです エゴがますます 大きくなることも ありませんなぜなら 自分でもいつ どのように治療したか 分からないからです ただ分かっているのは 神の加護のパワーが 私達の肉体の道具を 使ったり その場に居合わせた 私達を通して  治療したという事です 知っていたかも しれませんが 定かではないため エゴが膨張する 危険性はありません ですから私達は 神通力や何かの パワーを求めるなら まず無限のパワーを 探すべきです すると求めなくても 全ての事が独りでに 私達の生活に現れます ですからイエスは まず神の王国を 捜せよ すると 全てが汝に与えられる と言ったのです

全てのマスターは実際 一緒に仕事しています 「樹の実を見れば 分かるだろう」 人に善行をするよう 教えて社会の安定を 保ちます 例えば盗みを働かず 邪淫せず 酒を飲まない よう教えます 心を静かに保つよう 瞑想を教えます 私達のいわゆる 弟子たちが とても明るく 愛に満ちているのを 見た場合 それは 良い実であることが 分かります 私の教えに 賛同しようと しまいと これが 正しい教理である事を 知るべきです どんなマスターでも この世界や 世間の人々が このような状態である ことを願っています 平和で 愛に満ち 知的で 神の法律に 従っていることを これは唯一の証明で 十分な証明です 私が敢えて 言う必要もなく 誰かと論争することも どれが正しい生活様式 なのかを更に証明する 必要もありません 色々な生活様式が あるかもしれません つまり山に通じる道は 多いということです それもよく 完璧です ただある道は 石が多く 上るのが大変です ある道は歩き易いです 私達の道がそうです 上り安いだけの話です あなたの道が歩き易い ならそれでいいです 頂上に上りさえすれば 互いに会えるでしょう 頂上に到達した人は 何も違いがない ことが分かります

まだ頂上に到達して いない場合 論争が 好きかもしれません おかしなことに 人は目先の目的の ために多くの事を 犠牲にします 例えば 多くの人は困難を 経験するのを好みます 快適で暖かい 家や故郷を離れて エベレストに 上ります またはとても険しくて 寒くて危険な 世界最高峰とか砂漠に 探検に出かけます ただ好きだという 理由だけでそうします 彼らが頂上に上った時 または登山の準備をし 山に登る時 それは本気である ことが分かります 目標を達成するために 全力投球します 同じように 本気で 神を愛すればどんな 犠牲も気にしません それが本当の 犠牲ならば 多くの人は聞きます なぜ菜食なのか 肉を食べると 開悟できないのかと 私はこう答えます それは「ええ  できるでしょう ただ 順調にいかず不完全で 色々な障害にぶつかり 副作用が生じるかも 知れません 多くの 時間を無駄にし  高い境界に達する事は できません 問題が 起きる事もありますと 考えて見てください 私の所に来る人は 誰でも印心できる ようにすれば 私だってやり易いです そして私はもっと 有名になり もっと多くの人を有し 沢山の供養をもらえます しかし菜食を 求めているがために 毎回講義の時 全員でもなく 半数もいかない人しか 印心にきません 皆にとって菜食が 困難なので 私が 菜食を宣伝することは 尚更困難です 考えて見てください 私は自分の全てをかけ 金銭と時間 暖かい 家庭も犠牲にしました

なぜでしょうか たかが菜食のことで こんな目に遭うのです きっと他に何かある はずです 考えて見て 多種多様の宝石があり 価値も違います 一切れの肉のために 私を非難し感情的に ならないことです そうするに値しません 自分の品位を 下げるだけです 神は私達が 牛肉を食べようと 鶏肉を食べようと キャベツを食べようと 気にしません 問題は 自分自身で少なくとも 何よりも行動で 神が見たい決意を示す ことです 肉は 誰も強要していません なので 論じる余地も ないのです

毎回こんな些細な ことを議論することは 悲しいです 一部の人または 大多数の人は これが神よりも 大事な事のようです 悟りを開くことよりも 重要なようです 私の誠意すべてより 皆さんの門まで持って きている私の真摯な 愛より重要なようです 私の都合を潰し シドニー フォルモサ(台湾)の 全世界の弟子達の都合と費用より 重要なようです 彼らは自分のお金と 時間を使って私を 助けに来ています 彼らは全てを奉げ 結婚しない人もいます 私とテントで 暮らしています お金を節約して ここに来たり  神の意志に従って 他の所へ行って他の 人々に会うためです 私は今日印心を受けた 人もそうでない人も 家に帰ってから 物質を超えた何かを はかない肉体よりも もっと重要な事に ついて考えて いただきたいのです この肉体という服は 数年後にどこでどんな 服に着替えるが私達は 分からないのです それを知りたければ 機会を提供します  すると後に行きたい 境界を選ぶ事がきます どこに行くかは あなたの好み次第です それが嫌なら 何も知らないまま 死神について行くのが よければ それでもいいのです あなたが どこへ行こう 道中無事を祈ります 有難うございました

簡単に観音法門と なぜ観音法門が他の 法門より優れているか 説明お願いします 観音法門は実は 法門ではありません なぜなら私が 法を伝授するときには 何も言わないからです 皆も沈黙を保ちます しかしその時神の声や 天国の音楽が 聞こえてきます この音楽は あなたを過去の深い 眠りから目覚めさせ 内面の神のパワーや 無上の智慧が 正しい方法で 作動します 私達が人間の命を 持ったのはこの無上の パワーでこの世界を 加護するためです このパワーで 世界を加護しなければ 私達は常にほとんど 惨めになります  世界に災難や苦難が 多いのはこのためです ですから 観音法門という いわゆる法門を 伝授してから 大多数の弟子は 進歩が速く いつも幸せな 状態にあります 何をしても 速く効率的で はっきりしています 心は喜びと 安心感に満ちています 彼らは人間として この世での責任を 果たしたからです 私達はただ食べて 寝て子供を儲けて 死ぬために 人間になったのではないのです これは人間の目的では ありません 内面の音流は 神から受け継いだ 無上のパワーを 表します ですから これを使うべきです 人間として誰もが 人間の命は貴重だと 言います でも何が貴重でしょう 私達はただ六十歳 七十歳まで生きて 死にます 大半は 病気や苦しみの中で 何一つ 成し遂げていませんね これが 人生の全てでしょうか 考えてみてください 観音法門は自分の パワーを認識する ための手助けをする もので この力で 世界ともちろん自分を 含めて加護するのです 開悟はどのくらい 時間がかかりますか このくらいです 印心の時 ただ座って いるだけで開悟します 動物は 生き物で 植物も野菜も 生き物です 植物は動物よりも なお繊細に殺生を感じ 意識しています するとこの二つの 殺生はどう違いますか なぜ菜食しますか 人は蛋白質 アミノ酸 ビタミン十二が必要 ではありませんか

ビタミンBの全ては 酵母から抽出できます 植物や木 全てのものに 生命があります しかし木や植物の 枝を切っても二つも 三つも枝が生えます 動物の首を切り 落とした時もう一つ 生える事はありません

釈迦だって 菜食をしましたし 神も野原の果物や 草を汝の食べ物として 与えると言っています 神の好意を断るべき ではありません 私達が菜食を しなければ  神は不愉快になると 私は思います それは 神からの贈り物だから 家に帰って 旧約聖書の一ページを 見て下さい 印心を受けた人は 全員が解脱し 開悟するのですか もちろんです  昔の生活に戻りたく なければです とにかく解脱は できます ただ もっと長い道を歩き  もっと苦しむだけです それを求めるからです 開悟なら 即座でできます とにかく印心の時 開悟を味わうことが できます フランス語の先生の 所へ行きフランス語を 習うのと同じです 先生がその場で 一つや二つの文を 教えないと彼が先生か どうか フランス語が できるかどうか どう分かりますか 少なくとも授業の 初日に少しの文が 分かるのです 同じように 皆さんが 印心を受ける時 開悟の感じを 少し味わうことが できます ごく一部味わえます その時点から 日増しに 開悟していきます

日増しに 悟りを深めていき 完全に自分の 偉大さと 内面の 神の王国を認識する ようになります あなたは 宇宙の最高の 救世主で 神の唯一の息子である イエスが「私は道で 真理であり生命であり 私を通さないと 天の父に会えない」と 言った事を信じますか (本当です) イエス抜きにして 誰も天国に入ることは できません そうです 本当です 全マスターが言います イエスは彼の身体の 名前で キリストは 彼の敬称です 全マスターはキリスト パワーがあるはずで ある意味では イエスは死んでない イエスは全ての マスタターを通して 世紀を超えて  時代を超えて働きます  まだ とり残されてる 無明の私達を解放し 悟らせます イエスが亡くなったら 彼だけが私たちを 悟らせられなくなり もちろん 彼は 多少できるが 私達は人間で 彼はより高い境界に いる時 私達は 彼と交流が取れません 従って肉体を持つ マスターが必要です でもキリストパワーは 肉体を持つマスターを 通して働きます その時運命づけられた あるいは指定された人  従って イエスが 彼が唯一の道で唯一の ものであると言った時 絶対の真理を話したが どんなマスターも 在世の時そう話します 聖書に執着することが 問題だと知っています 多くの仏教徒も 同様です 聖書と 経典は 過去のマスター達の 素晴らしい証拠ですが それらも私達の知的な 執着にとって非常に つまずく障害なのです 私は知っています 

それは非常に難しいと 私はあなたのご多幸を 願うだけで そして ただ あなたが 理解するまでの時間を 忍耐強く待つだけです 聖書は地球に加護を 与えた素晴らしい マスターの記録です でもイエスの前と イエスの後の人達の 何についてでしょう イエスの後の人は  たぶん私達は言います  彼の名前を聞いて  救われると でもなぜイエスの前の 何百万 何億万年には 救う人が誰も いなかったのでしょう ただ その時だけ 一人息子を送るほど 天の父は無慈悲ですか あなたは彼がそれほど けちだと思いますか イエスが本当に私達 皆を救うならなぜ 私達がまだ無明のまま なのか答えられますか 私達が知らない ことが沢山あります 天国と交流できません 心から非常に深く イエスに祈る人々は できます イエスが 彼らの前に現れ  教えますが それは ほんのわずかの人です 彼は私達皆の前には 現れません でも私達の弟子は 彼との交信方法を 知っています 私達は彼のレベルまで 上れ 直接 彼からの 教えを受けられます 私は何ら異なるものは 教えていません あなたがイエスと 神に会いたいなら 私はあなたを助けます 仏陀に会いたいなら 私が助けましょう そういうことです でもあなたが信じず 過去の偉大な マスターの記録に しがみつく代わりに  それを信じるなら 悟りを開くことに 最も深い障害とは 何でしょうか 最もな障害はあなたが それを望まないこと さもなければ 私はあなたの戸口で 費用なし 条件なし 縛ることなし 何も なく 完全に 永遠に あなたに提供しますが あなたがまだ要らない それが私が 考えられる中で 最大の障害です
なぜ 人々はあなたを マスターと呼びますか いいではないですか とても多くの マスターがいます

科学のマスターの 位もあります 金属工芸のマスター 宝石のマスター 機械のマスター 様々なマスターがいて 私が彼らに何かを 教えれば それで 彼らに効果があり 彼らの生活はより良く より円滑で より 美しく より祝福され より楽しくより幸せで より嬉しく より賢くなれば なぜ私をマスターと 呼んではいけませんか でもそれは私には 重要ではありません あなたは私を兄弟姉妹 と呼ぶことができます ある人達は私を 小さい姉妹と呼び ある人達は私を小海 とか 阿海と呼びます 彼らは私を 多くの名前で呼びます ある人達は私を ママと呼んだり いろいろに呼びます 私は気にしません あなたと私の違いは 何でしょう ないことを知ってます 唯一の違いは 恐らく あなたは 天父から 授かった 最も 素晴らしい特権である 自分自身を否定した ということです あなたはそれを否定し それが唯一の違いです

マスター あなたから 印心を受けると その人のカルマ (報い)は悟りの過程に 影響を及ぼしますか はい ある程度は 影響があります 潜在の意識の中に記憶される カルマ(報い)は 私達は マスターパワーを 用いて除去します それで将来の転生の時 その痕跡が残りません しかし 私達は現在のカルマ(報い)を 経験すべきです さもなければ 私達は印心直後に 死ぬでしょう この世で取ったり 与えたりしなければ 私達は存在できません したがって 私達が現在のカルマ(報い)に つまり 今生ですでに 書いてあるものに 私達は 耐えるべきです しかし私達が目覚めた 後で 私達の中にある 最高のパワーの 恩寵のおかげで それを円滑にし 整え または最小にさせるか 夢だけで経験します 例えば あなたが誰かに 刺されてひどい重傷を 負うはずだったとして でも印心後 あなたは それを夢に見るだけで あなたの生涯にはない でも目が覚めた時 負傷した箇所はたぶん まだ痛いでしょう それを忘れたら 理由が分からなくても 悪いカルマ(報い)が 消えたようで そんな感じです 悪いカルマは何らかの 形で支払うべきです たぶん マスターは あなたから取ります その一部または 全部ですが あなたが それに堪えられるか どうかによります それでイエスは犠牲に ならねばならず 彼の多くの 弟子の罪のために 彼が治療した人々や 彼を殺した人々の 罪のためにです でも彼は人々を許した ですから彼は苦痛に 耐えねばなりません 多くの師はそうでした 今もそうです 磔の形をとらずとも 形は異なっていても 激しい苦痛 身体の不快 蔑みや あらゆる種類の 弟子からや 一般社会からの 犠牲の要求があります 例えば 師の犠牲がどれ程かは 重要ではありません 人々はどんどん 要求し続け 師を苦しませ続けます いずれにせよそれも はりつけの一種です 十字架上ではないけど 日常生活において 師としての任務の中で 現れます あなたが師になるまで これはわかりません

人が肉を食べながら 初回の印心を受けて その後高い導きを 感じたとしたら 次の 印心も受けられますか 私が代わりに二番目の 印心を授け 初回時の ものを差替えます 準備が整うまで待って それから来てください なぜ自分に強いますか 肉が神より良いなら 待った方がいいですね 構いません 神は自由意志を与え 思い煩わないで下さい 神は怒りませんし せかしたりしません 私達はしたいことを 選びますが 成功したければ 心をこめて行います 好きな女性に こうは言えませんね 僕たちはまず 結婚したふりをしよう 夫婦のことを いくつかやった後で 落ち着いたら また結婚しよう いいね 世俗でさえこんなこと 出来ませんから 神には絶対に しないでください 神に対しずる賢くなり 過ぎたと思います そういう訳で神は神の 頭を振りそこへ座った 神はここには降りて来たくはなかった あなたからの印心後 弟子がすべき 修行について 教えて下さい

その時に教えられた 瞑想を 続けることです そして道徳的な行いと 菜食を 続けてください 出来る限り多く 瞑想して下さい 戒律を守り 自然の法則を 故意に破らないように何か問題が生じたり 瞑想に障害が出たら いつでも 私に手紙を書いたり 内面で助けを求める これが弟子の行いです 彼らはまた 以前と同様に 日々の仕事を続けます おそらくもっともっと 愛情深く この世の 責任に気づくでしょう 影響力も増します なぜなら 内面にある元々の力に 満ちるからで 機械的な 頭脳ではありません 弱い魂と 悪い魂の 違いはどう 説明されますか つまり ある人は わざと悪いことを したのではなく 意志が弱く誘惑された ということですか 彼らは弱いのです 魂ではなく 意志が弱いため 同じように弱い人や 誘惑されやすい人と 付き合うのです だからもちろん ますます弱く なっていきます しかし意志が強く態度や 振る舞い 考え方が 高潔な人と付き合えば 彼らも強くなります 悪い魂など ありません 全ての魂は良く 皆神から来たものです 頭脳が悪いのです 頭脳という コンピュータは 多くの善悪の事を 状況に応じて 再生します さて人がいつも 良くない環境に 置かれていると 彼はそれ相応の 習慣がつきます 彼の頭脳は そういった 悪い習慣を記録します ですから後になって 同じ状況に置かれたり 多くの事を記録し過ぎ 毎日同じ情報を 再生します そこで人は あの人は 悪い人だと言いますが 本当は習慣が悪いと 言うべきです 魂は悪くありません 習慣の良し悪しは その人がどんな人と 付き合っているかに よります インド人は いつも大修行者を讃え 彼らと接することを 望んでいます 彼らは穏やかで目に 見えないエネルギーを 発し 誰でも彼らに 近づく人の 病を治してくれます サンスクリット語で サットサンガと言って 真理を知っている人 または真理を求める人 完全に真理を分かった 善知識と接する という意味です しかも人々は そういう修行者達は 真理 神と一体であり 無上のパワーと一体で 彼らを一目見るだけで 人生は変ってくると さえ言っています ですので善知識と 接する事は大変重要で いわゆる悪いとか良い 魂など存在しません なぜある人は神に あれだけ奉仕しながら 一度も神を体験した ことがないのですか

彼らは歩きにくい道を 歩いているからです 神はすでに私達に 神と通じ合う道を 教えてくれましたが それを拒否するのです 私達が見せてあげます 私達が皆さんに 見せる道は 神と通じ合う道です もしかしたら他にも 道があるでしょう この道を認めることが できなければ 他で捜してみて下さい どんな道でも神の 音と光を与えることが できれば それは正しい道です これらの体験は 天国の印だからです 私達の内面の 智慧の現れであり 私達を天国の家に 導いてくれます

生活における不安を どう克服しますか 神を認識しないと 多くの事は克服する ことは困難です 不安 だけではありません 以前私はシャイでした 皆 私を知りませんが 友人も作らず 口数も少なかったです いつも一人でいました 今もそうです 話しをして欲しいとか 合って欲しいという 誘いがなければ  ずっと部屋にいるか テントにいます どこにいても 外にでません 遊びに 出かけたりディスコや ショッピングに行く ことはありません とても恥ずかしがり屋 空港で皆と会ってから すぐに行かせて もらえないと 私は不機嫌になります 人と長い時間 会っていると 恥ずかしいからです 一刻も早く消えたい 気持ちです 以前 私は自分が 公衆の前で話す事など 想像もできなかったし 一度も話した事がなく 話し方も分かりません しかし神が私を今の ように変えたのです 神以外は誰もあなたの 不安を取り除くことは できません もしくは私達が 生まれながら持つ 神を見つけ地球を 加護する責務を果たす ことで克服できます これ以外は難しいです

文殊菩薩の剣を 毎日の生活の中で どう応用したらいいか 説明お願いします 文殊菩薩の剣とは 無上の智慧のことです 智慧の剣のことで 仏教の経典に 載っています それは智慧を得ると この世界に対する 全ての執着と束縛と 障碍を断ち切ることが できるという意味です だから智慧を剣に 例えて全てを断ち切る という意味です 実際に剣が存在する のではありません 智慧は全てを断ち切る ことができます よって 二度とこの 世界に縛られません それは一種の例えです 文殊師利とは サンスクリット語で 菩薩という意味です

釈迦牟尼仏の時代  彼は偉大な弟子の 一人でした 彼の名は文殊師利で 全ての障害と 何でも断ち切る剣を 何でも断ち切る剣を 持っています それを智慧の剣と 呼びます 密教を習う人が 女神を崇拝していて タントラを修行 しながら 観音法門を 習うとしたら修行に 影響がでませんか 影響はありません あなたはもうその道を 卒業したと思います 以前は感覚器官を 修行しましたが 今は 魂を修行する番です 高い境界を求めるなら 観音法門しか ありません

この世界には神が どれだけありますか

数え切れないほどです 皆さんを見てください 全員神です ただ 皆は知らないだけです

仏教には四つの説が あります 一つは苦しみで 次は 苦しみの起因です 三つ目は苦しみからの 解脱 四つ目は 救われることと 悟りを開くことです 後に釈迦牟尼仏は 完全開悟するためには まずエゴを 取り除かなければ ならないと 悟ったのです 自我否定です エゴが苦しみの 根源だからです 仏教では なぜエゴを取り除く 必要があるのですか 実際エゴは 人間の各段階において 生存と尊厳を保つのに 重要だと思うのですが

実際仏教は 決して私達が社会で 卑屈になって エゴを断ち切るために 成功をも 切捨てるよう 求めてはいません 実際 エゴは 精神修行や 観察または何かをして 断ち切るものでは ありません 天国と通じ合って 高いレベルのエゴを 味わってこそ これを断ち切れます より良いものを 知っていれば 比較的低いレベルの 物に頼らないはずです エゴを断ち切るとは 苦行をしなさいとか それに似たことを しなさいという事では ありません 何かを するとか 汚れた服を 着て 自分の内面の 高潔をさを表現し エゴがないことを 表す事ではありません エゴがないとは 神の王国に 浸っていて 何かを しますが  何もしてない境地です 病気を治しますが 実は何もしていません 全ては神の意思に 従って行い 自分の功にしません  社会での地位は そのまま保ち続け 同じ仕事をするのです たぶんこれが神の 意志なのでしょう 神がその責任 または仕事を辞めて 神のために 別の事をせよと言えば そうします こういう時エゴを 断ち切ったと言えます しかし個人の尊厳と 社会的地位は 失っていません 依然として 人々から尊敬されます 私達はただ完全に 神に服従し 多くの事をするだけで 自分でも分かりません 自分の功績にしません なぜならその時 私達は 全ては 神がやった事で 宇宙の最高のパワーが やった事で 私達は その一部であることが 分かっているのです これが本当の意味での エゴを断ち切る事です

人は死んでから生まれ 変るのを待つ時は どんな状況ですか

まずは今の生活を ちゃんとすることです あなたの行為が 本当に純粋で 考え方が高尚で 振る舞いが高貴で そしてこの世界に 利益をもたらし 智慧も明白であれば 当然死んでからどこに 行くのか分かります 今でさえ知ることが できます  座る時も座らない時も 天国を知っています 死んでからどこに 行くのかも分かります ついでに言いますと 印心を受けた人は 少なくとも死ぬ 三日前に知らせます ですから死んでどこへ 行くのかも分かります 死ぬ前に身の回りの 責任もしっかり 処理します その時にあなたは 自分の行き先や 何が起きたかを私に 教えるかもしれません さもないと私は今 それを知るよしが ありません 神はまだ 私が三日後に死ぬと 知らせていませんので 分りません 今の生活をちゃんと 面倒みて 生きている 間に自分自身の面倒を みておくと 死ぬ時の ことが分かります 私が答える必要は ありません  なぜなら人によって 状況が違いますし それぞれ行く道も 違うからです 自分の今を見れば 将来は何が待ち受けて いるか分かるはずです 今の生活が 道徳的で清廉で 全てに対し慈悲深く 高等な霊修行を 重んじるのであれば もちろん必ず 天国にいきます 死ぬ時 何も起きません すぐに天国に行きます その反対だと 死神がとっくに あなたの名前を リストに 記入するでしょう 比較的低い所 または 暗い所に行かせる 一人の人が 悟りを開くと本当に その六代の先祖が 恩恵を受けるのですか 詳しくご説明 お願いします 五代も六代も 同じことで それ以上あるかも しれません 強いては友人や 愛する人と同情する人 いずれも利益を受けて 解脱でき 福報を得ます 私はクリスチャンです 私の部屋にイエスの 写真をかけてあります あなたの写真を横に おいてもいいですか

そうしたければどうぞ イエスは嫉妬しないと 思います  彼はきっと大丈夫です 私はすでに洗礼を 受けていますが  印心できますか もちろん 歓迎します なぜ出来ないですか 苦しみには何か価値が ありますか

大変価値があります だから天国に戻る 方法を学び二度と 苦しみたくないと思う 時には 神に加護を受け過ぎて 私達はそれを大事に しません 神の事も 天国に戻る事も 考えなくなります 大半の人は苦しい時 祈り 助けを求めたり

神を思い出します そこで私はこの前 メルボルンで 修行仲間と別れる時に 私を覚えてください 特に問題があった 時にと言ったのです

霊体と肉体が 密着している としたら 生きている間に どんな法門を習えば よいのですか そうです 正しいです いい質問です 私達はどんな物質的な 物も使用しません だから印心の時 一言も言わないのです 一言も言わないのです 印心の前に少し 話すかもしれません それはどのように 座ると楽なのかとか どこに集中すべきか 集中の仕方などの説明 そういうことです しかし印心の時や 自分の自性を思い 起こす手助けする時は 何も話しません いわゆる先生と学生は 両方とも 沈黙のままです しかし沈黙の中で 「道」を得ます いかなる物質的な 方法も使いません 物質的ではありません なぜなら物質的な物で 非物質的なものも 得ることができません  はかないもので 永遠を得られません ですから 体と関係のある 法門は皆 永遠のものでは ありません 印心とは何ですか

あなたが話して下さい 知っているでしょう

マスターが到着される 前にお話したように マスターはガイドで マスターはそこに 行った事があって 私達を高い境界に 連れていきます 何と呼んでもいいです 印心の条件については 外の受付の所に あります 五つの戒律があります

殺生せず 嘘をつかず 邪淫せず 盗まず 体に良くないもの 体に害になるものを 摂らないことです 殺生しないとは もちろん菜食を 含みます もう一つの印心の 条件は毎日二時間半

瞑想することです  時間を分けてできます

いっぺんに 二時間半という 事ではありません 朝一時間やって 昼三十分 夜一時間というふうに 都合に合わせできます これらはただ物質的な 次元のことです

印心とは 時間になって 自分の自性が 肉体より大事であると 認識し 自分の  偉大さをもっと知り たがることを指します 本当にこの地球に おいての 神からの責務を果たす ことを願うのであれば それは内面の 目覚めを意味します ただ物質的に あれやこれやと 戒律を守るだけでは ありません 自分自身が目覚める 時であり  自分は誰なのかを 知る時です これが本当の印心です つまり真摯に天国に ついて知りたがる 時でもあります 印心の条件の一つは 邪淫しないことですが 邪淫の定義は 何でしょうか 例えば妻がいるのに 満足せず 許可を得ずに 隣の奥さんを 分かち合うことです 許可を得ていれば 大丈夫です いい人は皆 天国に行き 悪い人は皆地獄に 落ちるとしたら 善悪半々の人は どこへ行きますか 真ん中に挟まれる こともあれば しばらく地獄にいて しばらくは天国に いるかもしれません 両方で遊びます

真ん中にいたり 人間界に 戻って来ます  彼らは天国にも 地獄にも属して いないからです 人間の基準に合います 人間界に戻って来ては 人間している間に 卒業できていない 科目を引き続き 勉強します

 
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