智慧の言葉
 
心を分かち合う 第一部/3 一九八八年十一月十八日 台湾(中国語)    Part 1
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私達はよく 肉体は得がたいと 聞きます この世で生きることは 貴重な機会であるとも 聞いています と言いながら 一方では 私達はこの世界を 離れなければならない とも聞きます これではもちろん 混同するでしょう

人間の体は得がたく 大変貴重であると 言いながら 一方では この世は 苦しみに満ちていて 早く離れなければ ならないと言います どういう意味でしょう

肉体は 得がたい事は 分っていますね しかし いつかは 離れなければならない また誰もが こう言います どの経典も 人間の体は 得がたいと言い 人間の体のみ 最も高いレベルの 地位と完璧な宝物を 得ることができると 言っています また天使は どんな高い天国に いようと 仏陀になれないと 言っています 天使は天国の 最高のレベルに 到達できませんし 完璧なパワーを得る こともできないという 意味です また人間の世界は 苦しみに満ちていて ひどく汚らしく とても耐え難い 世界だから 早く修行して早く 離れなければならない とも聞いています

肉体はなぜそんなに 大事なのでしょうか それは 肉体の中に悟りを 開く事ができる道具を 備えているからです その道具とは何かと いうと 智慧眼という所です 天使は智慧眼を 持っていません その智慧の宝庫が 彼らの体には ないのです 頭脳もありません

なぜ人間の体が 大切なのでしょう それはこの世界は 全てが備わっている からです 私達は 地獄に生きている人と 天国に生きている人は 修行できないと 聞いています 極端だからです

この人間界は 一番完璧です なのになぜ苦しみを 見るのでしょうか または多くの人が この世の苦しみを 見ています それは私達がこの世の 完璧な部分が 見えないからです 宇宙の中で 私達の世界だけが 完璧なのです あらゆるものが 備わっています すべてがあります 天国や 地獄 仏陀の浄土 想像もできない 境界がこの世界で 見つけることが できますが 天国では それができません

例えば天国だと ただ一種の幸せを 得ることができます 毎日毎日が 幸せです これはただ一種類 だけの幸せな生活で その生活を変える ことはできません

地獄だと 苦しみの生活だけで それを変える道は ありません 今日は楽しく 明日は苦しくする こともできません まったく不可能です しかし人間の世界では 変えることができます 私達は智慧を使って そして本来 私達の内面に 備わっている 万能のパワーを使って この世界を 地獄や天国 仏陀の王国に 変えることができます だからこの世界は 完璧だと言っています 今分かりましたね だからこの 人間の世界は 最も大事だと 言っているのです なのになぜまたこの 世界は苦しみに 満ちていて 早く 離れなければならない というのでしょうか

それは私達が 幸せな所を見つけて いないために苦しみ ばかりなのです 私達は地獄ばかり 作って 天国を 作っていません だからそういう人に とってはこの世界は 苦しみに満ちています 多くの人にとって この世は苦痛です 私達はまた全ては 心が作るものだと 聞いています よって地獄を作るのも 天国を作るのも 私達なのです この人間の体なしには 天国も地獄も 作ることができません 地獄は地獄に属し 天国は天国に属します しかし私達が人間の 体を持つと 天国も地獄も 造ることができます また最高の悟りの 境界も得られます 同じ世界にいながら 私達は色んな人達が 異なる感覚を持って 違った生活をしている のが見られます 例えばフォルモサ (台湾)だけを とってみても 北の方に住む人と 南に住む人とでは 個性が違うのです 生活常識や 生活様式も 大分違います

時には伝統的な 風習さえ異なります こんな小さな島でさえ こんなに違うのです 今私は台北の人と 台南の人が 標準中国語を 話すのを聞くと 彼らがどこから 来ているかが 分かります 台北の人か台南の人か 知ることができます 同じ台北でも 場所によって 裕福なところと 貧しいところが あります 私は貧しいところに 行ったことがあります といってもフォルモサ (台湾)はそんなに 貧しくありません

それに例えば 私が苗栗に 住んでいたころ  村の役人や警官らと 世間話をする時 貧しい人がいるかと 尋ね 彼らの名簿が 欲しいと 言いました 彼らは「はいいます」と 後で彼らは 政府が貧しい人達に 配給があると 教えてくれました 毎月 政府は お米や基本的な生活 補助を与えているので 飢え死にとか 凍え死にすることは ないと言いました 私は大変感動しました 私は弟子に言いました 私達の政府は本当に 素晴らしい 感動させられた 田舎まで面倒を 見てくれていると 政府は庶民に 深く浸透しています これを聞いて私は 本当に感動しました

フォルモサ(台湾)は 実に素晴らしいと 本当に  フォルモサ(台湾)に 貧しい人はいません でも比較的 貧しいという意味です つまりそんなに裕福で ないと言う意味です 好きなように 使うお金が ないだけの話です 欲しい物が買えない ということです 中にはテレビを 買うのに考えなければ ならない人もいます 数カ月のローンを 組まなければ 買えないのです 私も人と世間話を する時分ったことで  こう言う人もいます 時には私達のできる 範囲で彼らを 助けています とにかく 世界の他の所と比べて フォルモサ(台湾)は とても素晴らしいです そんなに貧しくなく お金や薬が 不足している 事例はありません

なのに 同じ所でも 裕福な人もいて 貧しい人も います 同じ俗世界の 中でもそうです 私達の世界には 色んなレベルの智慧と 智慧の差があります ある人は このレベルが分かり 見て分かるように 教育の程度によって 異なります 同じクラスの中でも 頭のいい学生が多く 彼らはクラスで トップの座に あります 一部の学生は落第して もう一年やらなければ なりません

同様に 智慧の面では 智慧と知識は 異なります 知識は賢いことで学び 運用することができ よく物事を処理し 指揮能力もあって 何でもすぐに 理解します 仕事もてきぱきし 立派にやってのけます これが知識です 本を読むときも すぐ理解します これが知識なです 智慧は大分違います 智慧はこの世界の 知識を超えたものです 智慧のある人は この世界のこと だけではなく 超世界のことも 分かります これこそ智慧のある 人だと言えます 同様にこの世界では 人々の智慧のレベルが 大変異なります そこでこの世界に 対する見方が それぞれ異なるのです この世界は苦しみに 満ちていると思う人は 本人も大変 苦しく感じます 世界が見るからに 苦しいのです 世界が見るからに 苦しいのは まだましです

自分がそんなに苦しく ないのでこの世の 苦しみを見る 余裕があるのです これはまだましです というのは私達は 自分を忘れているか またはそんなに多くの 物を必要としないため この世界の苦しみを 見る時間があるのです ある人達は自分自身が とても苦しいのです 本当に苦しみます そこで世界全体が 苦しみに満ちている ように感じます そして苦しんでいる 人を同情するのです

ある人は この世には 何事もないと 言っています

老子もこの世界には 何事もないと 言っていて 禅宗のマスター 菩提達磨も 衆生は自分で 自分を救うのであって 衆生は皆 仏陀なので 誰も救う必要がないと 言っています イエスも 野原のゆりの花の 中にも神が宿ると 言っています つまり 何もする必要がない という意味で 神が宇宙の全てを面倒 見るということです 偉大なマスター達が こう言っているのを 聞いてはいるものの 私達はやはり この世界は苦しく 問題が多いように 感じていて ここを 離れたくなります 私も時には皆さんに 早くここを離れて 移住しなければ ならないと言います ある人は私にパワーを 使って戦争と災難を 中止させ  戦争に介入して 二度と戦争が 起こらないように また世界の終末が ないようにして欲しい というのです 私はそれはできない 移住するばいいと 答えました なぜでしょう それは 海に浮かぶ船に 穴ができていて 水が漏れていて 長い間風や雨で 破れているのです だから早く 離れねばなりません 修理する時間など ありません こういう事なのです ダメージが大きすぎて 修理できないのです こういうことです しかし観音法門を 修行する人が多ければ この世界を修理する ことができます

例えば 船に沢山の 道具があり 沢山の専門家がいて 一緒に協力して 働けばすぐに 修理できます もちろん そうなります 一人や二人だけだと もちろん 間に合いません こういうことです だから私達は または 私が皆さんに早く この世界を離れるべき だと言っているのです 皆が修行するのも この世の苦しみから 離れるためです  どこに移住しますか どこにも行きません 依然ここにいます ただ内面を変え 智慧を発展させ 大きな世界を見て 良いことを見て 悪いところを 見ないだけです 人が 小さな部屋で壁に 開いた小さな穴を 眺めるのと同じです そこを見れば物事が 小さく見えます 後から 窓が見つかると もっと多く見えます そしてドアが 見つかって ドアを開けると もっと見えます または階段を上ると 下の全てがはっきり 見えます 釈迦はこんな話を しました 数人の盲目の人が 象に触れたとき 耳に触れた人は 言いました「ああ 象は扇のようだ」と 足に触れた人は 言います 「象は柱のようだ」と 鼻に触れた人は 言いました「象は パイプのようだ」と 尻尾に触れた人は もう何もいう ことがありません

後で目の手術をして 見えるようになれば 象が見えるのです 象の全体像が 見えるのです 彼らが言ったのは 象の一部分で 象ではありませんが やはり象です

彼らは像を完全に 分かったのはなく 一部分しか 分かっていないのです だから言ったことは 不的確なのです 同様に 私達はこの世界で 智慧が開いて いないため 目も半分閉じた ままなので 苦しみばかり見えて ほんの僅かな 幸せしか見えません 私達の世界が どんなに完璧なのか 分っていません だから修行するのです 修行した後 見方が変ってきます そして私達は 老子と同じように 世の中は何事もない というでしょう ただし私達が 世の中は何事もなく やるべき仕事がない と思える境地に達する ことは難しいです でも難しくありません 私だって世の中には 何もやる事がないと 言うことができます すると皆さんは  ではなぜ経の講義をし 衆生を救うのかと 聞くでしょう

私が経の講義をし 私が衆生を救おうと するからでは ありません 皆さんが私に 経の講義を頼み 皆さんが私に衆生を 救うよう 頼むからです

親と同じで 例えば私達は 幼稚園でシーソーで 遊びました

そして子供はずっと それで遊びたがります 私達にとっては退屈で しかし子供はそれが 好きですから 私達は付き合い  そして根気よく待って いなければなりません 親は何年も 根気よく 子供が成長して シーソー遊びをしなく なるまで待ちます

子供達は分かりません シーソーで 楽しそうに 遊んでいます そして両親も 遊びたがっていて 自分達と一緒にいたい と思っています そうではありません この世には何も やる事がないという ことはただ突っ立って 袖手傍観し あなたが苦しいのは あなたのことで  私さえ苦しくなければ それでいいとか あなたが開悟しようと しまいと私と 関係ないという ことではありません 聞かれなければ 何も言う事ありません 聞かれるから 話をするのです

私達は修行者や 偉大な修行者 開悟した人は 自由自適と聞いてます どのように自由に なったか分りません 時には 彼らも泣いたり 怒ったり 時には 喜怒哀楽を表し 普通の凡夫のような 振る舞いを見せます すると私達はあの人は 本当に開悟したのか 疑わしいと思うのです

後から神通力を使って 試して見ようとします 疑うのは 自然な反応ですが 私達は ただの喜怒哀楽と 別種の 別種の 喜怒哀楽は異なる ことを知るべきです 例えば社会には 多くの非道な人がいて いつも訳もなく 人を殴ったりします

お酒を飲んでは 酔っ払って 自分を抑制できず 人を殴ったり 盗んだりします 人を殴ったりすると

怒っていると言います

怒ると 人を殴ります

しかし親が子供を 叩くのは  子供がしっかりせず 親不孝で 外で 悪い事をするからです 同じく怒っている

ように見えますが この種の怒りは子供に とっていいのです こうすると子供は 将来外でケンカしたり いたずらするような ことをせず 盗みを働くような ことも しないでしょう 他の子供を殴るような こともなく よい市民に なるのです

ある人は人を殴り もう一人の人も 人を打ちますが 目的が違うのです 親が子供を 打つ行為には 愛があり 世話する 気持ちなのです 酒に酔って怒った 人とは異なります それは無明で  怒って暴力で 人を殴るのです

同様に マスターも時には 喜怒哀楽の 感情を用いて 学生を教えます また彼らのカルマの 問題からそうします マスターは鏡のようで あなたが醜い顔だと 醜く映り 美しい顔だと きれいに映った自分の 顔を見る事ができます 鏡がきれいに変ったり 醜く変ったりする 訳ではありません 映った顔なのです そこでなぜ ミラレパが マスターに七年間も 打たれたか分かるわね 彼は七年間も怒られ 七年間も家を 建てさせられ また 建てては壊させました 時には大きい石を 山頂から下に運ば なければなりません するとマスターは 彼に怒鳴りつけ  石を元の所に戻すよう 命じたのです 体は汗にまみれ 血が流れるほど 働きました 涙を流す事もあります 彼のマスターは とても厳しかったです そうしなければ なりませんでした 私達はこれを見て 彼のマスターは実に 暴力的で慈悲心がない と思うかもしれません 彼に何も 教えないばかりか 怒鳴りつけ 叩き付け あのように 罰するのです しかし その行為の裏を 見た場合 私達は違いを 理解できると思います 時々ミラレパは 真理を渇望して いるのに マスターは 何も教えないので 彼は逃げた振りを したのです マスターは彼が 本当に出て行ったと 思い泣き出しました

マスターは全ての仏陀 十方の三つの世界の 仏陀に祈りを 捧げました 早く弟子を連れて 帰るようにと マスターの心を 誰が分かりますか 親の心は 誰が分かりますか 自分が子を持って 始めて 親の気持ちが 分かるのです オゥラック (ベトナム)には 子供を持たないと 親の心が分からない という諺があります 同様に私達は 仏陀にならないと 仏陀を理解する ことができません マスターに ならないと マスターの方法を 理解できません ミラレパのマスターは 暴力を振るった 訳でもなく 悪意で 彼を打ったのでも ありません 弟子の カルマ(悪い報い)が あまりにも 重かったからです ミラレパはマスターに ついて学ぶ前に 黒魔術で 人を殺したのです それは大変深いカルマ (悪い報い)です

白魔術を使って 人を助けたり 病気を治したり 人の命を助けても 悪いカルマ(報い)が あるのです ましてや 黒魔術で人を殺した ことはなおさらです 想像できますか 昨日ある人が こんな質問をしました

誰かにある人が 早く死ぬように 呪文を唱えてもらうと その人はすぐ 死にますかと その人は確かに すぐ死ぬでしょう しかし呪文を 唱えた人は仇に 見つけられたのです これは実際の話で うそではありません 私達は 最高のパワーを 得ていないと 何をしても人を傷つけ 自分も傷つきます 自分が生きている間に 自分だけが傷いた 場合はまだいいのです それを正し 懺悔する 機会があるからです 過ちを償う機会が あるのですが 問題は死んだ人を 害するのです なぜなら彼が一時間か 二時間早目に死ぬと 悪いカルマ(報い)を 払い切っていないため 天国に行く事ができず 地獄に行くのです こういう事なのです ですから 軽率にいわゆる小さな 神通力を使って 人を救うことは できません 人を救いたければ 人々が永遠に解脱 できるように助ける ことです 彼らに 自分を永遠に救う 方法を教えるべきで これが本当の意味での 救うことです だから釈迦は 自分自身に頼って 修行すべきで 自分で歩きなさい 自分の光に頼りなさい 誰かに頼るのではない と言ったのです マスターに従うことは マスターに頼る事では もちろん 皆さんは マスターの加護を 得たとかマスターに 助けれられたとか マスターの化身が 助けてくれたなどと 聞きますが これは ごく一部分であって 大部分の修行は 自分自身によります まだ歩けない 子供と同じで 私達は 子供の手を取って  一歩か二歩歩きます 長い時間が 過ぎると 子供は自分で 歩くようになります

私達は代わりに 歩くことはできません 修行も同じです 私達を救うために ここに来る仏陀や 菩薩はありません はっきり言うと 彼らが救おうと思えば とっくに 来ているはずで 私達がこの世界で 苦しむのを放って おかないでしょう そうでしょう(はい) ですから 早く目覚ることです 一緒に目覚めましょう 早く修行法を見つけ なければなりません 早くこの世界の美しい 所を見つけることです 美しいところはどこに あるか見つける事です 私が言ったように  一つの方法があって すぐに見つける ことができます 私達は座ったまま 仏陀の国に 行くことができます 座ったまま 天国に行けます 天国も仏陀も私達の 目の前にあります はしごに上ったり UFOに乗って 探す必要もありません 科学者達は 大変進歩していて 他の惑星に行っても 何も見つけることが できませんでした 全ては心が 作り出したものです 天国は確かにあります しかし 目が開いていないため 見えません 盲目の人が太陽が 見えないのと同じです 私達には肉眼があって 多くの物が見えます しかし見える物は 完璧ではありません 多くの人を見ますが ある人は非道で ある人は善良で ある人は きれいで ある人は醜いのです いずれも肉眼で 見るからです もし真の目 智慧眼で見れば 皆が完璧で 美しく見えます だから釈迦は 悟りを開いてから 全ての衆生は 皆私と同じで 何の区別もないと 言ったのです もちろん イエスは自分は神の子 だと言いましたが しかし彼は野原の 草を讃えて 神は この草にも宿っている とも言っています 神はイエスの中にも 草の中にも あるのです だから彼は自分は 神の子と言ったのです 決して傲慢で 自慢げに言ったのでは ありません それは彼が 悟りを開いて 神が草の中にあるのを 見たからです 釈迦も同じことを 言っています 全ての衆生は皆仏性が あるということと 同じ意味なのです 老子は万物は一体だと 言っていますが 同じ意味なのです ヒンズー教や イスラム教も同じ事を 言っています

イスラム教には 一つの規則があります つまり人の行為を 批判してはいけない 人が どんな事をしても 神が彼にそうさせた と言います 神が彼に こういう体験を させているのです ですから人を 批判しないことです 同様に 釈迦は 全ての衆生は皆 仏性を持っていると 言っています それは 仏性は全ての衆生に あって行動を指示する という意味です

全ての衆生を 存在させるのは 仏性です イエスも同じように 言いました 野に咲く 百合の花を見よ  神はその中にあり  それの面倒をみてると 決して  悪人は神の子でないと 言っていません 釈迦も決して 善良な人だけに 仏性があって 他の人にはないとは 言っていません 全ての人にあると 言っています 老子も 同じ事を言っています 万物は同一体である と言いました 決して人間だけが 同一体だとか 善良な人は 同一体だとか 道教の信者は 同一体で 仏教徒は そうでないなどとは 言っていません  開悟した人は 全てを含めた 見方をします ですからとても シンプルです 人の考え方や人の 信仰や行為を 容易に受けいれる ことができるのです 批判の目で見るのは ありません 人を自由にします 彼らは経の講義に 出かけますが とても自適です 人に押し付けるとか 人を引き付けるために 手を使うような事は しません 神通力やお金を使って 人を引き付けるような ことはしません 過激な方法で ドアを敲いたり 道端で歌ったりする ような事もしません 多くの宗教は 道端で法を広めます ただ立っています そこに何かを入れると あなたが来るまで 待って レクチャを 始めます 一人や二人がきても 構いません 彼らの弘法の精神は 本当に偉いと 思いますが 本当の法を広める人は こうではありません 押し付けず 強制せず 人を自由にさせます なぜなら人には それぞれ 時間があるからです 子供と同じで 子供に山海の珍味を 食べさせても 消化できません 私達にとっては いい物ですが 子供には無理です
苗栗に住んでいた時 苗栗に住んでいた時 私達が貧しい人達の名前のリストが 欲しいといったのは できる範囲で助けて あげたかったからです そこへ行って弘法した わけではありません 苗栗に行ってみれば 分かると思いますが 私は隣に行って 法を広めたことは 一度もありませんし 彼らに来てもらって 経の講義をしたことも 向うから私の所に 経の講義を聞きに 来たこともありません 弟子達にも隣に行って 迷惑をかけるような ことをさせません 皆は私がそこに住んで いることを知っていて よく会いにきます 私の所に来たければ いつでも きます 私達は決していかなる 強要もしません 隣の人にも 何もしません  ましてや他の人には それに隣はまだ 印心もしていません 私達がどこに行っても 隣の人は 印心しませんでした

毎週数百人の人が 私を見に来ては 私の経の講義を 聞きます 観光バスや テントも多いですが 彼らは決して 印心しません このことからもとても 自適だと分かるはず 私達は住み着くと すぐに隣の人に 印心するよう 勧めたりはしません そうではありません 私達はただ分かち合う だけです というのは 毎週印心した人たちが ビスケットや飴を 持ってくるので それを隣の人に 分けるだけです こういうことは 当然だと思います 隣の人がいる場合は 当然そうすべきです 彼らに物をあげるのは 法を広めるためでは ありません そこでどこへ行っても 隣の人が印心した ことはありません なぜだか分かりません 私達も理由を 聞きません 私達は 一緒に住んでいます 牛や鶏も人間と一緒に 住んでいますが 問題ありません 印心を受けた人だけを 歓迎したり助けたり するのではありません 印心を受けた人とだけ平和に過ごせるという のではありません 違います 隣の人達は印心を 受けていなくても 私達に大変親切です 地元の警官も大変 親切にしてくれます 彼らに印心を 受けさせたいからでは ありません 時々 警官に沢山の物を あげます 

昨日警官らに 贈り物する時  どうしたらいいか 話すのを忘れました 私達は警察や 公務員のことを 当たり前のように 思っています 彼らが 真面目に働いているが お金は少ないことを 考えません 彼らの弱点ばかり見て お金で賄賂し 自分に有利になるよう 便宜を図るのです しかし法律にとっては 好ましくありません これはよくありません 彼らに感謝の心を 持つべきです

感謝の気持ちを 表したいのであれば お茶とか ビスケットなどを 上げて  彼らが喜んで働き  人民に奉仕するように しなければなりません  献金してすぐに自分の ために何かをやらせる ことはいけません

彼らを不快にさせます 彼らもうまくいかない 場合 苦しいのです 賄賂は本当に両方を だめにします 廉潔な心が汚されます 警官らに何かを あげたい場合は 敬意を持ってすべきで 何かお願いすることが あるのではありません 仕事が大変な ようなので これを 分かち合いたいのです  私達は沢山持ってるが 皆さんにはあるかと 言ってあげるのです 彼らに物をあげる人は 少ないです 皆さんはあり過ぎて

彼らに分けるべきです 道場で 食べ切れないから 彼らに分けるのでは ありません  そういう意味では ありません ただ私達が持っている ものは彼らにもある べきと思ってるからで そういうことです 皆が少しずつ カンパすると  この世界は それほどの格差が ないと思います 阿含経に 釈迦が言った話が 載っています 天地が創造された時 私達は何も 食べる必要もなく 多くの光に包まれ 自分で方々へ飛び回り とても自在でした 服も必要なく 食べ物も要りません 長い時間 住んでから 地面に生えた甘い ものを見つけました 蜂蜜のようでそれを 取り出して食べて いました それを食べたら 体はきめが粗くなり 後には光がなくなって しましました そして体は 地面に接して方々 歩くようになりました  今のようにです

蜂蜜の河が 枯れてしまうと彼らは 別のものを育てたが それもおいしかった 彼らは益々食べる事に 慣れていきました 食べれば食べるほど 醜くなり 沢山食べる人は もっと醜く 小食の人は まだ光があって  少しきれいでした そこで差が できたのです きれいな人と 醜い人が いました 醜い人は きれいな人が 好きになりました 後に 男と女ができ 男は女が好きになり 皆が違って きたからです 以前は皆が同じでした 性的欲求もありません 今は全員互いに 違うために こうなったのです

後に 地球には 沢山の五穀が 生えてきました お米は今と 同じです 彼らはそれを 食べました 他のものはありません 甘いものは なくなりました お米と麦を食べました 他のものは もぎ取って食べました その時はとても 自由自適でした それらは自然に生え どんなに食べても 独りでに生えてきます 問題ありません いくら食べても もっと生えます 何も植える 必要もなく 面倒をみる 必要ありません ある期間が過ぎると ある人は 怠けてこう言います ああもう 毎朝行って 食べるものを 手に入れ お昼もう一度 いかなければならない 夜もまた行かなければ ならない しんどいなあ 一日中食べる分を 持ってきたらいい とつぶやくのでした

そこで一日分を 持ってきます 友人が食べ物を 取りに行きなさいと というと彼は言います  もう一日分持って きたから 皆さんは好きな分 持っていきなさいと 他の人は思うに 彼は頭がいいなあ 一日分も 取っておくなんて 私は二日分取って おこう もっと楽に なりたいと思うのです 他の人も同じ事を します  これがずっと続き 五日分も取っておく 人もいれば 六日分取っておく人 十日分取る人もいます 後に お米や他の作物は 足りなくなりました そんなに早く 育たないのです そこで人はフェンスで 囲んで誰のもので 誰の畑なのかを 分かるように しました そこで財産を 持つようになります これはいいのです 私有財産を持ちます しかし よく育たない しかし よく育たない 財産を持った人は 他の人の食べ物を 盗むようになりました 沢山盗むほど 悪くなっていきます そこで自分で畑を 耕して 十分な 食べ物を得るように なりました 後に耕作が うまくいかなくなると もっと踏ん張り もっと盗むように なりました そこで法律ができ 法を司る王が現れ 諸般の事を処理する ようになりました 法律は益々 体系化されましたが 人々は 貧しいだけです 以前は食べきれ なかったのですが  今は足りません 沢山持っている人と 少ししか持って いない人がいます いずれも彼らが分かち 合っていないからです 釈迦の言う意味は 私達は分かち合いの 心を持つべきで こうして始めて この世界は 多く持っている 人と少ししか 持っていない人との 間の格差が なくなるという事です 私は賛同します そうではありませんか (そうです) 賛同するだけでは 足りません  明日ビスケットを 隣の人にあげる事です 私がドイツにいた時 私は実際そうしました 阿含経を読んだから したわけではなく 自然にやったのです 毎週隣同士は順番で ご馳走したのです 今日は私達が夕食に 招待され 翌週は 私達が招待します 私の番だと もちろん菜食を 作ります 彼らはとても好きです 私は菜食を作り 後から彼らに 作り方を教えます 彼らも菜食料理が とても上手に 作れます

ある日私の夫はきまり 悪く思ったのです 隣の人が私の家に 来るたびに 菜食を食べたからです ある日彼は 今日は 魚や肉を食べさせよう と言いました 私達は半日も言い 合ったのです 私は 嫌です なぜ魚と肉 なのですかと 菜食は人にいい事は 分かっていれば それを 食べさせるべきですと 彼は言いました  強要してはならない 彼らはきまりが 悪くて言えないだけで 彼らは魚や肉に 慣れている 家に来るたびに菜食を 押し付けていると 言いました 押し付けてはいません 彼らは全部食べて 帰る時は少しも残って いないのを見たでしょ あとでもちろん 私は夫を尊敬しているので認めました

彼は魚と肉を 買ってきました 私は私と夫が 食べる分の菜食を 作りました 私達二人は菜食 するからです 私は では皆は皆さんの分を 私達は私達の分を 食べましょうというと 言葉が 終わらない内に 私の分はなくなって いました 魚と肉は 手も触れません 私は 皆さんは 魚や肉に慣れている のではありませんか 彼らは言いました 私達は毎日それを 食べていて ここには 菜食を食べるために 来ているのに なぜ今日はないですか その時 私は夫を一瞥すると 彼は分かったのです

分かち合うことは 大変有意義です 私達は食べ物だけを 分かち合うのではなく 精神的な糧も 分かち合うべきです 隣の人を馬鹿に してはいけません

私の隣の人は 大変開悟していました 印心を受けて いなくてもそうです 大変開悟した 話し方をします 一冊の私の本を 読んだだけで とても知的で多くの ことを知っていました これは印心とは 関係ありません 私は決して 人に強要しません ですから時には 自分の知っている事を 分かち合う必要が あります 私達がベジタリアンで あれば人にも 知ってもらうことです

菜食するのであれば 皆に私達の生活を 知ってもらうと彼らは 私達の自由意志の 権利を尊重するのです 私達も皆が自分と 同様にと強要しません でも自分が 知っている事を 分かち合うのです すると聞き入れます

私達の見方を 彼らと話すのです 私の考えこそ正しい とか 信じないと 地獄に落ちるなどと 押し付けては いけません そうではありません 親切に彼らと 話すことです

今日聞き入れなくても 明日になると 考えるかもしれません

彼の言うことは正しい のだと思うのです

食べ物だけを分かち 合うのでは足りません

釈迦牟尼仏は ダルマ(法)が最高の 布施だと言いました 法とは何でしょう

教理 正しい道 いい生活様式と 高貴な夢です 私達はまだ法を伝授 する事ができませんが 高貴な夢を伝える ことはできます 人に希望を持たせ 高貴な夢を 求めさせる ことによって 毎日混沌のなかで 過ごさなくても よいのです 一日がすぎ 食べて飲んで 遊んで 楽しむなど 毎日同じ事を考え 毎日同じ事をし 誰も彼らを 呼び起こしません 私達は法を広める 義務があります

私達一人一人は 仏陀なのです 人が人を救うことが できたらもう仏陀です 成仏を助けることは 仏陀と同じことを しているのです だから私達は仏陀です その瞬間は 仏陀なのです 仏陀と同じ事を するからです 仏陀になることとは こういうことです 涅槃(最高の境地)に 行くまで仏陀に なれないわけでは ありません 仏陀とは何でしょう 一種の見方  理解する方法であり 私達の智慧から出た 最高の理想なのです 涅槃(最高の境地)に 行くまで待って始めて それを手に入れる ことではありません 仏陀になりたければ 今すぐ生活様式を 変えることです 仏陀と同じ ことをすれば 仏陀なのです

私達は本々 仏性を持っています 仏陀と同じような ことをし  内面で悟りを開き 仏陀や菩薩のように 仏陀や菩薩のように 振る舞えば  すでに仏陀であり 菩薩なのです 仏陀や菩薩のように すればするほど 自分がとてもうまく できることを発見し 私達は元々こうでした これが好きで 以前に やった事があるように 徐々に 実際私達は以前に やった事があると 分かってきます でないと自分が仏陀 である事を忘れます そこで釈迦は 兜卒天から降りて 来ているにも 関わらず 十地菩薩以上で 大菩薩よりも 位が高く 大菩薩よりも 位が高いにも関わらず いったん降りてくると 無明になりました

目覚めるのに 三十年かかりました 私達も同じで 目覚めなければ 三万年 三十万年 かかるかも知れません

仏陀が凡夫になり 凡夫が仏陀になります ほんの僅かな 差しかありません 慎重に生活を 営まねばなりません 理想を保ち 最後まで 自分を奉仕し 仏陀と 仕事をしなければ なりません  どんな困難や妨害  誹謗に直面しても 私達は益々自分は 本当に仏陀である事が 分かってきます そして本当に仏陀の パワーが備ります これは使うほど 多く出てきます それを使わなければ 錆びてしまいます 例えば 釈迦牟尼仏が 三十歳過ぎてからも 宮殿に留まって 食べて 飲んで 遊んで 楽しむ生活を 送るとしたら 世界の統治者に なったかも しれません

経典に載っています 固定された頼れる 運命はありません 占い師は  釈迦牟尼仏が 出家して修行すれば 仏陀になるが 仏陀になるが 家にいれば ただ 世界の統治者にしか なれないとはっきり 言っています つまり 輪廻するという 意味です 大きな福報ではありますが  やはり凡夫です 仏陀でも  マスターでもなく 三界を越えた のでもなく でもなく 生死の輪廻から 解脱したのでも ありません 永遠に解脱し 偉大な智慧を得たの でもありません

彼は元々 仏陀であり 古仏であり 菩薩であっても そういう運命です 彼は生まれてから すぐ七歩歩いた と聞いています それでも彼は 三十年間も 無明でした

ですから彼だけが 仏陀になれると 思わないことです 彼はもう少しで仏陀に なれないところでした 私達も同じで 修行しないと 仏陀になれません 仏性があるから といってずっと 待っているのでは 何もなりません

これでこの世界には 沢山の宝物があって それを手に入れる ことができると 分かったと思います 観音法門を修行すると 手に入ります 知りたければ 私は歓迎します どう手に入れるかを 教えます 完全に無料です 以前も将来も 私は何一つ もらいません 生活はとても簡素で 何も要りません 寺院は 建てません 大変シンプルで私は テントに住んでいます 人に迷惑をかけず 国の税金を 浪費しません  修行は賑やかに興奮し する事ではありません 私達は人に沢山の 迷惑をかけては いけません 寺院を 建てて修行する必要も ないのです 家でも修行できます 親から離れる必要も ありません 家族から離れなくても いいのです 今まで通りやって いればいいのです ただ少し時間を割く 必要があるだけです 少しお金を銀行に 預けて老後生活に 備えるのと 同じです 簡単です 二十四時間は 多いです 私達はその内から 二時間半割いて魂を慰労します すると後にこの世界を 離れるときに 留まる場所もあり 真の家を持つことが できます この牢獄に 二度と落ちる事もなく 動物の牢獄や罠に 二度と落ちてきません 阿修羅の袋に連れて 行かれる事もないです

阿修羅の世界には 多くの空の袋があって 私達は死ぬ時に 気をつけないと その中に落ちます 一旦落ちてしまうと 制御できません だから 幽霊はあちこち 飛び回っているのです

一箇所に留まることが できません 風があれば飛ばされ 風がないと 止ります 食べることもできず 住む所もありません 話すことできません 行きたい所にも 行けません 自由がありません これはいわゆる 阿修羅の袋に 捕らえられたからです

ビニール袋の ようなものです この地球には 一種の水素の風船が あります 大気の中を飛び 下に大きな籠が ついていて人は 籠に座る事ができます

阿修羅の袋に 入れられたら 水素の風船に 入れられたのと 同じで 制御のしようが ありません だから幽霊になると 悲惨なのです いずれも 生きている時 コントロールが できる時に それを コントロール しなかったからです 人間世界にいる間 大事な時間を利用して 自分の生活をちゃんと 営んでいなかったです だから離れるときは 悪いカルマ(報い)の ため とても慌てます 他の幽霊達に 脅かされて 方向もなく 逃げ回ります そこで人間の体に 入ったり 動物の体に 入ったり 地獄に落ちたり またはいわゆる 阿修羅の世界の 袋に入ったりします そこではコントロール しようがありません

人間の体を 持ってこそ  コントロールできます 私達の将来や これから住む場所も 選択できます これらは将来起こる ことではなく 今 他の所に 行って住み  まだ戻ってきます 行ったり来たりします これが習慣になります すると後に 私達が離れるときに 自分がどこへ行くか 分かるのです なぜなら 行ったり 来たりしてもう 慣れたからです こんな感じです さもないと 大半の人達は 阿修羅の袋に落ちて あちこち 飛び回ります 数百年生きる ことができますが しかし無意味で とても悲惨です この世界には多くの 事が罠のように幽霊が 引っ掛るのを待ち 受けています  これは魔王の仕事です 道教では いわゆる魔王とは陰のことです 陰ともう一つ 陽があります 今私達は陽を見つける ことができます 死んでからは 陰の力が 大きいです 生きている時は 陰と陽両方あって 私達は陽を取って 陰は取らない ことができます 死んだら 陽が消えていて それを抑制できません 陰しかありません

そうなったら もう遅いのです

マスター 私は軍人で どのように修行したら いいですか 私は経を読んで 瞑想する時間は ほとんどありません ただ仏陀の名を 唱えたり 四つの無量心を 保つぐらいです どうしたらいいですか

徴兵された時は 修行できましたか

(はい)大丈夫です 彼も前に 兵隊に行ってました ここの修行僧達は 時々 徴兵されます  十日間の事もあります 修行できますよ 大丈夫です 観音法門を 修行するのは とても簡単です 朝に一時間 夜に一時間できます 休憩時間に 修行しなさい 皆が眠るとき あなたは起きて 一時間 修行にあてるのです かまわないでしょう 私たちは多く眠れば 健康で元気という わけではありません そうとは限りません ここにも 夜は眠らず 瞑想している お坊さんがいます 日中 彼は仕事に行きます テレビ局で働いてます 退職したいのですが テレビ局がやめさせて くれないのです 彼は こう言いました 「では 半分 僧として 修行しつつ 働きます」 こうして 彼は 仕事に行くために 朝五時頃に起きます 正午に戻って来て 昼食を取ります 休んで それから瞑想します

彼は殆んど眠りません しかし 毎日 仕事も 修行もできます 問題ありません 意志さえあれば 何でもできるのです 山を動かし 海を覆すことが できる人もいるのです 私たちはわずか 二時間半の修行です  言い訳できませんよね 修行しない口実など 見つけられませんね しばらくして死ぬ時 誰にも 私達が 解脱する理由が わかりません

マスター あなたには 無明の私を 即座に悟らせ 解脱するよう 助ける能力があると 私は信じています 私のような者でも 印心は受けられますか もちろんです あなたは印心を 受けるには最適です 迷信的な人々は そうではありません はっきりした 客観的な心で 印心に来てください これが 最も正しい態度です ただ私が好きだから 来るのはいけません それは個人の 人間の 感情 阿修羅感情です マスターに伺います 懸命に瞑想すれば 『沈黙の涙』の中で 「マスターの慈悲を 切望するが 応えはない」と 書かれていたように 無力で惨めではなく 進歩するというのは 本当ですか

はい これは 人によって それぞれ違います 印心のときと その後に 非常に良い体験を する人もいます しかし 体験が多いほど ますます望みます しばらくすると 渇望しなくなります その後は「この世には 何も起きていない」 ように感じます 私達は辛い渇望の時を 経験しなければ ならず その後やっと 大丈夫と感じるのです 赤ちゃんを 産むようなものです ある観点からですが 子供を産む前は 見ることは出来ず 見ようともしません

しかし 激しい 痛みを伴って 子供を産んだ後は 大丈夫です 修行において 時々 私たちには 激しい渇望があります マスター あなたがステージで 講演をしているとき 全身が光であると 話す人もいます 彼らは殆どあなたが 見られず 講壇は 仏光でいっぱいです マスター 良い修行者だけ その光が見えると 言うのは本当ですか 本当ですか(はい) では 他の皆は 悪い修行者ですか 人々には様々な レベルがあります 見た人の一部は 印心者ではありません 印心者は自分の経験を公開しない様に話した ことを知っています つまり  それを見たのは 非印心者という事です これは彼らが前世で 非常によく修行した ことを示しています 現在も 純粋なのでその 体験があるのです もちろん 心が純粋な 人だけに見えます これは彼らが 非常に良い修行者で あったことを示します けれども 熱心に 瞑想していたという 意味ではありません 確かではないのです 修行は 瞑想だけに ついてではありません 彼は前に修行しました 現在 彼はまだ 修行のその雰囲気を 持っているのです まだ清い心があります 子供のようなのです それゆえに イエス キリストは言いました 「あなたは子供のように 純真にならない限り 天国に入ることは できません」と 非常に純粋で 無邪気という意味です 老子も 子供に 戻らなければならない と言いました これがその意味です 年取った人が 子供になることでは ありません 違います 子供のように 美しくなることで すると私たちは 誰が良いか悪いか 誰が光を持っているか いないかわかるのです さもなければ 私が半年話し続けても 無駄です ひっきりなしに 私は皆に聞かれます 「あなたは仏陀ですか」 「あなたの超能力を 見せて頂けますか」 見せて頂けますか」 でも私は黙っています 時折 それを見て ばらす人もいるので 人々が少し知るのです

マスター  歴代の仏陀 聖人達 例えば キリストや聖母マリア 釈迦牟尼仏陀 老子や孔子と 過去 現在 未来の聖人 全てが 頭や体中から 光を発している というのは本当ですか 本当です 肖像画を見れば わかります 少なくとも仏陀や イエスキリストの絵は この辺に光があります 彼等が聖人であると 示しています 光の無い聖人は 一人もいません 絵の中では彼等には 全員光があります 人々が こう見て いた事を意味します 私達 霊修行者は 皆 光を持っています 釈迦牟尼仏の絵には 光があります

観音菩薩や 阿弥陀仏も同じです でも なぜ 仏陀の光があんなに 範囲が狭いのでしょう わかりません たぶん あまり 目がよくない人が 描いたのでしょう 仏陀の光は広大で そこらに届く程度では ありません ここから遥か遠くまで 全てが光なのです このように 遠く遠く離れても光は まだそこにあります マスター  化身マスターについて お尋ねします マスターのような 姿のほかに 光で 現れる事もありますか はい あります 化身マスターは あなたの行く手を 照らす星々や月 悟った存在など 様々な形態で現れます 私達が最も好む姿で 現れるのです 主に 私達を喜ばせて 信仰を持たせ 私達の修行に 利益をもたらす そんな形で現れます

マスター イエス キリストが 復活して 弟子達の前に現れた時 弟子達は彼の化身を 見ていたのですか 化身だったかも しれませんし 肉体だったかも しれません 彼のような修行者は 望めば何でも 時には  非常に神秘的な事も 自由に出来るのです 時には  化身は使わなかった かもしれないし 時には二つの肉体を 持っていたのです 彼は 他の形に 化身して現れる事も 可能でした 彼の肉体はここと 他の場所に 同時に現れることが できました 肉体を二つか三つ 持っていました ヨガナンダの導師は 何度も同じ事をして それをヨガナンダに 見せました キリストの時は 肉体を使ったようです というのも 彼はインドに行った後 カシミールに戻って 百二十歳まで 生きたからです これはただの噂ですが 現在カシミールでは 彼と弟子達の墓が 見られます 墓の外には彼の伝記が 刻まれ その名が イエス キリストの ようなのです 名はユス アサフです

私はずい分前に そこに行きました マスター 釈迦牟尼仏が 霊修行のために 皇后を牢に 案内した時 彼は化身を 使ったのですか ええ 化身を使いました それが彼らが二人で 西方浄土を訪れる事が できた理由です 飛ぶにはあまりに重く 長時間を必要とする 肉体を伴っていては 西方浄土へ行く事は できなかったのです 化身なら重量が無く より早く より軽いのです このようにして 仏陀は皇后を 西方浄土に連れて行き 紹介したのです こちらが 阿弥陀仏です こちらが 観音菩薩です こちらが 八功徳水ですと 無量寿経を読んだこと ありますか そこに はっきり 述べられています 肉体だったら どう西方極楽世界へ 行けましたか

皇后さえ 肉体ではなくて 霊体で そこに行きました 彼ら二人は そこへ行きました 西方極楽世界の 美しさに感動し「私は ここに住めますか」と 皇后が尋ねました 彼は言いました「はい  できます ただ帰って この場所の名を想えば 後で そこに行って 暮らせます」 マスター 私は 市場を通るたびに 鶏や鴨 魚 肉が 吊るされて いるのを見て  辛くなります 私の知るところでは 肉食の人を含み 大部分の人は 殺生を見ると 胸が痛みます ところが 肉食する人は 菜食を誤解していて 栄養失調になると 思っています それで しぶしぶ 肉を食べるのです しかし 科学者や栄養学者は 大人も子供も 菜食で栄養失調に なる事はないと 証明しています 反対に より健康で より長く生きます では どうして 肉食者は尚も 信じないのでしょう どうすれば 気付かせられますか 参考として小冊子を 読ませてください

本の最後に 菜食の栄養について はっきり 書かれています この小冊子を 読んでも 依然として ベジタリアンに ならないのなら 仕方がないです 阿弥陀仏や 死神が来て 彼らを連れて行くのを 待つだけです
マスター 印心すると 新しい人生を迎えた ようになるのですか でなければ 私が突然  こんなに幸せと自由を 感じるはずないのです それに  印心する前の 自分の写真を見ると  ふと 見慣れない 感じがしました 特に私の目は 貪欲 怒り 愚かさに 満ちていました 以前その写真を 見た時はとても良いと 思っていました でも 今は古い写真は もう好きでないのです それは「昨日の 一切は死に  今日からの万事は 新たに生まれる」 この諺に似ています これは 印心のためですか その理由ですか(はい) それで 印心した私達の弟子は 自分の肉体の 誕生日を祝わずに 印心日を 祝うのです 彼らは印心記念日に ケーキを グループ瞑想会に 持ってきて その日彼らが1歳とか 2歳になったと みんなに知らせます

真の誕生日は 印心の日です その日 再び生まれます だから キリストは言いました 「あなたは  再び生まれない限り  神の王国に帰れない」 彼が言いたいのは これが本当の再生で 完全に生まれ変わり 非常に違って感じます

軽く感じないなら 悪いカルマ(報い)は どう浄化されましょう 五代超生は 言うまでもない事です 私は真実を話してます でも皆さん 簡単には 信じられないでしょう 仕方がないです マスター 観音法門は 一世代での解脱  そして即座の 悟りの方法です けれども 各自が違う背景を 持っています どうすれば 観音法門の真義が 分りますか

まず 印心を得ます その後分かるでしょう 印心前に私が何を 言っても信じません 理解したいことは 何であれ 自ら答えを見つけて 自分で それを経験します 噂に耳を貸さないで 他の人が言うことや 私のことばさえも 信じる必要はないです 自分で体験する事です 私がクッキーを食べた と思ってください それが甘いと分かって あなたに話しますが もちろん懐疑的です 自分で食べたら 分かるようになります 私が無料で それを食べさせても  食べることを拒否し 躊躇し それが甘いか しょっぱいかと 考えているのです しょっぱいか 甘いか それはきっと しょっぱいです マスター イエスキリストが 菩薩だとしたら なぜ彼は全能の神は 一人しかいないと 思って別の宗教を 作るのですか

作ったのは私達です 彼ではありません

仏陀も別の宗教を作る 事を望みませんでした 彼が話したものは 自らの鮮明な経験に よって強化された バラモンの教義です 単にバラモン教の 四つのヴェーダを 詳しく述べました 今私がしているように 仏教の経典について だけ話していますが これまで聞いたことが ないようですね

したがって 皆さんは 私が新しい何かを 教えていると思います 新しくなどないのに 私は法華経 楞厳経 阿弥陀経を 話しています 私も聖書について 話しました

後で私がこの世を去る 前か去った後にどんな 宗教に属しているか 疑問に思い始めます

私の服は カラフルです 好みでを選びなさい あらゆる宗教を 見つけられます 私がどれでも好むと 言わないでください マスター キリスト教を 信じている国が 仏教を信じている 国よりも進歩し より繁栄し 神からの大きな祝福を 享受しているように 見えるのはなぜですか 真実ではありません そう結論づけることは できませんよ この頃は西洋人も いわゆる仏教を 信じて研究し 始めています たとえば フォルモサ(台湾)で たくさんの人たちも キリスト教を信じます

アフリカの人は仏教を 信じない可能性がある アフリカの種族は 彼らは仏教を 信じますか いいえ 今日のインドでは 人々はいわゆる仏教を 持っていません しかし もちろん 仏教は存在します 仏陀は真理を意味し 仏陀は悟ったマスター を意味します したがって 仏教は 悟ったマスターの 教えを意味します 私達がそう解釈を しなかったので沢山の 混乱があります したがって 道教も 仏教でカトリック教も 仏教です すべての真理追求者は 仏教徒です 真理を 信じる者はみな 仏教徒です 現在インドにいわゆる 仏教はありません

彼らは貧しいですが それは彼らがいわゆる 仏教を信じるせいでは  ありません アフリカが貧しいのも いわゆる仏教を信じる せいではありません 彼らは仏陀が言う事が 分かりません 物事をもっと明瞭に 見るべきでそうすると 嘘だと分かります キリストは西洋で 説教を始めました 西洋と比較して 力学に関しては 私達は劣ります それは彼らの考えが より力学や科学志向 だからです 私達東洋人は より哲学や理論や 道徳的な教えに  傾きがちです したがって 二つの 地域は異なる方向で 発展します

科学者はもちろん 機械とより快適な生活 様式を創造しました また生計を維持する ためにより懸命に 努力せねばなりません 西欧諸国には 雪が多いです ドイツでは雪が高く 積るかもしれません

彼らが速い解決案を 見つけられなければ 機械 ボイラー  ヒーターか 他の生活を快適にする 装置を製造しなければ 全国が凍ってしまう ことでしょう 東洋では 私達はより呑気です 私達は毎日 日光があります お茶を楽しんだり 哲学について考えたり 雑談の時間があります よりロマンチックで 穏やかな雰囲気です

より活動的です それだけです イエスキリストを 信じるから進歩して いるわけではないです 仏陀を信じるから 遅れているのではなく 違います マスター 家内と私は もう印心しています 二人の子供は 一人は六歳で もう一人は四歳ですが 彼らも印心できますか 六歳だと 半印心できますが 四歳はできません 教えを理解し印心 するには幼すぎます マスター ルーシェンヤンの 本を読んで 彼も光が見え 幽体離脱をすることが できます 時に 彼も神を見て 声が聞こえるのです 彼の法門は マスターの法門と 同じように見えます ところが  それぞれ 印心方法が 違います どうか観音法門の 利点と功徳を詳しく 教えて頂けますか

光と音には 様々な種類が あります 修行をしない人々とか 観音法門を  修行しない人は 時にその音が聞こえる かもしれません 修行をした人は もちろんそうです 大悲咒を 長い間 唱えても その音が聞こえますが さほど 高いレベルではない 従って 密教の 修行者も 時々は 音が聞こえます しかし 彼らの体験から あまり高い境界に 行ったことはなくまだ  三界内だとわかります 三界内や 幽界にも 光があります

彼を信じるのなら 彼に従い学んで下さい もっと恩恵があると 感じ とても自由で  愛が深まり 慈悲が広がり 愛の力がより 強くなり 智慧がより大きくなり とても気楽で  和らぐと感じるのなら 彼に従い続けなさい これらの恩恵を まだ受け取っていず 満足を感じないのなら ここへ来て 私と 観音法門を 修行してもいいです 他の法門の修行を している他の方も 同様です 自身のために法門を 見つけるべきです 満足しないのなら もちろん 観音法門を 修行すべきです 私が言えることは 観音法門は 最も高く 最も安心で 最善という事だけです マスター 霊修行で 魔と仏陀をどうやって 区別するのですか 私達 観音修行者は すぐに区別する 方法があります 印心のときに お話します マスター  弱いものいじめを している人たち 自分より弱い人々を いじめたり  理不尽な事をしている のを見たら正義を 守るべきでしょうか 自らを危うくしますか もちろん 仲裁するべきですが 気をつけなさい 可能ならば仲裁し だめなら警察を呼ぶ事 マスター 人々の 運命を占う時 私達は占いで被った 悪いカルマ(報い)を 肩代わりしなければ なりませんか 彼らの悪いカルマ (報い)を負おうと いう意味です そして  秘密を暴露せずただ 占うだけは可能ですか 秘密を言わずに どうやって占いが できるのでしょうか それはどんな 占いでしょう 仏陀の教訓に よると 私達 修行者は 占いをすべきでは ありません   観音法門者にとって 出家者も 在家の弟子も占う べきではありません 私達の法門を修行して いませんのなら 構いません 仮に観音法門の 修行をはじめて 他の仕事を本当に 見つけられなければ 来て また 私に尋ねて下さい 私が解決法を探します マスター 仏教に入った後 以前 他の宗教の マスターに 従っていたならば 異なる教えにどう対処 すればいいでしょうか 例えばこのマスターは もう一人のマスターの 理論に同意しません

どちらの理論が より良いかを判断し 選択せねばなりません

観音法門の修行は 私達にとって非常に 明白で 単純です 私達が議論しなければ ならない曖昧なこと 一つもありません

だれが正しいか だれが間違うかに 関してもはやもめる ことはありません それはもうないです 本当ですか(はい) マスター 家内と母は 馬が合わないのです 彼らの間に挟まれ 非常に苦痛です 母の味方をすると 家内が不満です (分かります) 家内の味方をすると 母親は親不孝と 私に言います 本当に親不孝ですか どうしたらよいですか それで釈迦牟尼仏が 家庭生活は 非常に狭い道で 歩くのは簡単でないと 言ったのです 歩くのは簡単でないが あなたはその上にいて 続けねばなりません 誰もあなたの代りに 歩くことができません 平和維持に努め二人を 上手に扱って下さい でも簡単ではないです それが簡単でないと 皆知っています 古代から 妻と母親の間の 事情は 最も悪名高い話です

西洋人は 違います

東洋人だけに沢山 問題があります 東洋人は常に同居して 孝行を優先して 扱います 西洋人は非常に 独立していて 別々に暮らします 子供たちは 働きに行き 両親もまたそうです 両方とも忙しいです 時に週末に月に一度 互いに会うか 全く会わないかで 彼らは気にしません 彼らは互いを感情で 縛りません あるいは 子供たちを家族の 価値観で縛りません

彼らは若い時から 独立しているので より自由です

マスター 私は ある音が聞こえますが 大変苦痛を感じます マスターによると それは体内の魂です 七年の間  仏号をを唱え頭脳を コントロールする時に この音は常に 私を邪魔します どうすればこの音を 消せるかが分りません

これは悪魔の声です 彼は戯言を言い続けて あなたを寝させは しないでしょう 時々寺院に 崇拝に行って 幽霊に取りつかれたり することもあります 彼らは人々を 悩ますのが好きです この世には こんなケースが多く フォルモサ(台湾)も 多いです あなた自身は 霊修行ができます ええ霊修行です あなた達二人が手を つないで修行します おそらく振る舞いが 良くなるでしょう

マスター あなたがテレビで いくつかの美味しい 菜食料理を紹介する ことは可能でしょうか フォルモサ(台湾)の 徳の高い人々に 大いに天恵を与え 彼らは観音法門を 修行できます ビデオでもいいです いいでしょう

する時間を見つけます 時間を見つけます

現在私は可能なものは 何でも食べます 美味しくなくても まだそれを食べます 私はもう料理しません 時折 時間がある時 私は 弟子の為に料理します

彼らは言いました ああ おいしいです マスターおいしいです もっと料理して下さい

時間を割く様にします いいですか マスター私は 常時ベジタリアンです 仕事に行くと 私は肉を食べる他の 同僚と共に食事を 再加熱せねばならない マスターこれは 戒律に違反するか 教えて頂けませんか

次は蒸さないで下さい 冷たいまま食べなさい 夕方家で温かい食事を 食べなさい 一日に一度冷えた 食事もいいです 

マスター一貫道信者も マスターから 印心を受けられますか 印心後 私達は 一貫道場に戻って 奉仕できますか

はいできます もちろんです 私は随分昔にそれに ついて話しました 自分の信仰を変える 必要はありません 信仰を更に完璧にし より充実させるために 方法に加えるだけです 方法に加えるだけです

以前教理を聞くだけで 内面の体験は ありませんでした 今は教理を 聞いている間  経典に言及されている ことも体験できます そういうことです 仏教徒とか追従者に なるために私に固執 する必要はありません 一貫道は非常に良く 変えねばならない ことは何もありません ここには一貫道の 幹部伝法マスター つまり責任者が たくさんいます 私から学んだ後  彼らは静かに戻って 何の問題もなく 彼らと協力しています マスター 阿修羅界とは何ですか 阿修羅界は 幽霊と眠らない 霊魂がある地域です 私達が死んだとき この肉体を離れた後 私達にはまだこれと 同一に見える  もう一つの体があり それから私達は他の 世界に行って住みます その世界では私達には 肉体がありません それは私達の世界と 似たように見えます より美しいだけです それは阿修羅界と 呼ばれています しかし それは そう単純でありません 簡単に言わせて下さい 阿修羅界には百以上の 多くのレベル いわゆるレベル いわゆる国があります 一つずつ階が 上がっても旅は 果てしなく続きます あるところは 非常に美しいですが ある所は大分ひどく ある所は天国であり またある所は地獄です それが阿修羅界です 昨日マスターは この世界で 実際に肉体をもって 飛べる人々がいるし そして マスターも この方法を知ってると 言いました 誰かが 学びたいなら マスター教えますか 私の弟が 学びたいのですが 問題ありません これは 非常に簡単な法門です 私達中国人は随分昔に それを知っていました 古代中国の軍の専門家 彼らは皆空中浮揚術を 知っていました

一歩進むと それは 飛ぶことになります 高く行きまた次に飛び もっと訓練が必要です それだけです 大体同様のやり方です 大した事でありません 私はむしろ皆が三界を 超えて飛ぶことを 教えたいのです 仏国土まで非常に 遠くへ飛べるように この物質世界の周囲を 飛ばないでください なぜ古代の人々は この補助的な 神通力を学ばねば ならなかったのか それは 古代は 交通手段が 不便だったからです 車がなかったし 徒歩で旅行するには あまりに遠くて  寒くて 危険でした

現在は それを 学ばない方がいいです さもなければ 兵士や 警察が何かと間違える かもしれません

あなたを撃ち落すだけ 厄介な事になります 離陸する前に 地上に留められます マスター 海外の修行仲間は 二千ドルを送ってきて 私にマスターの録音 テープを買うように 頼みました 私はテープを 買いましたが 彼らと 連絡がてれません 彼はマレーシアから オーストラリアへ移り オーストラリアに 着いてからまた 連絡すると言いました どうすればよいですか あなた自身で テープを聞くのです 後で 彼の住所を 知ったら 新しいのを 買ってあげるか 彼にお金を返します 金がなければ 言って下さい  私が無料で彼にあげる 彼はテープを持って いるのが悪いカルマ (報い)を招くかどうか 尋ねました いいえ あなたが故意にそれを 盗むのではないから マスター この世界にはあらゆる 誘惑がいっぱいです どのように 心の 悪魔と全ての欲望を 克服できますか 観音法門を 修行すべきです これはあなたを守る 唯一の方法です 他の方法はできません

マスター ある本と あるマスター達の話に よると人が死んだ後 二、三時間以内に 親類が死体を動かす ことを避けるべきだと 彼が怒り それで 好ましくない場所に生まれ変わるのを恐れ これが真実でなら 死後 臓器の提供や 死にそうな時 蘇生術を受けるのを 避けるべきですか マスター教えて 下さいませんか 他人に臓器を 提供することは 私事です 誰かが死ぬ前に 人に 自分の臓器を提供したいなら 彼の意志に従って そうすべきです 生前にこの願望が ないなら それを 提供してはいけません

あなたは肉体にしか 関心がありません 観音法門を 修行することで 私達はすぐに この体から離れます どこに遺棄されても 構わないのです 何の感覚もないのです 観音法門を 修行しないなら それはとても 難しくなります

修行すれば 疑問がなくなります

マスター 印心を受けると 五代の先祖が解脱 できると言いました しかし先祖がすでに 生まれ変わったなら まだ彼らの ためになりますか はい 同様に彼らの ためにもなります 生きてる人だけでなく 生きている人の ためになります 同様に 生まれ変わった人にも 人間に生まれ変わり より良い人間になると 信じて下さい 彼らには沢山の幸運が あるか 悟った マスターに会います または 彼らが 死んだ直後に 地獄ではなく 天国に行きます 彼らが餓鬼として 生まれ変わったなら すぐに天国の衆生 または人間に なります 苦しい状況から 楽になります あなたは苦しむ人を 救うことができます どれほど昔に亡くなった人でも 無難に 五代と言いますが  実際には 五代だけではなく 九代 多くの世代です あまりに多くを言うと 信じないかもしれない それで私は五世代と 言うだけなのです マスター 仏陀が 私達の心にいるなら なぜ私達の心は常に 貪欲 名声 利益の 欲求がいっぱいで イライラするのですか 仏陀はどこへ 行ったのでしょうか 仏陀は私達に 埋められています 貪欲 怒り 執着により 埋められ 覆い尽くされています 元来 この仏性には 貪欲 怒り 執着は ありません 問題がないのです 外の世界を認識する為 六つの感覚器官を使い 外の世界と 意志疎通を図る だけなのです 私達の頭脳が外の事を 考えていたとします

私達の魂は常にそれに 従います

私達の魂がここに なければ頭脳は何も できず認識しません 従って私達の頭脳は 外に手を伸ばし魂も また非常に忙しい外の 鎖で繋がれるのです 私達は元来騒々しくは なかったとします 両親は静かですが 子供たちは沢山の 騒音をたてます

私達は子供の手を 握って一緒に歩きます 彼が様々な方へ 行こうとするなら 私達はついて行きます

両親はそれで 忙しくなります そういう訳です

よって私達の自性を 探すために私達は内に 到達せねばなりません それで私達は言います 「内在の自性を 聞きなさい」と それで私達は 安定します なぜなら 私達は安定すべきだと 理解するからで 自身のマスターが 小さな宇宙を組織する 時間が持てるのです

そして私達の心は 平和になり 穏やかで落ち着きます すると外の世界に だんだん執着しなく なるでしょう

この超然さは まさに心からです それは完全に手放した 態度です 逃避ではありません

マスター 妊娠しても 瞑想できますか ええ赤ちゃんにとって 更に良いでしょう マスタータバコを 栽培する人は印心を 受けられますか まず新しい仕事を

見つけそれから印心を 受けに来て下さい この種の仕事をする ことは人々の健康に 有害を及ぼします これは私達の 霊修行 健康にも 影響を与えます 衆生の利益になる事は 私達にも利益となる ことです これはカルマ (報い)のせいです それを知っていますか 昨日 兵士は戦場へ 行き闘うべきですかと 聞きました はいと私は答えました これは異なる 状況です 命令に従うために 彼らの国を守り 避けられないのです

仕事なら回避でき 選択できます

よって 私達には責任があり 悪いカルマ(報い)が あります 兵士には悪いカルマ (報い)はありません 彼らはただ上官の 命に従うだけです

良くない仕事を選択 するなら私達はその 悪いカルマ(報い)の 支払いをすべきです

マスター 印心後すぐ 不運にも 死んだ人は 解脱しますか はい します マスター 開悟した後 私達はまだ修行せねば なりませんか はい すべきです 開悟は菩提という意味 ではありません 開悟は単なる 始まりです 修行すればするほど 理解できるようになり 英語を学ぶのと似てて ABCから 学び始めますがそれで 十分ではないのです 英語を話せるまでに あなたは長きに渡り 練習せねばなりません

マスター誰かが真の 最高の方法があると 話し 完璧で絶対的な 方法だとしたら 観音法門を信じるため それを探求する ことを拒否できますか もちろん もちろん 私なら拒否します 私は既に観音法門が 最高の方法であると 認識しているからです 他に何を私は 探求すべきでしょうか マスター以前一カ月に 一~十五日間 ベジタリアン食を しました 今から 私は完全な ベジタリアンです 私には印心の資格が ありますでしょうか

もちろんです 大歓迎します

 
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