智慧の言葉
 
万物の源 第三部/3 一九九〇年一月十日 フォルモサ 高雄(台湾語)   

マスター 知能指数の低い人は 仏陀になれますか

なれます ただ少し待たなければ なりません 来世までです 彼らも印心を受ける ことができ 修行もできます ただ仏陀になるには もっと時間が かかります 誰でも仏陀になれます 人によって個性が 異なるから 仏陀になれないのは 運命の定めですか

個性と仏性は 何の関係も ありません ですから古代から 悟りを開いた マスター達は それぞれとても 異なってみえます 話によると 釈迦はとても慈悲深く 優しい人だそうですが 菩提達磨は とても厳しい目つきで 拳法も できるということです 彼は外道を 信仰している人を 非難しました 彼は仏像を拝み 経典を読む行為は いずれも邪道だと 非難しました 

彼が言った事です

彼が言っている事はとても大胆で鋭いです ナイフで人の心臓 刺すような感じです しかし釈迦は比較的 穏やかな人でした またイエスは人を 寺院から追い出した そうです 彼らがそこで 商売をして 悪い影響を与えたから 彼らを 追い出したのです ですから  マスター達はそれぞれ 個性が違うのです ただの個性です 個性と仏性とは 何の関係もありません 個性は私達の 経歴からできたのです 例えば 私達の知識 趣味 習慣 国民性など いずれもそうです 仏性は 誰でも持っています どんな人でも 個性に関係なく 仏陀になれます マスター あなたは 高いレベルの世界では 物を創るのに 智慧と念力を 使うと言いましたが ある人が この世界で仏陀に なったとすると 彼も念力で 物を創ることが できますか できます 多くの人は 仏陀にならなくても それができます ましてや仏陀になれば 言うまでもありません さっき私が 言ったことは 高い世界のことでは ありません

高い境界では 厨房も必要なく 食べる必要もなく 食べたければ 宇宙から食べ物を 持ってくればいいです そう言ったはずです 全く食べる必要が ないと言ったのです 食べたがるのは 彼らの弟子達です

でもこれは高い境界 でのことで 彼らは 肉体がありません

肉体がないので もちろん 物質的な食べ物を 必要としません 肉体を持つと 食べ物が必要です ですから釈迦も 食事を していました 一日一食でした けれども必ず食べる 必要はありません 本当に食べたく なければ 食べなくて いいのです 食べるか 食べないかは そのマスターの 選択によります 食べる事を選択すると 衆生に利益があります 自分のためでは ありません  彼が食べないと 世界は発展しません

彼が食べるのは この世界の発展を 加護するためです そういうことで 少し食べるのです 釈迦は食べ物の 托鉢に行かなくても いいのです なぜなら彼は 王子だったのです 当時 彼の父である国王は 彼が仏陀のレベルに 達したと知ってました ですから釈迦が 一言言えば毎日 宮殿から食事を 運んでくれるでしょう なのになぜ 毎日托鉢に 行ったのでしょうか 彼ははっきり 言っています  食べ物を供養した 衆生に福報を 与えたいからです

ですから貧しい人の 所にも裕福な人の 所にも行き托鉢します 彼はどんな家であれ 相手を選択しません 彼の弟子達も同じです 供養した人に 福報で報いたいと 願ったからです

仏陀になった後は 食べ物はあまり 美味しくありません 言っておきますが 食べるのは一種の仕事 ですから沢山 供養されたことを 羨まないことです 修行者にとって 食べ物は草を 噛むような感じです 楽しくありません 味に未練がないのです なぜなら何も 美味しくないからです 食べるのは食べるべき だからです 経の 講義もすべきだから します それを好んだ 訳ではなく 弟子達が 懇願したからです 皆仕事です いずれも衆生に利益を もたらすためです マスター自身は 何も必要としません

修行して最高レベルに 達するためには 必ず出家しなければ なりませんか いいえ 必ずしも そうではありません 心で出家すれば それで十分です 出家することの 意義は何でしょうか この三界を超え 生死の輪廻から 解脱するためです 自分の台北の小さな 家を放棄して大きくて きれいな寺院に 移す事ではありません それは出家では ありません  出家は貪り 怒り  愚かさから解脱し  三界から解脱する という意味です これが出家です 修行して高い境界に 達すると 出家してもしなくても 何の違いが ありません 高い境界に達する 前に出家することは 大したことです 全てを手放せて 本当に仏性を 見つけたいと する人こそ 本物の出家者です 人がそれをやるから 僧侶や尼僧になったり 寺院が見るからに 美しいとか 寺院での生活が 楽だからとか 隠居のために出家 するのはいけません それは 出家ではありません マスター 全ての人は 修行に向いていますか 修行に 向いていない人に 修行を強要すると 副作用が生じるのでは ありませんか そうです 人は皆 修行すべきですが みんなが修行できる わけではありません 誰でもできますが 皆がしたいと思う わけではありません  強要も要求もできず 求める人は 自分で来ます 時間がくれば 追っ払っても 来ます ミラレパの話を 読んだ事がありますか 彼のマスターは 七年間も彼を打ち  罵りましたが 彼は離れませんでした 彼は修行する 運命だったのです

マスター 智慧眼で 仏陀を拝むことは 正しいですか いつも映像を見ますか これは幻想ですか 智慧眼で 仏陀を拝むのですか そうです 映像が 現れることがあります このやり方は 正しいのですか それは幻想なのですか あなたが自分の 智慧眼を使うなら 仏陀を崇拝する 必要がありますか 仏陀はあなたの 智慧眼の中にいます 大丈夫です あなたが使うどんな 方法でも良いです 仏陀を見ることは何も 見ないより良いです 仏陀を見てから あなたが菩提に 到達するまで 仏陀の姿の このレベルをあなたは ゆっくり超えます あなたがビジョンを 見た後に快適で幸せで 神の恵みを受けて 落ち着いたと感じれば これは正しいのです しかし不快であると 感じたり怪しい感覚が あったらそれは 正しくありません あなたはこのように 区別する事が出来ます 死は解放ですか そうとは限りません 解放とは何ですか 解放とは私達が 少しの偏見や 普通の衆生や 貪欲や怒りや無明や  生死の輪廻などの 先入観にも 束縛されないことを 意味します  それで非常に落ち着き 安らかになります これが解放なのです 私達がこの体を離れ 他の体に入ることは 解放でありません

それはちょうど服を 着替えるのと同じです

火事で死んだ人の魂は 火事の現場に 残りますか

そうとは限りません 一部の人々は彼らの 悪いカルマ(報い)の せいで このように焼かれて死ぬことになります 焼かれた後に彼は もう一つの世界に 行きます しかし 悪いカルマ(報い)が 非常に 重すぎれば 体が焼かれた後 彼の霊体は 火のような地獄で 焼かれ続けます それは非常に苦痛です 一部の人々は 火事で死んだ後に そのような経験から まだ自由に なれないため 彼らはしばらくの間 まだ火傷していると 感じ 苦しみます しかし しばらくして 彼らは起きて それが 幻想であったことを 理解します  そしてそれは消えます それは全て その人の 意志力が強いか どうか次第です 一部の人々はより頭が 良くてより強いです 彼が死ぬとその魂は すぐにその肉体を 離れて 彼の体が外側から 燃えているのを見ます それで彼は分かります 死んだということが 分かります あるいは 彼により多くの 福報があれば 彼のマスターはすぐに 連れて行きに来ます たとえ彼の悪いカルマ(報い)が 焼かれても 彼の魂はすぐ 解脱するでしょう 焼かれた感覚を 経験する必要さえ ないのです

燃焼はただの形式で 彼の魂は既に 行ってしまいました あなたに開悟した マスターがいれば 焼かれたとさえ 知らないで すでに去って しまいます もう一つの状況は 高いレベルの開悟した マスターでなくても 阿修羅の世界から やって来た この人の親友 または家族が来て 彼に言います あなたは既に死んだ 火事で命を失った でも構いません 上がって来て 私達と一緒に暮らそう それなら苦しみません ある人々は そのような良い仲間 または賢い友人が いないのでより孤独で 彼らはこの体に より執着していて 苦痛を感じます でもしばらくしたら 彼らも良くなります 何も永久ではないです 地獄でさえ 永久ではなく苦痛も そうではありません 私達は知るべきです なぜ私達は仏教を 学んだり修行した時 幻影からの障害に 出くわすのですか どう抑制できますか 幻影からの障害は 私達がどのレベルに 達したかを テストするだけです 私達は平静を保ち 巻き込まれないで ただ見ているだけなら 何でも ありません あまり執着しないで あなたの修めている 法門で魔に取付かれた 状況を抑制して ください あなたが観音法門を 修めていたら どうするか 私は教えました 別の法門を 修めているなら その法門の 指示に 従ってください あなたの法門に くっついてこそ あなたは落ちつき 速く幻影のテストに パスします どんな状況に あっても 戒律をはっきり守り 忍耐し 智慧を使って下さい

戒律をはっきり守り 清い心を保ち 確固とした目的があり それで 忍耐強くいて 瞑想し続けなさい どんな障害に 出くわしても 修行を続けなさい あなたもまた内面の 智慧が出て来て これら幻影のテストを 解決するよう祈ります そしたら障害は とても速くパスします マスター一部の人は 法輪は以前より 速く回っているので 報いもまた 以前より 速く生じると 言っています あなたは同意しますか そうとは限りません 思うに報いはより速く 来るとは限りません ですから社会では まだ多くの 善良な人たちが 苦しみ続けています

そしていわゆる悪事を 働く人がまだ快適な 生活を送っています

だから報いはそんなに 速くありません でも開悟した マスターに出会ったら あなたの悪いカルマ(報い)は非常に速く 解消します

マスターは あなたの数十億年の 悪いカルマ(報い)を この一生涯で 解消させ あなたは 何も後に残さずに 一生涯で 解脱できます 私達はそれが速く 解消されたと言えます でなければそれは どの時代でも同じです 人も同じです 何も余り変わりません すべては そのままです マスター人間は平等に 生まれて来ますか 平等ではありません 新生児を 見てごらんなさい 彼らはまだ 悪いカルマ(報い)を 造らず 悪い事もしていません でも全ての赤ちゃんは 同じではありません ある者はとても邪悪で 他はとても善良です ある者はとても腕白で 他はとても従順です ある者はとても聡明で 他はとても愚鈍です 私に聞く 必要はありません

仏陀の仕事をしたり 仏陀の名を唱える ことによって無量の 福報が得られると 殆どの仏陀は言います どう解釈しますか 在世仏のために働き 在世仏の 名を唱え 常に彼のことを 思うなら もちろん無量の福報を かせぐことができます いろいろな 世間の宗教と 仏教の違いと類似点は 何ですか それらは互いに 矛盾していますか 矛盾している 宗教はありません 時々私達が 正しく翻訳しなかった からです これが一つ目の理由 二つ目は 私達はそれらを 聞いているとき 理解さえできないのに それらを書きとめ あちこち変更して もっと難しく しています その上 同じものに異なる 用語を使っています それだけです 私達が開悟した後 何千もの宗教は 一つだと分かります 五大宗教だけでは ありません 全ての宗教は一つです 法華経の中には このような 一節があります 曰く「すべての法門は 仏法である 私が 理解できないために 無明に従う でも菩薩の智慧の中で 自身が 不浄だと感じる でも解脱の境界では 縛られていると 感じる」 そういうことです

すべての法門は 仏法です 仏法でないものは ありません 魔法でさえ 仏法の中にあります ただ私達が無明なので 間違った方向に 従います 仏陀の方向に 向かい始める前は 長い時間がかかります たとえば 家にはトイレが あります リビングルームも あります トイレがきれいな場所 ではないことを 知っているべきで 良い場所ではないです でも必要な場所ですが 一日中トイレに座って いることはできません それだけです

私達が「トイレは 臭いから必要ない」と 言ったとしたら それは間違いです しかしながら私達が トイレは必要でそれを 賞賛し それに執着し 昼夜そこにいたいと 言うなら もちろん私達自身の 問題でしょう マスターどうやって 私達が世々代々輪廻を 乗り切るのを証明 できるでしょうか 私達は輪廻転生から 解脱できますか

非常に簡単なことです 観音法門を修行した後 あなたは知るでしょう いつどんな方法で 慈悲深いマントラ クンディマントラを 毎日唱えたら 一番良いでしょうか 好きな時にいつでも いつでも良いです 誠実である限り でもあなたが明確な 頭脳で唱えたいなら もちろん朝が 一番良いでしょう 朝の時間か 寝る前に 深く誠実に 唱えます 智慧を得る 目的のためにそれは 少し助けとなります あなたの口だけで 何となく唱えるなら あなたの智慧は 買い物に逃げ出します それでは役立ちません どんな形式も全く 必要としていません 誠心誠意だけが しかるべきものです 「在世仏」の意味は 何ですか 在世仏の意味は現在の 仏陀でまだ他界しては いない者のことです ある人々は経典を 暗唱することで より 速く感応を得られ他の マントラを唱えるより 早いのは真実ですか どう違いがありますか いかなる種も何も 違いがありません 何であれ誠意を尽して 行うなら私達は 感応を得ます しかし私達が 何をするにしても 開悟したマスターから 学ぶなら 私達は何をしても 速い感応を 得られます 開悟したマスターが 私達に法門を 伝達していないなら 私達が一番良い経典を 与えられても私達は 理解できずそれを 唱えても無駄です それだけです 仏教経典の中で なぜ仏陀にはレベルが ないと言っているのに 仏陀の境界とあなたは 言うのですか 境界なしでどうやって 彼を見るのですか もちろん彼には境界は 必要ありません

仏陀はいかなる道具も 必要ではないのです ただ彼のレベルは 非常に高すぎるので 彼が創りだした境界 形のない状態のまま どのように私達は 彼を捕まえられますか

彼は肉体に姿を 変えねばならずそれで 私達には彼が見えます 境界がなくてどうして 彼が分かりますか

私達がいったん仏陀に なれば私達には もはや境界はなくなり でもその前に仏陀は それでも私達に境界を 作る必要がありました そうでなければ どこに留まりますか 仏陀には境界は ありませんが 境界もあります 一つ欲しいなら 一つあるのです 彼が無を望むなら それは無です 私達自身の霊性の レベルによるのです 彼のレベルではなく レベルがどうであれ 彼は私達のレベルを 変えられます 私達が未だにその辺を 走り回るならこの 物質世界に輪廻転生 するなら彼は平凡な 人間に変わらねば ならず 私達のように この世界で生き 私達を教えるために 走り回ります 私達の霊的なレベルが 少し高くなって  阿修羅世界に達する時 阿修羅の世界で 私達に阿修羅の方法を 教える彼に 会うでしょう 私達がさらに高い 高いレベル  優れた 第三界に達する時 彼はそこで 第三界を超える 方法を用いて 私達に教えます 私達が仏陀になった後 彼は私達を 自由をさせます

こんにちは マスター 誰かを怒ったら 誰かを怒ったら なぜその人に福報が 行ってしまうのですか 私達が 貯めた福報が 燃え尽きるということ でしょうか 非常に難しいです こういうことです 怒っていない時は 私達の心は穏やかで 誰が正しくて 誰が間違っているか 誰が友達か 区別できますが 怒っている時は 家族や友達さえ 殴ったり追い払ったり 殺しさえするでしょう

誰かを殺したら もちろん 福報を失うことなど 言うまでもなく 国民としての 権利さえ失い 警察に 収監されるでしょう

怒っていると その人も仏陀で あることを簡単に 忘れてしまうのです

それで その瞬間 非常に低いレベルに 落ち その瞬間に 福報を全て失うのです 上るためには一生懸命 働かねばなりませんが 一度落ちたら 再び上るのは 非常に大変です

ここからそこまでは 非常に長い道のりです それで再度始めねば ならないとなると 非常に困難です

だから侮辱に対して 寛容を修行するのが 大変なのです

マスターチンハイ私は まだ印心してません 家であなたの 「問答集」を 読んだだけです 最初は 私の家に 黄色い光の輪が 現れるのを見ました 次に あなたを見て 泣いたりしました 三番目は 地面に立っているのに 頭が天まで届いてる あなたを見ました

おやまあ 私はとても小さいのに どうしてそんな幻想を 持ったのでしょう

彼には何か 質問があるのですか (質問はありません) ないんですね ただそう書いたのです それはあなたが開悟 してる事を示してます あなたにはちょっと 体験があるのです 私が即刻開悟と言う時 それを意味します

マスター 今日 ついにあなたの体から 金色の光が放たれて いるのを見ました 私が霊的に進歩した ということですか そうです 私ではなくあなたが 進歩したのです 私はいつも同じです マスター 怒りや憎しみが 生じたら どうしたら 解決できますか

愛を使うのです しかしまず 内在の 愛の力を見つけて 初めて 人々を 真に愛せるのです 誰もが人々を 愛したいのです 私達は心の奥底で 本当に人々に親切に したい 愛したいと 思っています ただその人との 非常に深い カルマの関係のせいで それができません 時々 その人が 前世で私達に 何をしたか分からず それで 今生で 彼にあった途端 彼を嫌いになって しまうのです これは必ずしも私達の せいではありません そうではありません

皆さんに 人に腹を立ててもいい という言い訳を与えて いるのではありません 私が言っているのは 公平に言って 誰かに腹を立ててる時 必ずしもあなたのせい ではないという事です 前世で彼はあなたに 残酷だったかも しれません それで 彼を見るたびに 腹が立つのです または今生で 一、二度 彼にひどい 扱いをされ それで 彼を許せないのです だからこそ 私達は 内在の愛の力を 見つけねばなりません そうすれば 誰にでも寛容になれ 許せるのです

これが 観音法門を修行して 見つける 仏性なのです 仏性とは 愛の力であり 愛であり 神なのです 神は愛だからです

それは私たち自身の 根源的な愛です 人間が持って生まれた 善良さです それを見つけた時のみ 私達は他のものを 愛せるでしょう たった今 他の方法は効きません 私が一〇〇年 愛について語っても 愛です 愛と 皆さんは言います 「ええ 分りました そうです」と でも 家に戻って彼の顔を 見るとすぐ また 怒ってしまうのです マスター もし人が 親切や愛の心で 人や何かを扱うことが できたら 仏教徒に ならずとも なおも 仏陀になれるのですか そういう行いだけでは 仏陀にはなれません あなたは牛よりも 親切にはなれません 内面にはまだとても 微妙な怒りがあります

その微妙な怒りが 私達を阻害し 自分の仏性を 見ることを妨げます ですからなおも怒りを 消す必要があります それを消し去るには 自身の無上の智慧しか 使えません それで完全に 開悟できるのです 人は死ぬ前に仏陀の 境地に達してのみ 役に立てるのです 死んでから 仏陀になるまで待つと いうのではないのです

死ぬ前に医者になる 勉強を全くしないで どうして死後 医者になれるのですか

ですから この一度の生で 仏陀になりたいなら 解脱したいなら 悟りを得たいと 思うなら 観音法門を 修行すべきです そうすれば 仏陀になれるでしょう 善行をするだけでは 到達できません あまりにも多くの 善行があります 時々 私達が 善行をするのは 過去世の人々に 負っているからです 自分自身の善良さから 常にこうした善行を する訳ではありません 誰かに腹を立てるのは 必ずしも自分のせい ではないと言いました したがって 誰かに親切であるのも 必ずしも自分の善良さ からではありません

これらすべてが そのまま因果です ですから 智慧眼で 観るべきです  何が良くて何が悪いか 知るためにです まず 仏陀になり それから死ぬのです

マスター 私達が善行をし 悟りを得る目的で 霊修行を 行うのであれば それは一種の 執着ではありませんか いいえ全く違います 仏陀になるという 動機で霊修行を するならです たぶんあなたには良い 主張があるのでしょう ですが 仏陀になる という動機は とても気高いものです

私達は未だに 凡人です 何かの動機なしに どうやって行いますか

あなたは幽霊ではなく 仏陀になりたいのです 何が問題でしょう そこから始めた方が 良いのです マスター 霊界を 見ることはできますか

できます 修行仲間はたくさんの 世界を見ています

慈悲深いマスター 私達は内面に仏陀を 見つけねばなりません どうやって悟りに 達するのでしょうか (彼に言って下さい) 印心を受け観音法門を 修行してください

マスター 心の平安を 見出す為にどうしたら 心配事や劣等感 迷いを除去できますか (彼に言って下さい) 観音法門を 修行してください こんにちはスプリーム マスターチンハイ 母は私の霊修行に 反対しています 母の願いに反して 霊修行を主張しても いいですか どうしたら母と 理解し合えますか 一方では  お母さんと 理解し合うべきです もう一方では 霊修行で 決定すべきです 愛と親孝行の心で 彼女に話して下さい

しかし 優しさと愛 親孝行の心ですれば 間違えません 霊修行が彼女の願いに 反していないことを 彼女に知らせて下さい それは彼女や社会や 自分にとって 唯一良いことです なぜなら霊修行は 不殺生や不窃盗で どんな社会慣習の違反 行為でもないからです

霊修行とは 「布施をする 戒律を守る 侮辱を忍ぶ 精進修行をする 瞑想を行う そして 智慧を獲得する」です 何か問題がありますか 一人悟りを開けば 家族九世代が 超生することになると 彼女に言って下さい 親孝行のために 霊修行をしていると 説明すれば 彼女は分るでしょう ある母親は 自分の子供がいったん 霊修行を始めたら 頭を剃って 出家して 出て行って しまうと心配なのです そんな事は起らないと 彼女に言って下さい あなたがしたい事では ないと伝えて下さい ある母親は 子供が霊修行したら 子供は天国へ昇り 自分は地獄に 落ちる事を 心配しています 起らないと伝えなさい 私と共に修行すれば あなたの母親も一緒に 天国へ連れていけます そして転生しても あなたと一緒にいます 実に楽しい事でしょう 仏陀がとても慈悲深く パワフルなら なぜ苦しんでる衆生が まだいるのですか 彼らがそれが 好きだからです 彼らは苦しみが好きで 仏陀に従いたく ないのです 彼らは自分の道を 歩きたいのです 例えば 私は南へ行きますが あなたは北へ行きたい というようにです どう止められますか 誰もが自由です 誰もが自己の課題を 学んでいます 真に地獄はありますか 世界を見てみて下さい そしたら分るでしょう なぜ聞くのですか 霊修行とは 生きている内に 第三の目で 自分が一緒にいたい 人や事物などを あらかじめ見て 死ぬ時が来たら 自分の行きたい世界が 即座に目の前に現れる ようにする事ですか これが 「心を育む」とか 「功徳の田に種をまく」 と言われるものですか

それに似ています しかし これは非常に 限られた考え方です 非常に高い霊的 レベルに達したら どんな世界をも 選びすらしません 私達は唯そう在ります 私達はどんな世界へも 行け そこへ行きます その時 私達は 仏陀の境地に達します

ある仏教出版物では こう語っていました 出家をすることは 恩に報いる 最高の方法だと それは私達が 境遇に関係なく 出家できるという 意味ですか いいえ 出来ません あなたが一人息子で 両親の世話を しないでいたら 彼らが飢えて凍え 死ぬのに任せていたら あなたの出家に 功徳はないでしょう また あなたが在世の 仏陀を見つけた時のみ 出家することで 功徳が得られます ただ剃髪してどこかの  寺に行っただけでは 得られません

ラビングハット 世界各地の店舗

アジア太平洋 北アメリカ ヨーロッパ モンゴル フォルモサ(台湾)

ラビングハットの 開店に関する更なる 最新情報は常時アップ 現在43箇所 更新済み 23の新店舗は まもなく更新 どうぞお近くの ラビングハットを または世界のどこでも 私達のウェブサイトか スプリームマスター テレビジョンで 引続きご確認下さい

私達は皆 天に 助けを祈ります みなが天国にいるって いうのはどうでしょう 他の衆生の避難所です 従順なものを守って 困窮者を助けて ベジになって エコを実践 良いことをして この家を救いましょう 子供たちのために ~スプリームマスター チンハイ

 
全ての番組を検索
 
 
一番人気
 道士 柴 鄭 珍の物語 2/2 二〇〇八年九月九日
 指導者の本拠のための吉祥地、世界平和への恩恵 1/2 二〇一一年八月二四日
 私達の未来を守る指導者たち:気候変動の速度と優先事項1/7 英国 二〇一〇年十一月三日
 黄金時代への人類の跳躍 -ワシントンDC気候変動会議 第一部/10  二〇〇九年十一月八日米国
 「子供達の健康と持続可能な地球」済州島国際会議 第一部/8 二〇〇九年九月二一日 韓国 済州島(英語)
 在世の生けるメシア 1/4 米 、ハワイ 一九九四年九月三日
 美しい星への解決法 1/9 二〇〇九年八月十五日 タイ ノンタブリー
 地球の結束:共に生命を救う 第一部/8 二〇〇九年十月三日 香港
 魂の再会 1/3 二〇〇〇年四月二七日 ニュージーランド 、オークランド
 国際人権会議 1/5 一九九四年五月二五日フォルモサ(台湾)台北(中国語)