智慧の言葉
 
生きた経典の導きの下で修行する 第一部/3 一九八八年六月一九日 イーラン フォルモサ(中国語)    Part 1
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私達が自身の内面の体験により 仏陀とは 何か 魔とは何かを 知らないでいると 私達の心はいつも 他人に左右されます

一方が私達を引っ張り もう一方も私達を 引っ張りたいのです

人と議論することは できません なぜなら 釈迦牟尼仏 イエス キリスト老子といった 偉大な修行者でさえ 人々にこれほど 非難されました なら 私達凡人はどうやって 人を味方に付けますか

従って 聖人や 高いレベルの 霊修行者 開悟したマスターは 最も気の毒な人です 最も気の毒な者が 偉大な 霊修行者であり 邪悪ではない者です 人々は過去のこれらの 悪を非難せず 彼らの 時代の人々だけを 叱責します その後はもうないです しかし彼らは偉大な 聖人たちは二、三 五千年後でさえ 中傷します 彼らを涅槃(最高の 天国)で平安にさせて おいてはくれません それで五祖弘忍は 言いました 真理を説く これらの者の命は 常に 危険に晒されていると その仕事は彼ら自身に 利益はありません かつて私のマスターが 講義を行った時 彼に尋ねる者がいて 「なぜ毎回神の話を する人 どんな偉大な 開悟したマスターも 常に神のことを 「彼」と呼ぶのは どうしてですか 」と 男性です

彼は彼女ではなく「なぜ男性なのです なぜ女性が 開悟したマスターに なれないのですか 女性はマスターに なれないのですか」 このような質問も 「女性もマスターに なれますか」 彼はとても慈悲深く 彼女に話しました 思いやりある態度で 「あなたはマスターに ならない方がいいです マスターではない方が それは大変な仕事です それはあまりに困難で 大変な重荷であると 言いました 非常に沢山の圧力に 耐えねばなりません 耐え難い圧力です そういう訳で古代から マスターは常に男性で あったと言いました

男性の身体は 比較的強いからです そして圧力によって 精神も容易に 壊れてしまいがちです 彼らは女性と違い 感情的ではないのです 女性はより繊細です

女性の身体は男性より 強くはありません 弱い訳ではないが 男性より強くはなく ええ毎月生理が 来るからです

女性は多くの血を失い それにより彼らの体は 少し弱くなります その週は身体の状態は 良くなく 情緒も 安定していません 気持ちも良くなく 気分もすぐれない でしょう 時々 動くことさえ できない事もあります そして子供を生んだら 更に問題が もたらされるでしょう 身体は弱くなります また古代女性は 外に出ることも できませんでした 女性は一歩前に出て 二歩下がったりして いました 教理をこのように 広められませんでした 車がなかったので 以前は更に良くなく 彼らは足を縛られて どうやって歩けますか 彼らの足は とても小さく 一歩前に出ては 三歩下がり まるで宮殿を歩く 少女のようでした 良くご存じでしょう もちろん 彼らは教理を 広められませんでした 従って 古代以来 ほんの わずかな女性が出かけ 教理を広めました 今とは異なる時代です 今は多くの薬品で 身体の強壮を助ける ことができます または車があり 飛行機があり女性も 容易に出かけて行けて 教理を広められます 彼女らの足は現代は 縛られてもいません これくらい小さく 縛られてはいません 現代の女性は 教理を広められます でも今日全てが 便利であっても 私のマスターは私に マスターにならない よう説得を試みました なぜならあまりに 多すぎる責務と職務  プレッシャーの ためにです 耐え難いものです ちょうど話したように 古代以来 偉大な聖人たちは 最も非難され 最も攻撃され 最も殺されてきました 彼らの話を読むと 分かるように一人も 非難に耐えなかった マスターはいません 刺客を送られなかった マスターは 一人もいません ある者は処刑され ある者は殺されました ある者は刺客を 送られました

釈迦牟尼仏に 刺客を送った 者がいましたが 成功しませんでした 彼の片足を捕まえる者 不正に彼を訴える者 彼にケガを負わせる 者がいましたが 彼を殺せませんでした 六祖慧能も同様に 刺客を 送られました イエス キリストは 逮捕されました

孔子は六つの国から 非難され 認められませんでした 受け入れを拒否し 追い払ったのです 老子は弟子を持たず 殆どいませんでした そういう理由で 開悟したマスターは 見つけられません 見つけるのは困難です 隠れてしまいますから 公に教えたとしても 同様に隠れねばならず 彼らが公の場にいる 時はオープンですが 戻って来た時彼らは 隠れます あなたは 彼を見つけられません

彼の弟子で 彼と親しくして いなければです 側近の弟子だけが 彼を見つけられます 凡人もやはり 見彼をつけられません いったん法門を 伝えたら彼は私達を きつく縛りつけません 彼は私達に毎日 会うことはありません 彼は私達からの 贈り物 崇拝 追従も 望んではいません 何もです 私達は走って 彼を探すべきです なかなか会えません 開悟したマスターが いても 見つけるのは 難しいのです 物事はそうなって いるからです 解放出来ないからです

開放でありそうでない 彼の寺院は閉じてます 彼は誰でも歓迎して 開けたりしません そうしても 通常の 寺院ほど 開放しては いないのです

誰でも行きたい時に 行ける訳でなく  拝んでは出るのです 彼らは簡単に 出入りできません 彼らに会いに来る時は 理由がいります あなたは心から道を 求めるべきでそれで 彼は受け入れます ほとんどの寺院と違い すぐにあなたは入れて 膝まづいてから出て 行くのではありません 簡単ではないのです 開悟したマスターを 見つけたいなら 放送される宣伝に 頼ることはできず 自身の福報に 頼るべきです 私達に 恩恵が 十分な福報が ある限りは たとえ 彼らが宣伝しても 私達は来ません 私達の時間がまだ来て いなく 私達の福報が まだ十分でなければ 宣伝したところで 私達は行きません 私達は彼を認識する ことはなく隣に住んで いてさえもです これらの理由のために 古代以来 開悟した マスターを見つける ことは困難なのです 今私はここで結果を 出せたと思います 私達の観音法門 修行者にとって 修行すればするほど 楽しみが増し更に 以前にはなかった 信じられない体験を 得るようになります そうですね (はい) 経典は単に他の人々の 信じられないような 体験の記述でしか ありません 私達自身にこのような 体験がないなら 私達はその幸福を 理解できません その喜び 恍惚感を 理解できません 私達がおとぎ話の 物語を読んだり 古代の経典を 読んだ時 それは単に物語であり 娯楽で 真実ではないと 思っていました 極楽浄土は単に 誰かが描いた 絵画の中のことだと 人がその事を話しても 真実ではないと でも観音法門を 修行した後 私達は どんな経典の中の 全ての体験は 真実だと知ります 誰もが真実です 私達は経典の記録を ただ体験するのでは ありません その境界を超越します なぜなら 聖書に書かれた事を 体験するのは高い 境界ではありません 高いレベルのものは 話せないどころか 書き記せません 菩提達磨は経典を 唱えるのは無意味だと 言っていました 高いレベルの時は 「言語に絶する」のです ただ体験できるだけで 書き記せません まだ観音法門の 修行を始めた ばかりの人々は 印心を受けた後 彼らは私に手紙を書き 体験を報告したり この体験のレベルの 高低を 真偽を 尋ねますが 修行をしばらくした 後ではもう何も言う ことはなくなります もはや表現できなく なってしまうからです 彼らはマスターを見に 来てそして言います 「マスター ああ」

彼らは表現できません あなたが尋ねても 彼らは説明不可能です 私はあえて聞きません 彼らは既に酔いしれて しまっています 何も言う必要はなく その時が 経典を読んだり 子供のお伽話を読んだ ようななものなのです 私達はそのレベルを 既に超越しています 説明 記録できるものは 高いレベルからでは ないからです それで多くの人々が 観音法門の修行により 極楽浄土へ行く事が できるかと尋ねますが 私は問題ありませんと 答えます ただあなたがそこに 居たくない事が残念で 観音法門を 修行した後私達は それを超越します 私達には極楽浄土は 大した事ではないと 考えるようになります これは単に一人の人の 体験であり執着に 過ぎないのです 彼は極楽浄土に 執着をし その時彼はそこに 留まりたく思いました それで彼は 釈迦牟尼仏に 死後 彼はそのような 美しい場所に行って 住めるか尋ねたのです 釈迦牟尼仏は彼に 「はい」と言いました あなたがこの場所を 思い描くなら今日 見えることでしょう 場所を思い描くのです あなたが阿弥陀如来を 見るなら彼の名を 復唱せねばならず 彼の場所を内省します これを毎日死ぬまで やればもちろん そこへ行きます しかし 私達 観音法門の修行者には 私はその体験を気に しないように言います 極楽浄土を見るのは 良いことです でも見れなくても いいでしょう 後にあなたは更に高い 境界へ行くのです 極楽浄土は単に 宇宙の片隅に すぎません

多くの事がまだ東方に 南方に 北方に 上方 下方の境界が あるのですから なぜ私達は西方に 執着するのですかか あなたが西方に 行きたいならいいです 問題ありません しかし行き方をやはり 知る必要があります あなたはここに座り 阿弥陀如来の名を 復唱するだけでは 行けません お金を稼ぎたいなら 家でお金の事を考える 代わりに稼ぎ方を知る 必要があるでしょう 観音法門は とても柔軟です あなたが西方へ 行きたいならあなたを そこへ連れて行き 東方へ行きたいなら そこへ連れて行き 北方へ行きたいなら そこへ連れて行って くれるのです どこでも行きたい所へ 連れて行きます あなたが老子を 訪ねたいなら彼に 会いに連れて行きます あなたが孔子に 会いたいなら彼の元へ 連れて行きます あなたが濟公活仏に 会いたいなら彼に 会いにそこにも同様に 連れて行きます これは彼らが異なる 場所にいるからです

彼らは全て高い境界に 住んでいます どこであれ私達が望む 場所へ観音法門は 私達を導きそこへ 連れて行きます この法門なしでは 残念ですが私達は 西方へ行けません これら観音法門を 修行した者は 恐らく彼らは 極楽浄土はそれほど 好きではなくなります 更に多くのもっと 壮麗で美しくもっと 自由で高い世界が 沢山あるからです 拍手する人々が いますね たぶん彼らは知ってて 極楽浄土より高い レベルにいった者も います ええ 八功德水と鳥が歌う 場所に到達することに 何の意味があると いうのでしょうか

それは些細なことで 私達の心はとても狭く 全て欲望だけですか 宇宙全体を 見に行くべきであり 宇宙全体を私達の 家にするのです どこでも私達は望む 場所へ行けるのです 宇宙の片隅に執着 しない方が良いことと 思うのです 私達は他者が言うより 良い法門を聞けますし 私達は公然とそれらを 中傷し言えます 「極楽浄土だけが 最高だ」と あなたが望むなら そこへ行けます でも観音法門を修行 する必要があります この法門だけが安全に そこへ連れて行きます でなければあなたは 東方へも行けません

マスターどのように 観音法門を私達に伝達 頂くか教えて下さい それは法門ではなく パワー 力が 伝達されるのです 印心の意味は 以心伝心のパワーの ようなものです しかし心は本当の 心ではないです 私達の言語には 本当に限界があり それで私は「法門」 「心」と言うのです 私が法門を伝達する その時私は  言語を使いません 今それはできません なぜなら多くの説明を 言語を使ってあなたに 科学的に理由を言い 理解をさせねば なりませんから そしてあなたは道を 求めたいと思います その時だけあなたに 道が伝達されます その道の伝授の過程は 語れるものではなく 私は静かで あなたも静かなのです 双方が静けさの中で それは得られるのです 法門がないから 何も得られない という訳でなく あなたは何かを 得るはずです さもなければ どんな 法門が得られますか どんな道に 達するのでしょうか 法門はありますが 話すことの出来ない 法門なので 何も話すことが ないのです 私がパワーを伝法した 後で あなたは 質問できるのです

あなたは尋ねられます 「マスター私は印心を 受けたばかりですが 私の到達したレベルは 何を意味しますか」と その時あなたは本当に よい質問ができます 観音法門を伝達する時 あなたは幾つかの 宇宙の秘密や 少しの開悟の味わいを 得られると 私は教えられます あなたは経典に 記載された体験を 理解するでしょう 例えば梵音や海潮音が 何を意味するか 分るのです 八百眼根功徳とは何か 八百耳根功徳とは 何かを理解します

天国や地獄を見て どんなかを理解し 佛光普照とは 何かを理解するのです 私達はそれらのものを 見たり 聞いたり できますが 説明する方法が ありません

マスター彼の質問です 子供達が観音法門を 修行するとすれば 将来 子供達が戒律を 守り続けられるか 心配です 子供達が観音法門を 修めることについて どうお考えですか 子供の親が 印心していれば 六歳から 修行できます 親か親戚が観音法門を 修行していなければ 子供は十六歳まで 待たねばなりません たとえ親が観音法門を 修行していても 二つの異なる 種類があります 彼らは六歳の時に 半印心を受けられ そして十二歳になって 完全な印心を 受けられます 親や親戚が観音法門を 修行していなければ 十六歳まで待つのです

マスター彼の質問です 応無所住而生其心 (応に住する所無くして 其の心を生ず) とは どんな意味ですか 金剛経で言及された 一つの境界です あなたが印心を受けて 修行すれば 私もあなたに 応無所住而生其心を 応無所住而生其心を 教えます しかし今  私があなたに話しても 意味がありません 印心の時に 私が説明してこそ あなたは理解します それでやはり印心を 受ける必要があります 講演の時も 私は 法門を伝法してますが

一目だけで 印心を受けられる人は とても稀です ここに  そんな人はいますか 悟りを開き 境界を得て 仏菩薩を見たりした 人はいますか 龍神護法や光を見たり 私の姿が消えたりなど いません 大変稀です ある人達は三日目に やっと少しの 体験があります 例えば 私に光があり ここに多くの仏菩薩や 龍神護法がいて ここの至る所に光が 満ちているのを見ます それらは一種の 小さな開悟の体験です つまり私達がこの世の 普通の視野を 超えたということです 私達はこの世を超えた 見方ができます それが いわゆる 開悟です 講義を聞いている時 あなたは開悟の体験を 少し経験するのです しかし末法の時代には 悟りを得る人々は とても少ないです この質問は彼はかつて 寺で戒律を受けた事が あると言っていますが 彼は観音法門を 修行できますか これは菩薩の戒律に 反しますか なぜ どんな戒律に 違反になるのですか 菩薩の戒律を 受けるとは つまり菩薩の道を 歩むと決心し 菩薩になることでは ありせんか 観音法門とは 観音菩薩の法門です なぜ修行できないか どうして戒律に 反するでしょうか 皆さんは私について 修行しても 菩薩の戒律を 受ける必要があります それでこそ観音法門を 修行できるのです 修行し その上 戒律を守ることです

観音法門を修行せず 戒律だけ守っても 役立ちません 戒律を守る目的は 修行することです 仮に私について 観音法門を 修行するなら 私は先ずあなたに 戒律を守るようにさせ それから伝法します ですから戒律も 私達の法門の一部です しかし今日 ほとんどの人が この法門を知らず 伝法なくして ただ 戒律を教えるだけです 戒律 瞑想 智慧が なければなりません 彼は戒律だけを教え 瞑想と智慧は 教えませんので 二つの事が 欠けています

私は戒律 瞑想と 智慧を教えますから それは完全なのです あなたが既に菩薩の 戒律を守っているなら 私はもうそれらを 教える必要がなく 私は瞑想と智慧を あなたに教えます そうすればあなたは 完璧な法門を手に入れ 何にも違反しません ですから菩薩の戒律を 守っても 開悟しないことが はっきり分りますね マスターが先ほど 言及された 菩提達磨の話ですが  教外別伝の他には 他の方法は全くないと 彼は言いました ではいわゆる 直指人心見性成仏とは どのような法門に 属するのですか どうやって修めますか それはまた  観音法門にも属します 印心の時に あなたはそれをいかに 修行するか分ります 菩提達磨の言った 教外別伝の教えとは つまり 境界や道(タオ) とか 仏性は経典を読んでも 得られない という意味です 開悟したマスターが 私達に教えるべきで ただ経典を読むだけ ではないのです それは経典の他に 与えられていました それゆえに 教外別伝と言うのです 法門は教理でなく 法門は経典の中には 書かれていませんので 教外別伝なのです それで私も言うことは 何もないと言いました 観音法門について 先程 皆さんが質問し でも私は話せません 私は伝えられるだけで 伝法の時には 私は一言も話しません 私達の双方は静かに 座ってるだけで突然に 悟りが得られます 何も言う事がないです 今私は沢山話しますが 開悟する人はいません 後ほど 私が話さない時 ある人は開悟します だからこそ 「教外別伝」と言い 「応無所住」 と言うのです それは私達が 経典に書かれた事に 執着することで 開悟するという ことではなく 外在の仏陀や 寺院の形象に執着して 悟りを得られるという ことでもありません だからこそ 「応無所住而生其心」 と言うのです マスター 彼は 人間が仏陀であれば 仏陀がどこにいるかと 尋ねています

彼自身が仏陀であれば 仏陀がどこにいるか 仏陀は彼の心にいます 私達には仏陀がいるが 見つけられないだけでそういうことです 例えば 私達の体に 血液があるのを知り 誰も血液がありますね それを知っていますが 見ることができません 知るのは簡単です 小さく切ったり または注射器を 用いて すこし抜き取ったら 中に血液があるのが 分かりますが それを  見ることはできません 私達が若過ぎるなら 人々はそれについて 説明しても 私達は血液システムを 理解できません 私達は退屈になると 聞きたくないのです しかし 私達が成長し 病気になった時 医師は あなたの 血液が良くない 輸血が 必要だと言いながら 私達にやり方を示し 彼らが私達の血液を 取り出して 私達に見せます その時 私達は 興味を持つでしょう 血液は私達の中にあり でもそれを取り出す 方法を知らないので 見ることができません 私達がすでに 持っている仏性も 同様です 仏性は それ自体を何にでも 変える 全能のパワーであり 神のパワーであり 他に勝るものがない 完全な悟りであり そして偉大なる道です それが開いていない 扉が開いていないので 私達は認識しません 開悟したマスターが 助けられるなら 毎日それを使用でき 毎日それを見られます それを見ることができ ませんが それを見る それを聞くことができ ませんが それを聞く それを触ることができ あせんが それを触る それは話せるものは 道ではない という理由です それを得て 経験できますが 説明ができないのです

法華経で言及している 印心と予言に関する 類似点と 相違点は 何でしょうか それらは違います 印心は 法門を得る時という 意味で あなたの本性を 見つける時です あなたの仏性を 見る時です それが印心です 予言は釈迦牟尼仏が 彼の弟子に 彼らがいつ 仏陀になるか そして  これこれの国で 教理を広げると と言った時のことで それが予言です マスター 彼は観音法門について 何が最も重要な ことかを尋ねています

観音法門を 修行する特徴は いわゆる法門は ないけれど この法門を得たら すぐに 悟りが開けます ですから この方法は 即座の法門と呼びます 次に 私達は 最も貴重な全能の パワーを入手できます それは 最も重要なものです それであなたが 修行したいと思うなら 自分の体 発言と 思考を浄化すべきです あなたは 菩薩の戒律を 守るべきです 菩薩の戒律の中に 関して 最も重要なのが 衆生の肉を 食べない その命を奪わないこと 最も重要なことは 殺生しない 盗まない 邪淫しない嘘をつかず 飲酒しないことです 他のことは それほど重要ではない それであなたは毎日 2時間半 瞑想すべきです 分けて完成する ことも出来ます これらが 観音法門のための 必要条件です でもそれを話すのは 無意味です あなたがそれをする時 意味があるでしょう この方法が 説明できません それを話すことは 退屈に感じます

マスター この人は あなたと勉強した ことはありませんが  即刻開悟の鍵の 一冊目を 読んだ後 彼の前に 現れたマスターの姿を 見ました なぜそれが起きますか それはあなたが悟りを 開いたという意味です それが即座の悟りと 呼ぶ理由です

あなたが他の経典を 読む時他のマスターの 姿を見ないからです そうでしょう あなたは  即刻開悟の鍵という 本を読んだら あなたはすぐ 化身マスターを 見たのです 悟りを開いた後だけ 見ることが出来ます これは普通の 茶飯事ではありません それはあなたが悟りを 開き そして 現世を超えた経験が あったという意味です それが悟りを開くと 呼ばれる理由です あなたが一冊の本を 読んで 開悟を 得たのです それは本当の即座の 法門という意味です だから 即刻開悟と いう本の名前は本当で 偽りではないのです

そうですね おめでとうございます しかしあなたも観音 法門を学ぶべきです ただマスターの姿を 見るだけでは不十分 学ぶものは 沢山あります 私はマスターと話す 夢をみました それは霊修の 体験の一種ですか 肉体のマスターは それが分かりますか はい それは 体験の一種です それもマスターの化身です あなたに何かを教える ように来たのです それも 即刻開悟です それで本を読むことも 悟りをもたらせます ですから 「即刻開悟」という のは正しいのです 多くの人々が 類似した体験をします 彼らは私の本を読む ことで体験します 六祖慧能は かつて言いました 「いったん智慧の 明るい太陽がこの 世界で輝くなら 生死に関わるすべての 雲を一掃する」と マスター何が「智慧の 明るい太陽」なのか ご説明頂けますか これは例示か霊的な 境界の中の一つですか それはとても簡単です 「智慧の明るい太陽が この世界で輝く」とは 私達が悟りを 開いた時を表します 智慧を得て そして智慧が 開かれます 従って 私がその本の中で 智慧と智慧眼を開く 事は同じであると 説明しました つまり法眼です

智慧が開くとき それは太陽が出る時と 類似しています それは暗雲のように 汚くて暗い どんな 場所でも破壊します 暗雲は 世界を覆っています それは時間のように 私達の悪いカルマ (報い) と無明が 私達のビジョンや 智慧を覆っていた時の ことです 悟りを開いたとき それは太陽が出て 暗雲を破壊する 時のように 生死の雲や 無明の雲を 破壊することです ですからつまり 悟りを開く時 仏光が私達に輝くとき 私達を照らしている 太陽のようなのです それは私達の無明と 生死の輪廻の 輪を破壊します それは暗雲を破壊する太陽のようです

地球温暖化を危惧し また人類と全ての 生物の生命を守るため 今すぐ行動する 差し迫った必要性に 駆られてスプリーム マスターチンハイ 国際団体メンバーは 気候変動に関する 会議を開催しました 題して 「美しい地球への 解決策」

スプリームマスター テレビジョン 今週の日曜日 九月二十七日の 智慧の言葉にて ビデオ会議 「美しい地球への 解決策」第一部を ぜひご覧下さい タイ ノンタブリー県にて 二〇〇九年八月十五日

本日のスプリーム マスターテレビジョン 智慧の言葉にて ビデオ会議 「美しい地球のための 解決策」第一部を ぜひご覧下さい
マスターお元気ですか あなたの講義を聞く ことは福報です 彼はこれまで 霊修行をあまりよく しなかったと感じます この福報がどこから 来るか分かりません 私の講義を聞くために ここに来ることの 福報はあなたが 世々代々得た福報 前世からの 福報から来ています 今生での 福報ではありません でも恐らくあなたは この人生でも何か 良い事をしましたが それを知らないだけで 例えば 私は 三十なん歳ですが 三十歳前にここには 来ませんでした たぶん以前他の世界で あなたに会ったか 他の国であなたが 私にカップ一杯の水を 与えてくれたか

私のために道を少し 片づけてくれたか 道を見つける手伝いか 運転してくれたか そんな小さな事など それは今日の 縁に変わります そういうわけで あなたは聞きに来ます 一生懸命修行する事に よって福報を 得る必要はありません ある霊修行者に 会って 彼を一目 見ることによって 私達の福報は 何百万劫も修行する 利益より多くの 福報を得られます 仏陀 山 海を崇拝し 寺院を建築することで または三宝に 供養することによって 福報を得られるだけ というのは 本当でありません そうとは限りません

最大の福報は 生きている悟った マスターに会う事です 釈迦牟尼仏は 仏陀に 会うことは簡単でない と言いました それは最大の福報と 加護を得るものです 他の福報はないに 等しいほど小さいです それらは無用なだけで なく この俗世界に 私達を縛っています さらに悪いです 名前 名声 富のような ものは 私にとっての 福報でありません それらは私をここへ 縛るので 私への悪い カルマ(報い)です 美しい妻や 素敵な夫 大きな家や 巨大な宮殿などは 私達を縛るものです 私にとって それらは 福報でなく 悪い カルマ(報い)です 従ってそれが福報か どうかは 人がどう 見るかによります マスター 人が往生した後に 完全に宇宙から 姿を消すことは 可能ですか 可能であれば どう すれば達成できますか

あなたが消えたら 何も残っていません 私達は消えません 往生した後 何も消えません 簡単ではありません 簡単なら 観音法門を修行する 必要はありません 仏陀を崇拝する 必要はありません 何も必要としません 自分がしたいことは 何でも出来ます 殺生 飲酒 喫煙や盗み   邪淫をすることなど 私達が往生した後 全てが消えるためです

いいえ誰も消えません 私達を待っている天国 そして待っている 地獄があります 私達は来世で 人間として 生まれ変わります あるいは 来世は動物 として生まれ変ります 私達を待ってる沢山の 異なる世界があります 私達が姿を消すのは 簡単ではありません あなたが 将来の因果から 解脱したければ 観音法門を 修行すべきです けれども観音法門を 修行することは あなたが姿を消す という意味ではなく すべてが消えるという 意味ではありません そうではありません しかし私達はより高い 世界に行けます 観音法門を 修行することによって  至福の世界に行けます それらの世界は私達の 世界と比べられません 私達は消えません ですから 私達の世界の物体には 形態と形があり それらに触れられます この妻と夫を 見ることが出来ます その老人や老婦人を 見ることが出来ます ゆえにこの世界に 姿と形があると言い 「消える」というのは 形態または形のない 他の世界へ 行くということです しかしそれは 何も感じない 何も知らない 智慧がない 生がない 訳ではありません 私達にはあります でもそれはここにある 粗雑な人生とは 異なります ですから私達は 自由となり 消えると言うのです 消えるのは何も残らぬ 訳ではありません 私達が何も感じず すべてを諦めるという 意味ではありません そうではないのです 私達はこのように 「お金を失い」ません

そうだとすると 「お金を失って」います 良い商売ではないです マスター 在家者として修行を するのと 僧として 修行をするのとでは 違いはありますか 両方の違いは何ですか

何の違いもありません 同じマスターの下で 同じ法門を 修行していれば 何の違いもありません 違いがあるかも しれませんが それはそれぞれの 状況の違いに よるものです 例えば釈迦牟尼仏が 存命の時 彼の出家弟子の中には 阿羅漢のレベルに 達した人もいれば 菩薩のレベルに達した 人もいます 釈迦の在家の弟子の 中にも阿羅漢の レベルに達した人も いれば 同じく在家の 弟子で菩薩のレベルに 達した人もいます 同じです しかし釈迦について 学んでいない人は 何も得ていません

ましてや在家で 釈迦について学んで いない人は論ずる 余地もありません ですから問題は 出家するとかしない ことではありません 重要なのはどんな マスターについて どんな法門を習って いるかということです

広欽老和尚は 十人の出家者のうち 九人は間違っていると 言っています どういう意味か それは悟りを開いた マスターなしに 出家するのは可哀相だ という意味です 意味のない生活を 送るという意味です 正直に言います 悪いカルマ(報い)を 集めるだけです なぜなら 修行の功徳はないのに 人々から供養を もらうからです その悪いカルマ (報い)は消化できず 供養した人も 供養した人も 何の福報もありません 釈迦牟尼仏ははっきり 言っています  私ではありません 釈迦は言いました 供養する人は 純粋で純潔であって 始めて 供養を受けた人は 悪いカルマ (報い)を 受けないと 供養を受ける人も 本当に純粋で 純潔であって始めて 相手に 福報をもたらすことが できるのです 彼はそう言いましたね 勝手に供養し気軽に 供養を受けていいと いう訳ではありません

盂蘭盆経には 釈迦について学ぶ 阿羅漢 聖人達は 夏のリトリート後 供養を受ける 供養を受ける パワーが備わり 供養を受けた 悪いカルマ(報い)を 消化でき 亡霊も超昇できると 書いてあります 出家者であれば 誰でも供養すると 亡霊が超昇する 訳ではありません ですから 釈迦が在世の時 彼の出家弟子の中には 釈迦の目の前で 地獄に落ちた人も 少なくありません 釈迦が説法している 最中に聞かずその場を 立ち去ったのです

五千人もの人が 去っていきました ですから出家者と 在家の人は 何の違いもありません 良きマスターと 良きマスターと よい法門さえあれば 出家しても 在家でも 何の違いもありません マスター あなたが言った悟りを 開くとは無形のものが 見えるという事ですか それだと陰陽の いずれも見える人は 開悟したのですか 開悟していません どんな境界を 見たかによります 多くの人はお化けを 見ています これは 開悟ではありません 「開門」です 地獄の 門を開いたのです お化けを見て 何になりますか なぜお化けをそんなに 見たがるのですか 仏陀を見て 仏陀の光や 仏陀の音を聴いて 始めて開悟したと 言えるのです ただ偽の仏陀の音と 本当の仏陀の音 偽の仏陀の光と 本当の光があります 偽の仏陀の光 偽者の仏陀 偽者の境界 偽の仏陀の声があり 人を困惑させ 何が何だか分別できない事もあります 境界を見た後も 何も覚えていません 自分が何を 言ったか 何をしたか 戻った後も何も 分かりません 

それは 開悟ではなく 魔に 取り付かれています 自分が何をしたか 何を言ったかも 分からないからです これは開悟ではなく 開悟した人は 自分が言った一言一言 はっきり覚えていて 天国で見た事が 正確にわかります 見た後 戻って来て  次の日も同じ境界に 行って見れます これが開悟であって 今日ある種の光を 見たとすると 翌日 翌々日 数日後に まったく同じ光を 見ることが出来ます 暫く経つとその光を 超えることが出来ます これが本当の開悟です 今日仏陀の声を 聞いたとすると 次の日も同じ声を 聞くことができます 翌々日 数日後にも 聞くことができます 一定期間 修行してから その境界を通り抜けて 違った声を聞きます これが本当の開悟です 無形のものを 見たからといって 開悟したとは 限りません 無形のものは 沢山あります 昆虫や蛾を見て 開悟したなんてことは ありえません それらは虫眼鏡で 見ることも できます  それは開悟ではない 偽りの境界や 偽りの仏陀 偽りの光を見ると 精神状態に 影響を及ぼされ 体の具合も悪くなり 生活も不調になります 本当の仏陀や 仏陀の光を見て 本当の仏陀の声を 聞くと とても気持ちがよく 頭もはっきりして 智慧もますます 大きく開きます 本者と偽者は 違います 自分のレベルは自身の 体験で測定できます 開悟は修行者にとって どんな意味が ありますか ご自身が開悟すると 分かるでしょう

マスター人間の本性は 善と悪とどっちですか または非善 非悪で 善悪を超えるべきか 全てです 全てを含みます 善悪 非善 非悪 善悪を  超える全てを含みます 言葉で説明することは 難しいです 修行して分かる事です さもないと 論じれば論じるほど 良くありません これについて知れば 知るほどよくないです なぜならただその事を 知っていて 何の 体験もないからです クッキーの名前を 繰り返すのと同じです マスター 人間は魂がありますか あるとしたら  なぜ見えないのですか 人は 見えるものと 見えない物があります 例えば空気は 見ることが出来ません しかしそれは存在し しかも大事なものです 空気は最も重要です そうではありませんか 私達は水がなくても 一日 二日 三日 四日も生きられます 食べ物がなくても 服がなくても 暫くは生きられます しかし空気がないと すぐに死にます そうではありませんか 空気は形もないし 姿もありません それを掴むことも 見ることもできません しかしとても重要です 魂も同じです そうでなければ 死んだら 体や 目や耳が あるのにどうして 動けないのですか どこにいるのでしょう

これは 私達にはもう一つの体 つまり魂 本人または 本性 仏性がある ことを意味します 私達はこの体ではなく これはただの道具です 車と同じで 車と運転手は違います この二つが一緒に ついていても違いです 運転手が車の中で 車を動かしますが 彼は車ではありません 彼はいつでも車を 離れられます 鍵を 忘れた場合を除いてそれはちょうど 今の私達の状況で 魔に閉じ込められて いる状態です 全てのドアは閉められ 私達は中にいます 外に出られません 死ぬと出られますが これは役に立ちません どこに行ったらいいか まったく分かりません これについて一度も 習ったことがないし 別の境界を見たことも ないからです ですから私達は修行 しなければなりません 先ず宇宙には どういう 境界があるか 宇宙のどこに 何があるか どの国は行っても いいのかを知る事です そして死んだらそこへ 行くことができます こうすると安全です マスター なぜ人は死んだら 消滅するのではなく 引き続き輪廻しますか なぜ多くの悪い人が この世界で絶えず 悪いカルマ(報い)を 造るのですか 平和な世の中は あるのでしょうか 私が言ったように この世は魔の世界で 私達の家ではないです 平和を求めるとしたら 別の世界 つまり安全な 世界に行くべきです 地球上も同じです 地球上には多くの 国があり 比較的安全な国と 安全でない国があり 戦争をしている国や 自然災害のある 国があります

そこは安全でないし 住めません 安全を求めるとしたら 別の世界 別の国を 見つけて住むことです しかしそこに行くには お金が必要です 能力のある人 ガイドやそこに連れて 行くことを保証できる 人が必要です むやみに出ていく ことはいけません  同様に宇宙には  小さな地球だけが存在 しているのではなく 多くの世界があって そこに避難できます そこを知っている人は 戻って来て私達を そこに案内できます その人について行くと 安全です その人を マスターとか案内者 先生と呼んだりします 彼らは同じで この仕事ができます マスター  私の母は 三十年以上も 菜食していますが 今八十歳過ぎています 彼女は長い間病気で 体が弱いですが 印心を受けると よくなりますか 体が虚弱な人は 印心を受けられますか 第一 八十過ぎの人は その子供が印心を 受けていない限り 自分の子供が 印心を受けていないと 印心できません 自分でしっかり 修行する事ができなし   助けが必要だからです 彼女の仏性がはっきり していないという ことではなく 頭が はっきりしないのです また病気を治すために 印心すべきでは ありません 病気のためでは ありません 年を取った人は もちろん病気をします 病気を治すつもりで 観音法門を習いに 来るのは 止めて下さい 何故なら 生まれて 年を取り 病気になり 死ぬのは 極自然だからです 私達は生死からの 解脱を求め 戻ってきて病気する ような事が永遠にない ようにするためです 儚く短い間の体の病を 治すためではないです 今日病気にかかり 明日も病気になります 今日治っても 明日また病気になり 今年治ったとしても 今年治ったとしても 来年また 来年又病気になります 病気を治すために 修行するとしたら 道に合致しません よっぽど  病気を治す人の所へ 行った方が いいと思います 私は観音法門を 習うと 病気が治るとは 約束していません 私は決して 神通力で病気を 治すとは言ってません 病気は医者に 見てもらうべきです

神通力で病気を 治したければ呪文を 唱える魔術師を 捜すべきです 私は約束できませんし 騙すこともできません 私はただ永遠に解脱 させる事しかしません 病気を治すことも しませんし治そうとも 思いません 病気は 悪いカルマ(報い)で 病気することで 悪いカルマ(報い)を 支払うことになります だから病気はいい事 マスター 金剛経には 全ての形は皆 幻想だとあります  マスターは光を見て 境界を見ることは 悟りを開いたと 言いましたが この二つは 矛盾しませんか 何が矛盾ですか 私が言った光は電球の 光ではありません 幻想とは 消滅することがあり 時にはあり時には 消えるものを指します それが幻想です しかし仏陀の光は 永遠に存在します 今日それを得ていれば 明日も明後日も それを得る事がきます 破壊できるものは 永遠に存在しません ですので幻想ではなく 本物の境界です この世界は幻想です 全てのものには 生があり 死がありで 今日あったものが 明日にはなくなります これが幻想です 釈迦牟尼仏が説いた 金剛経は この世界についての 話です この世界には 生死があり 形もあって いずれも 幻想だと言っています 今日あったものが 今日あったものが 明日にはなくなり とてもはかないのです 釈迦は私達に仏陀の 世界 永遠の世界を 見つけるよう教えて います 永遠の世界の 光は日光ではなく 電球から発する 光でもありません それは私達自身の 光なのです それは仏陀の光で その境界を 得たことは 仏性を得たことであり 仏土を 得たことになります 仏土は 幻想ではありません 永遠のものです その光は物質に よるものではなく 今日あって明日はない ものではありません 永遠に存在します それらの境界も 永遠のものです 永遠に生まれず死なず 汚れない清潔なもので 生成され 維持され 崩壊されて消える  ものではありません 幻想ではありません 私達こそ幻想なのです

マスター 仏陀と衆生はどっちが 先にあったのですか

全ては心が 造ったものです 心はどこから 来たのでしょうか 本々は心など なかったです 本来はよくバランスの 取れたエネルギーです それが退屈になって 動き始めて 様々な形のものに 変わりました これを 私達は衆生と呼びます ですから仏陀が先で 衆生は後から あったと言えます しかし釈迦は 衆生がなければ 仏陀も存在しないと 言っています どうしますか これは公案にして皆に 考えてもらいたいです 私は公案が 好きではありません これを 超越すべきです 境界や葛藤の世界 弁論の境地を超越して 自由自適になるのです 公案を解きたくはなく 皆さんが望めば 自分で解いて下さい 率直に言って たとえ仏陀が先に あったとしても私は それを問題にしません たとえ仏陀が衆生より 先にあったとしても お茶を飲みにいきます 何の差し支えも 関係もなく 重要でもありません 仏陀が先に あってもよく 衆生が先でも よいのです 両方が張り合うのは 彼らの間の問題です 彼はまたこんな質問を しています 衆生は 仏陀になってから この世に戻ってくる 過程において困惑し 再び道に迷うような ことはありませんか あります さもないと 娑婆世界の衆生とは 言えないのです

必ずここに来て先ずは 道に迷わなければ なりません それから修行して 再び開悟します 話によると 釈迦は兜率天から 降りてきて世々代々 すでに仏陀に なっているとの事です それでも彼が この世界に戻った時は やはり無明でした 彼は三十年間も 無明でした ただ食べて飲んで 享受するばかりで 何一つ良い事をせず それである日 彼は この世の無常を 目の当たりに したのです つまり 生老病死を見て 彼は悟ったのです すぐに マスターを見つけ 六年間苦行した後 マスターを見つけ 道を得たのです これはたとえ 仏陀でも この世に戻ってくると 普通の衆生と 同じだという意味です イエスは 神の一人子です それでもこの世界に 来た時 十数年間も 苦労して修行し 最後に開悟したのです ですから 仏陀がここにきても 普通の衆生と同じです 彼は慈悲深いがために ここに来て 衆生の友になり 衆生と同じ感覚を持ち 凡夫の服を着て 凡夫と同じように 頭脳を使い 凡夫と同じ 物を食べて 同じ事をします いずれも衆生のことを 理解するためです なぜなら仏陀の レベルは高すぎて 私達の気持ちが 分りません そこで先ず人間になり 私達の状況や 考え方を理解せねば ならないのです そうして始めて私達に 話す事ができるのです 彼は彼で私達は私達だ とするとどうやって 通じ合うのですか ですから先ずは 無明にならなければ ならないのです 無明でない人で あってもそうです

無明になるのは 衆生の気持ちを 理解するためです マスター 人間は 天が創造したのですか (はい) そうだとすると なぜそれらの聖人達を この世界ができる前に 天にいさせないで この世界に来て沢山の カルマ(悪い報い)を 作るように したのですか  なぜこの世界を 何もない 空の状態にして おかないのですか それでは 面白くないからです ある人は 天国が好きだし ある人は地獄が好きで またある人は仏陀の 国が好きで ある人は この世界が好きです

この世界を見ると 分かるように 例えば 今日私の経の講義を 聞きに来た人の中で どれだけの人が天国に 戻ろうとしますか ほんのわずかです 好奇心で来て 聞いているだけです 修行する人も あまりいないのです 印心を受けた人が 全部修行するとは 限りません つまり誰もが 天国に戻ることを 急いでいるのでは ないという意味です

ですから 食べて 飲んで 遊んで 楽しむ 世界がなければ なりません また喜怒哀楽の 世界があって  人が自由に 選択できるように しなければなりません

皆が天国に住むことを 強要できません

この世界と同じです フォルモサ(台湾)は こんなに小さな国土 なのに それでも 喜怒哀楽できる 場所があります

修行に精進する人に 提供する 道場もあれば 浄土法門は 人々に念仏の場所 呪文を唱える場所 数珠を数える場所を 提供しています

マスターの肉体を 見る事ができない人で 光だけを見る人には 亡霊が見えますか マスターの肉体を 見る事ができない人で 光を見た人は 亡霊を見るとは 限りません なぜなら彼はすでに 亡霊の境界を 超えているからです 高いレベルの 境界だけを見ます 彼と関係のない 地獄などは見ません 見るかもしれませんし 時と場合によります 幽霊を見て 何をしますか いつまでも幽霊を 見たがって 仏菩薩は 見たがらないのです 皆様に感謝します ご協力と 精進の精神 誠意と研鑽 そして 討議に感謝します とても嬉しく思います 今日の 経の講義に来てくれた 人は大半が 偉大なる人です なぜなら彼らは本当に 見解を共有し 交換したいからです とても嬉しく思います 明日もまたお会いして 討議することを 期待しています

さよならお休みなさい

メディテーションの 優れた効果 あなたが神を十分に 長く沈思すれば 脳内で驚くべきことが 起こります 神経機能が 変わり始めます

霊修行は 脳の神経機能を 強化します それは心身の 健康を改善する 方法によってです

特定の神経回路を 強化します それは 穏やかさ 社会意識や 他者への思いやりを 生み出すものです

認知と コミュニケーション 創造性を強化します

落ち着きや 平穏さ 穏やかで 用心深い ままでいさせてくれ ほぼ全ての人に 積極的で楽観的な 展望を 与えてくれます

あなたが何を信じても 関係ありません キリスト教 ユダヤ教 イスラム教ヒンズー教 不可知論者であろうと 無心論者であろうと たとえ10分~15分 瞑想しただけでも 認知や緩和 そして 心理学的健康に 大いに陽性効果が あるように見えます

アンドリュー ニューバーグ博士 米国 ペンシルベニア大学 精神と神経科学 センター所長 博士の著書より 「神はいかにして 脳を変えるか」

地球温暖化を危惧し また人類と全ての 生物の生命を守るため 今すぐ行動する 差し迫った必要性に 駆られてスプリーム マスターチンハイ 国際団体メンバーは 気候変動に関する 会議を開催しました 題して 「美しい地球への 解決策」タイ ノンタブリー県にて二〇〇九年八月十五日

スプリームマスター テレビジョン 今週の日曜日 九月二十七日の 智慧の言葉にて ビデオ会議 「美しい地球への 解決策」第一部を ぜひご覧下さい 

本日のスプリーム マスターテレビジョン 智慧の言葉にて ビデオ会議 「美しい地球のための 解決策」第一部を ぜひご覧下さい

ですから肉食は 動物への虐待です 肉食は私達の 健康への虐待です 肉食は子供たちへの 虐待です 肉食は地球への 虐待です ビーガンになって 私達は決してこんな 結果によって苦しむ べきではありません 絶対に 二度と

 
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