智慧の言葉
 
仏陀は内面の神の智慧と交流する 1/3 一九八九年七月九日‐香港(中国語)   
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ある日あなたは本当に 仏陀になります 信じられないなら 「観音法門を通して のみ自身が仏陀で あると認識できる」 と題したテープを 聞くといいでしょう

よく言われる事ですが 自身の重く悪い カルマ(報い)のせいで 私たちはこの世に 人間としてや やって来たのです しかしカルマ(報い)は 実際何なのでしょう 悪いカルマ(報い)は 浄化できますか マスターは 実際私達には 悪いカルマ(報い)は 元々カルマ (報い)などないと 教えるでしょう

実際カルマ(報い)は あなたが考えるほど 深刻なものではなく カルマ(報い)とは ただ私達の 悪い記録 習慣 良くない考えで 世々代々記録されて 来たものです それは一つの法門で 消滅できます 時々カセットテープが 不明瞭で何度も綺麗に せねばならないのと 同じで その方法を 見つけるべきです また世々代々記録 された悪い習慣 行為 考えを浄化する 方法もあるのです それが観音法門です 時に私達は不思議に 思うかもしれません

多くのマスター 多くの世界の偉大な マスターと呼ぶ人が いるので いったい誰が本当の マスターなのかと 誰が真の正しい 法門を教えていて 本当の道に到達してて 完全開悟に 達していて 仏陀になっているの しょうか あなたが 判断に使える基準を 幾つか ご忠告することに 致しましょう 第一に 真の偉大なマスター 本当に道に到達した 人は人々にこの世俗の 快楽を求めるように 奨励はしません 誰かがあなたに 世俗の素敵な事 快楽にふけるのは良い と言うならあなたは 彼が真のマスターか 質問せねばなりません 二番目は 真の偉大な 霊修行者は 非常に公正で寄付を 受け取りません

真の 開悟した人には 智慧と慈悲が あります 彼は本当に自由で 単純で平和です これらの幾らかの 基準であなたの マスターになり得るか 判断に使えます

よく言われるのは 行為は言葉より 説得力がある 私達が常に クッキーは美味しいと 言いながらクッキーを 食べないなら それらの味は一切 分からずじまいです 従ってあなたが真の 仏教徒カトリック教徒 イスラム教徒なら あなたの宗教の教えを 懸命に 修行すべきです 経典の言葉を ただ知る 代わりにです ただその教えの修行を 通して私達は真に その経典を理解できる というものです

私達はしばしば 仏陀が優しさと 慈悲を表していると 感じるでしょう しかし仏陀はよく いわゆる厳しい 厳格な法門も 教えていることを 知らないでいるかも しれません これは陰陽の バランスです 仏陀は愛と教育を 私達に授け 厳しさと優しさを 示します そのような人が 真に開悟し 道に到達し 仏陀になった人です いつか私達が 修行を通じて 完全に陰陽の バランスが取れたなら 私達は仏陀に なることでしょう

よく言われるのは 私達が善行をすれば 私達は天国へ行き 悪行をすれば 地獄へ行くと しかしどこに天国と 地獄がありますか

キリスト教を含む 宗教の多くの信者は しばしば彼らの信じる 神の存在を疑います 多くの人々は 神が本当に存在するか 疑問を持ちます 哲学者サルトルは 宣言さえします 「神は死んでいる」と 神は存在していますか

マスターは本当に 神が存在するなら 誰が神なのか言います 通常 私達は 霊修行者は単に 線香を燃やし 仏像に礼拝し経典を 暗唱すると思いますが それでは不十分です マスターに追従し 法名を持てば 十分だと思います マスターと弟子 彼らの関係が 親密であろうと それでも十分では ありません 真のマスターは私達に 教え 訓練し 奇跡的に面倒を見ます 私達が危険に陥った時 その人は救いに来ます 何か過ちを犯したなら その人は即座に 思い起こさせます その人は何十億もの 化身を持っている からなのです 印心後 各自が 自らのマスターの 化身の存在を持ち それは彼の 面倒を見ます あなたは過ちを 冒せません 小さな 過ちでさえもです

マスターと弟子の 関係は両親と 子供達のそれより 深いのです 深いのです

菩薩と阿羅漢の 違いは 何でしょうか 私達は仏教において 異なる多くの到達 レベルがあるのを 度々不思議に思います その関係は 何なのでしょう

菩薩と阿羅漢は ある面 実際同じだと あなたは知ることに なるでしょう 私達が区別するために 彼らを異なる名で 呼ぶだけなのです

私達は彼らのレベルが 異なると言いますが 実際 彼らは通常 異なる仕事をします 彼らは皆 素晴らしい 霊修行者です そのようなレベルに 到達するために 霊修行者は多くの 訓練を経験すべきです

私が強調したいことは マスターは他の 平凡なマスターとは 異なることです 観音法門を 教えるだけではなく 一世で解脱させ また道徳的行為も 教えて下さっています 言いかえれば あなたが一世で 本当に解脱したいと それほど思わず 代わりに 良い人になりたいと 思うならマスターと 共に修行することは 正しい選択です マスターは厳密な 基準を私達の日々に 課すからです 先程言ったように 私達は小さな過ちも 犯せません 取るに足らない事で あっても悪い事は すべきではないです

しかし私達が一種 そのような考えを 一瞬でも持ったなら 彼女は私達を称え 激励します 厳格な父のように 面倒を見て  母のように愛します

彼女は私達に決定的 効率的 清潔に 早く事を成すことを 教えます 同時に愛する母が 私達の面倒を見る ように接します 例えば 今日 この講堂に来る前に マスターはインド料理 店へ菜食を食べに 行かれました 彼女はそこの料理を おいしく感じ 私達を我が子のように 考えてくれました それで彼女はそこで 一時間以上も待ち 沢山のインドの主食 「チャパティ」を持ち 帰って下さいました マスターは常に私達 彼女の子供達のことを 考えます

彼女がどこへ行こうが 似たようなことが マスターに追従し アメリカ 中南米の講演 ツアーに付き添った 時にも起こりました 私達はマスターに追従 する子供の団体です 私達は皆マスターの 世話をしていたように 見えましたが 実際はマスターが 私達の面倒を 見ていたのです 仕事をした後 毎回 私達が家に帰宅する まで休みませんでした 彼女が疲労していても 彼女は私達が家路に つき遅い夕飯を食べ 終えるのを待っていて くれたのです

私達とおしゃべりして 下さり慰めてくれる のでした 彼女が 休む前にです 彼女がいかに疲労して いても関係なく 彼女は常に衆生のこと 彼女の弟子 子供たちのことを まず考えていました マスターについて全て 説明することは とてもできません 私達はただ 自らの智慧を用い 心でそれを 感じ取れるだけです では張シスターを 招待しましょう

いかに印心したかに ついてお話し頂きます では張シスターを お迎えしましょう うまく話せないなら どうかお許し下さい ステージで スピーチをするのは 始めてなのです

マスターの講演前に マスターの ポスターを見ました この期間中に 決断をしようとした時 私は普通でない 感覚を覚えました その期間に どう早く変われたのか 分かりませんが 私は食肉をやめた ことを決して後悔して いなくて 生涯 菜食でいることに 後悔していません 印心後  私は完全に違う人に なりました 印心前は 私はよく自分で 肉料理を たくさん食べていて  お腹が痛くなるまで 沢山食べたこともあり それでも肉を 食べ続けたいと 思いました

肉のにおいが良くて 美味しいから 食べ続けたい訳では ありません なぜ食べたいのか 分かりません これをすることで 自分を苦痛にしている ように見えます いつも自分は太って いると思い  皆もそう言います 一度 減量を 決意しましたが 肉を見ると 食べてしまいます それは自分を責めて いるように見えます たとえ 食べたく なくても 食べてしまい どうしてそうなのか 分かりません 印心前の まだ肉を食べていた頃 とてもどん欲で もっと欲しくて 大きい物が欲しいです

私は短気で とても怒りっぽいです 笑ったりもしません 私の知人は 私の事を 冷たくて いつも 怒っているみたいで まるで私が村全体の 狂気かのようでした 時に 他の人が 笑ってるのを見て 何で皆 私が ずっと怒っている ように見えるか 不思議に思います なので親しげな笑顔を 心がけますが 私が笑うと 苦笑いに 思います 時に 笑う代わりに 泣きたいと 思ったことがあります 笑えませんでした とても不満で 大きな重荷を 運んでいるような 様々な心配が あるように見えます 開けません

ジョギングしている 時でさえ 不体裁で 重く感じます 走れず 簡単に 呼吸もできません しかし 印心後 走っている時 すぐに 軽く感じました さらに 気分も より良くなり 感情なしに 一日中 笑えます 重荷の ように感じます さらに 私の笑いは 自然にきます 菜食を 続けてから とても明るくなり 機嫌も以前より 良くなりました 簡単に 人に 怒らなくなり 彼らが私を 怒らせてもです もう他人を簡単に 嫌いになりません なぜか分かりませんが 昔は常に人に敵意を 感じていました

誰も私に 親切でなかったり 背後で 悪い言葉を 言ったら 私は怒って その人を 憎むでしょう しかし印心後 マスターの導きに 従った後 もうそんなに重荷を 運んでいないようで より軽くなり 精神的により軽くなり  重荷が減ったように 感じました さらに 印心前は 多くの人は私のことを 話す前に よく考えない人だと 言っていて いつも批判をすると 言っていました 私はとても心が狭く 貪欲で 怒りっぽかったのです しかし 印心後 もっと親切になったと と感じます

また 印心前は お化けと虫 例えばゴキブリや アリが 怖かったのです それだけが 怖くて  本当に嫌いでした 彼らを見るたびに 気に障って 踏み殺していました しかし さらに 怖かったのが 彼らがお化けになって 私を探して 復讐するために 来たのだと思いました なぜ そう思ったのか 分かりません しかし 印心後 もっと友好的になり ゴキブリやアリを 見ても気分を 悪くしませんでした 私が印心で 何を受けたのか 分かっているようで 生まれ変わったように 彼らは来て 私の 邪魔をしないのです

私の前を 飛び越しても 私を噛みません これが心理的なのか 分かりません 印心によって 私に喜びを もたらしたのは 映画をみて得る 幸せとは違います 代わりに  甘くて 平和な幸せのように 感じます このよう感覚は 人は経験して おくべきです ただ他人の 話を聞いている だけでは 体験できません 印心から 一、二日後 あまり 慣れていませんでした 以前 沢山の肉を 食べていたからです しかし 印心後 純粋なベジタリアンに 変えたのです

さらに マスターの 教えを得てから 私は完全に違う人に なったのです 従って 完全に違う人に なってから 突然ぎこちなく 感じます 印心前は毎日 お肉を食べるような 肉食系でした 印心後は 全く肉に触れない 聖人のようになり 動物と虫を愛し 守る人になりました なぜなら 私はすぐに 高く上り それが信じられず 受け入れませんでした それは本当に 違ったからです これをどう説明したら 良いか分かりません 経験をしたら 分かるのです ありがとうございます

では 謹んで マスターから お話を聞きましょう ありがとうございます

昔は 人々はとても 懸命に修行し 天耳と天眼が ありました このような複雑な 機材を使う必要が ありませんでした 今日 私達は 電子耳と 眼に頼っています 悪くありません ないよりましですが もちろん 完璧では ありません 最善なのは 自分の 天耳と天眼を 改良させることです 超能力が あります 天眼とは 何ですか そこに座っていますが 数千キロも先が 見えるのです そこで何が起こってる のか分かるのです それが天眼です そこに座っていて すごく遠くで 何が起こっているのか 聞こえるのです それが天耳 なのです 他にも 超能力がありますが 今日は超能力の 講演をするために 私は きていません

大国でも 小さい国でも  一つの言語を話したら 劇的に 成長するでしょう そうですね 例えばアメリカです

見ましたか アメリカは 大きな国ですが 一つの言語を話します 彼らは非常に早く 成長していませんか アメリカ人は民族を 二百年以上で造り でもまだ彼らは 世界一です 中国の五千年の 文明化は どうですか 文明化されているのか 伝達されてないのか 私たちが統合できない ので 私たちの文明は 発展できません 全世界は私達の中国の 文明を崇拝します 私はこれが非疎通の 文化であると思います

私達が人々が感嘆する 長い歴史と 上品な慣習を持っているのは本当ですが それは二、三の人々の ためだけのものです 例えば 老子と孔子は とても有名です 孟子 墨子 仏陀は一つの言語で 話します 衆生は自分のレベルと 基本的な理解の程度に 従って異なって 聞くでしょう しかし 私たちが 「一つの言語」のこの グループに加わりたい と思うなら同じ法門を 修行すべきです まるで電話通信体系に 加入するようにです

そして 私達はどんな 場所 どんな家 及び 世界のどの国の誰とも 話すことができます しかし 私たちは 電話線を申し込んで それを私たちの家に 繋ぐ必要があります その後に 電話はただ私達の家の 中の私的な回線ですが それは世界中の どんな国のすべての 電話にも接続されます 私の話が分かりますか その時 それは非常に便利です 同様に この観音法門は 宇宙の中での 通信体系があるので とても強力です それは線なしで全ての 場所に接続します

これは「無線電話」と 呼ばれています 釈迦牟尼仏はこの 「無線電話システム」に 接続されているので 彼はすべての衆生と 疎通できます 観音菩薩も 観音菩薩も この「無線電話体系」の 最高の地位を 成就しました そんなわけで 彼女は 一切の衆生の祈りを 受け取れます 世間一般の人々は 観音菩薩  イエス キリスト 釈迦牟尼仏 阿弥陀仏に助けを 祈ります 彼らがなぜそのような 不可思議な力があるか 尋ねた事がありますか

元々 彼らは私たちの ように同じでした 少なくとも釈迦は 普通の人間として 生まれたし私達と同様 二十年以上も 遊びに耽っていたと 聞きました 唯一の差は 彼は私達  より更に大きな喜びを 楽しんでいたし より高い地位 そして もっと快適な人生を 享受したことです 彼は楽しむ方法を よく知っていました でも突然 家を出て  すべての現世の喜びを 捨てました これは至難の事ですね 本当に難しいことです 大抵の人はできません

私たちは つまらない 富を持つだけでそれも 諦められません 六年後に 彼は宇宙で最高の 悟ったマスターに なりました そして 彼は自分の パワーと智慧を使って 多くの弟子の世話をし 彼らも偉大な マスターに 変わらせました 釈迦牟尼仏が 生きていたとき 彼の弟子は王より 更に大切にされました 多くの王は平伏して 彼らに 祝福の代価で 供え物を捧げました 普通の出家者さえ 普通の出家者さえ 高く尊敬されますので 在世仏の出家者は 言うまでもありません 彼らの智慧は 一般の出家者のものと 異なっています したがって 私たちが在世仏の 出家者に会うのは 非常に貴重です このようにして 釈迦牟尼仏の弟子は 人々によって 高く尊敬されました

彼らがいかにそんなに 偉大になったかを 尋ねた事がありますか 自問してみたら 私にも希望があると いうことが分かります 彼らもまた凡夫で 普通の人間でした ある者は無知だったし ある者は殺人者 ある者は泥棒でした ある者は社会の非常に 低い階級の出身で シュードラでした

最も低い階級です 彼らの仕事は トイレを掃除し 人間の排泄物を使って 肥料を作る 最下位の等級でした そのような人々さえ 釈迦牟尼仏によって 聖者 阿羅漢に 変えられました 王さえ彼らに跪かねば なりませんでした 彼らは仏に従って修行 した後 非常に異なる ようになったからです 彼らは内面が完全に 変えられ 新しい人に なりました なぜそれ程速いですか 聞いてくださいね 私たち皆は 仏陀は 心にあると聞きました そうでしょう 

はい しかし私達は心にある 仏が見つけられません いわゆる 悟った マスターがいるなら 彼が誰であろうと 彼は私達の仏の心が どこにあるか知り それを見つけるのを 助けて 私達はすぐに 仏陀にとても近くなり 非常に強力になります まるで私たちが家宝を 持っているようですが 鍵を持っていなくて またそれがどこに 隠されるかを知らず それを見つけてくれる それを開くに鍵を 与えるくれることが できる人はいれば 私達は突然億万長者に なるでしょう

私たちの人生は 突然非常に異なる ようになりませんか そういうわけで 印心を受けた後 弟子の多くは完全に 変わりました 彼らが内面の宝を 見つけたからです 私が彼らに何も与えた というわけではない 宝はあなたのものです 仏性は あなたのものです 智慧はあなたのもので 私はあなたにそれを 発見するのを手伝って その利用方法を 教えるだけです この宝を利用する事が できないなら 本当に残念です

この宝 この仏性 つまり 天国の王国によって 私達は全てを 知ることができます 内なる聴取能力は 遠くから宇宙全体を 聞くことができます 言語障壁がありません 例えばすべての衆生の 祈りをはっきり聞き 私が仏陀になったと ちょっと仮定して 私はただ家に座って 皆さんに印心できます あなたが自宅で困って 私の分らない広東語で 話してくれると どうなるでしょうか 私はわかります 本当に誠心誠意で あれば 私の化身が あなたの家に来て  広東語であなたと 話しているのを 見ます すごいでしょう そうでしょう はい 例えばの話です

しかしこれは可能です それは起こりました つまりそれはできます さもなければ 仏陀 又生きているマスター 仏陀は「悟った マスター」の意味です

「仏陀」は サンスクリット語 からの訳です 「悟ったマスター」 「悟った衆生」 「悟った聖人」或は 中国語で聖人という 意味です 分りますか 偉大な聖者 偉大な霊修行者 そのような意味です 仏陀になったら 様々な国から 弟子がいます 彼らが困っている時 翻訳する人が 必要だったら彼らを救うのに とても 遅れるでしょう それで 仏陀に なった後 それは 非常に便利です 耳を使わなくても 聞いたこと何でも 分ります 電話を使わなくても 弟子たちが必要とする 衆生が必要と するものを知ります

目を使わなくても 世界中の弟子が 何を必要とするか 彼らに何が起こって いるかが分ります そして 彼らを 助けることができます 世界の文明は決して 十分良い状態に 発展できません 決して仏陀になるほど 強力ではありません 私が仏陀になり 異なる言語を話す 様々な国の弟子が いるとちょっと 仮定してください 話を聞くには 助けできるために どれくらいのイヤホン どれくらいの翻訳を 必要としますか これは非常に面倒です

それで 私たちは心を 通して交流します 私達の最も微妙な 内なる深遠な智慧で 私達は理解し合います 外面の言語 形式的行為 お花 線香または果物を 使用せず あなたは花 果物 および線香を 私に捧げます それが尊敬を払う 伝統であるので 私が講演するとか 印心するのにそれらの ものが必要であると いうわけではないです 印心はこれらのもの または赤い封筒を 必要としません 印心は私達の最も深い 感情を表すために 心を使っています

たとえば 時々 私は半日間話しました それでも 人々は わかりません そして 私は言います 「たとえ私達が言語を 通して理解し合う 事ができないとしても あなたの心は私の心を 理解できます」 それは真実でないか それで 中国の伝統で 無言の方法によって 法脈を伝えます それは心から心への 伝達です これに理由があります インドに 笑い話があります 一人の悟ったマスター つい先頃 他界しました

内なる素晴しい智慧で あなたが何を考えても 彼はすぐに分ります あなたが言う前に 彼はすでに応えました これはマスターが あるべき姿です 行動を取る人々の 外観に基づく 代わりに 彼は人々の 心と彼の弟子の心を 知らなければならない すると助けられます それは一人ひとりの レベル 個性と智慧が 異なるからです 皆に同様に対処すれば 成長できないでしょう 意味が分かりますか 従って 悟ったマスターとして マスターであることは 衆生の心を理解 衆生の心を理解 しなくてはなりません

この能力がなければ 悟ったマスターとは 言えません 悟りというより 無明なのです そのマスターは 本格的に開悟した マスターです 彼は厳しく弟子を叱る ことでとても有名です 沢山叱りました 悪いことをするまで 叱るのではなくて 悪い考えがあったら ただちに叱るのです 周りの人は 理解できないかも なぜその人を 激しく叱るのか 可愛くて大きな目を 丸くして大人しく 座っているのに しかし マスターは 彼の心を知っています 物語を話しましょう ある日 マスターは そこに座っていて 多くの人が 彼に会いに来て 供物を献上するのを 見ました

それで 彼は 供物を皆と 分かち合いました 彼はこのようでした その日 ちょうど バナナがありました 非常に特別なバナナ とても美味しく ピンク色の皮でした どこにでも手に入る 物ではなくありません とっても美味しい 彼は人々に 配り始めました 彼はバナナの皮を 剥いて弟子に 配りました 時々 弟子を叱ってから 甘やかしましたね マスター皆同じですね 一人の弟子が 最後の列にいました 彼はこのバナナが 大好きでした

しかし 彼は 最後の列に座っていて バナナがほとんど 配り終わったのを 見て 不安で不安で 心の中で叫びました 「もうなくなった マスター一つ下さい 誰かを飛ばして 一つ残して」 ちょうどこの考えが 浮かんだ瞬間 マスターは バナナの皮を彼に 投げました もちろん 彼を特別に 待遇することは 他の人は分かりません 皆はバナナ果肉なのに 彼だけは皮です でも  彼はよく分ってます 彼は恥ずかしかった とても恥ずかしかった 皮をもらったので それを 食べるしかありません

悪行を認めなければ ならないため 非常に利己的で 好ましくない考えを 支払うため 皮を飲み込みました 彼は反省したことを 見て マスターは嬉しかった もう一つのバナナを 剥いて半分食べてから その人に渡りました 最高のバナナでしたよ 悟りへの道に 悟りのマスターを 見つけないと 進歩することが 感じられませんが 私達の欠点も 発見できません なので発展できません なぜなら 普通のマスター 有名に関わらず いわゆるマスターは 褒めるだけだからです

どこが悪いかを指摘 してくれないでしょう 弟子を失うことを 恐れるからです 供物を失うこと 面子を失うのを恐れて 残酷に思われることを 心配しているからです でも本物のマスターは 面子を気にしません 面子がありません エゴがなく名誉への 欲望がありません 彼はただやるべきこと だけをやります それで弟子達は 進歩できるでしょう 名誉や振舞いを 守るなら 優しく思わせたくなら 優しく思わせたくなら まだまだエゴがある 分かりますか まだエゴから完全に 解放されていません 真の悟りのマスターは 真の悟りのマスターは 天眼 天耳は全て 見通せます 彼は正しく鏡のように 個性がありません

個人の感情がなく 個人の振舞いがない まさに鏡のように 私達の姿を 反映するだけです 醜いなら 醜く反映されます きれいなら きれいに見えます これらマスターを 見つけるのは難しく 彼らはかなり厳しく 毎日 同じ顔をして 常に座って半眼が 開いて人が来るのを 待ってこう言うの ではありません 「あなたは大丈夫です 良くやってる 無限の功徳ですよ」 衆生は それほど簡単に 救われません 皆それぞれ個性があり 沢山の欲望 不思議な強い雑念 貪嗔痴 貪り怒り愚かさは 宇宙に満ちています

皆それぞれの心が 分からないと マスターは悪い所を 修正できません 高級車を運転してると 思ってください 時々故障が起こります そうでしょう 外面はまだきれいに 見えますが 中のエンジンは 問題が起こっています 車を修理する専門家の 場合 私たちの話から 車には 何がよくないか わかっています 彼は車の内部を見て エンジンを修理する かもしれません 彼は美しい外部から 修理し始めません マスターも 私達の 内面の何が悪いか 分っているべきです

そして私達のレベルに 応じて 異なる方向で 教えてくれます 初めに 同じ方法を 教えますが その後 違うことを 教えます 彼は同じ方法を 伝えますが その後 異なる方向で 一々修理します 調味料 塩 砂糖または醤油を 加えます 分りますか 彼は多くの味で 料理します これらの悟った マスターから 学ぶことは 時々 楽には感じません 彼らはすべてを 知っているようです  私達は隠れられません 良いか勤勉なふりを することができません 彼らはすべてを知り 彼らに会うとき 私達は尊重しながら 恐れます 分りますか

恐れても 彼らが好きです 好きであっても 恐れます 彼らが私達の憧れる 医者であることを 知ってるので 彼らが好きです 私達の病気理解し 治すことができます 彼らは本当に私達を 哀れみ 無条件で 愛してくれるので 私達は彼らを愛します 私達の過ちが 見えても 依然私達を 愛して 調整します つまり 私達の過ちを嫌うが 私達を嫌わないのです 従って 私達は 彼らが好きで 彼らに 付くことが非常に 安全であると感じます  でも私達には恐れも あります 

自分たちは たくさんの暗い思想と 悩みを持つと知るので 彼らが発見 することを恐れます 釈迦牟尼仏が 生きていたとき 彼もそのようです 人々が 何を考えているか すぐに分ってました イエスキリストが 生きていたとき 彼もそのようでした 誰が彼を裏切りそうか 誰が彼を知っている ことを否定するか 彼は分っていました その人は ペトロでした 彼が去る前にはっきり すべてを言いました マスターは皆こうです さもなければ マスターでありません

これは交代制の表です どうぞ明日も 同じ時間に 次の部分をご覧下さい
仏教は誰でも仏陀に なれると言います キリスト教は信じたら 天国で永遠に 生きられると言います しか主は唯一で  神は一人しかいません 教義は異なります なぜマスターは キリスト教でも仏陀に なれると言いましたか いいえ キリスト教で 仏陀になれるとは 言いませんでした 開悟したマスターを 見つけるべきと言った イエスキリストが 在世の時彼は開悟した マスターでした 彼が去った今 私達は 別の人を見つけるべき でもイエスキリストを 信じたり 崇拝したり してはならないという 意味ではありません

彼は過去のマスターで 私達はその非常に良い 教えを信じるべきです 私達は過去のマスター として彼を尊重するが 今開悟したマスターに 成りたいのです イエスキリストには 二種類の弟子がいて 一種類はマスターに 成りました もう一種は彼に頼って 解脱しただけです また釈迦牟尼仏にも 二種類の 弟子がいました 一つ目には仏陀になる ことを教えました もう一つのは 解脱するために 彼の福報に頼りました 時々皆さんは 一つの文章に注目して 残りを誤解します 例えば釈迦牟尼仏は ある時は 誰でも 成仏できると言い ある時は成仏するのは 難しいと言いました 衆生の悪いカルマ (報い)は 天空に満ちていて 解脱するには仏陀に 頼らねばなりません

同じように 私にも二、三種類の 弟子がいます 一つ目の種類は印心し マスターになるよう 私が訓練します 分りますか おそらく今生か来世で 彼らはマスターとして 戻って来ます 彼らは一生懸命 修行せねばなりません 彼らが一生懸命 まじめに修行し 私の指示に従ったら おそらく今生で ある日 マスターになります

他の種類は 普通の修行法で 菩薩や阿羅漢のような 良いレベルに達します でもそれほど高い レベルではありません もう一種類は 私の教えに頼って 道徳的な人として 生きる人々です また私の写真を 崇拝する人々がいます そして彼らが死ぬ時  私は家へ連れ帰ります 一人だけです マスターになるため 私と修行している人は 彼らの五、六 七世代が 超生します 百世代のこともあり 普通に修行する人も 五、六世代に 利益をもたらします それら私の福報に頼り 私の写真を崇拝したり 私を信じて 助けを求める人々は 彼ら一人だけが 超生できます

異なる部類の代価は 同じではありません 時々私は講義のとき 苦しんでいる衆生を 救うために私と学んで 早くマスターに なるよう 皆さんを激励します また別の講義では 私の助けを 求めるだけで十分だと 言うかもしれません それも良いのです 私がそこにいる誰も 仏陀になれないのに 気づいたからです

でもあなたは一回目の 講義で私に従い仏陀に なるよう激励したのを 聞いてないかも知れず それで私は誰でも 仏陀になれ 難しくは ないと言いました 失望しないで下さい 希望が持てるはずです あなたは二回目の 講義で 仏像を崇拝しても 私の助けを求めても ベジになるよう 試みても構わないと 私が言ったのを聞いて 誰も成仏できないと 私が言ったと思います

私は異なる場所で 異なる内容を話します 私のテープを聞いたら 同じような2つの テープはありません なぜなら聴衆が異なり なぜなら聴衆が異なり場所と 時間が異なり 彼らの 要求が異なるからです

一回だけ聞いて それが私の教えの すべてだと思わないで 私はすべてを含みます 数多い仏教の 修行法門は すべて同じゴールを 目ざしていますか 昨日私は多くの人は 厳格に修行できないと 言いました 仏陀になる意欲がなく 彼らは戒律に 耐えられませんので 努力できませんし 肉をやめられません それで私または 釈迦牟尼仏は 方便法を教えて 彼らを忙しくさせて 仏陀のパワーに頼って 解脱させます 分りますか しかし完全に私達の 智慧を使える仏陀 つまり偉大な開悟した マスターになるには 観音法門が あるだけです 楞厳経で仏陀は そうおっしゃいました 全ての宗教の経典でも 言及しています 「この道は 耳では聞こえず 目では見えず 捉まえられない この道は 目ではなく見たり 耳がなくても 聞いたりできる 法門を修めてこそ 理解できる」と

観音法門と同じです 長い間 私は大悲咒と 楞厳咒を 修行しています いかに継続的に 進歩できますか 引き続き唱えて下さい すると後退しません つまり呪文を唱え 続けるとことです とても良いことです

あなたが「大悲呪」を 学ぶとしたら 引き続きやって下さい 唱えるとき 目を閉じて 心をここに集中します マスターに助けを 求めるのです すると いくらか進歩します 早く進歩したければ 私について観音法門を 習うことです 大きな利益を得て 大智慧を 得るためには 私について観音法門を 修行することです 楞厳経は 古代から 伝わったもので 沢山の言葉が 抜けています 正確ではありません

大悲呪も同じです 例えば大悲呪経典の 南無アヴァローキ テーシュヴァラは サンスクリット語で 中国の訳語は 南無アリヤバロティに なっています これは違う意味です 名前が完全に 変わっています オゥラック (ベトナム)語では 更に悪く 南無アヴァローキ テーシュヴァラは 南無アリジアバロ チェティデタット ファットランダバ 本当は南無アヴァロー キテーシュヴァラが 大変長くなっています 観音菩薩でさえ 観音菩薩でさえ 意味が分かりません だから悟りを開いた マスターが必要です というのは彼の教えは 直接天国からのもので 編集されていません 凡夫の頭脳によって 編集されてなく 直接的な情報で 以心伝心で 人間による 修正はありません いい?間違いないです 不注意でピーナツの 中の虫を食べ場合 これは殺生ですか

いいえ  故意ではないのです 私達が菜食をするのも しないにしても 故意に殺生する考えを 避けるためです 分かりますか そういった悪い考えを 避けるためです 不注意でなら戒律を 破ったわけではなく 仕方がありませんが 悪いカルマ(報い)は やはりあります ただ 故意ではありません 意味が分かりますか 非常に小さな悪い カルマ(報い)です 私達が呼吸をする時も 菜食をするときも 茶碗を洗う時も 殺生します 故意ではないです 避けられないことです

私達は邪悪な考えを なくすことです 私達が菜食をするのは 菜食で多くの衆生の 命が救われることを 知っているからです これが私達の目的で できるだけ殺生を 避けます いいですね 観音法門を修行する 人は瞑想をしながら 気功もしていいですか

どんな瞑想ですか 観音法門で私は 瞑想を教えています 他の瞑想法は 要りません 気功についは どんな気功ですか はっきり教えて下さい 二種類の 気功があります 一つは体の弱い所を 丈夫にしてくれる 運動で人に打たれても 痛くないです 私は これを知っています もう一つの 気功と呼ばれるものは 霊的エネルギーが 体に入ってあちこち 走り回り制御できない あなたが習ってるのは どんな気功ですか 私が助言できるように どれか教えて下さい 一つ目か二番目かです 二番目のタイプですか(二番目のです) 二番目のタイプですね 止めるべきです

どんなにいい法門でも 自分で 制御できないとしたら よくないものです 私達本人が自分の 行動を統制すべきです 私達は体の主で 主権は 私達にあります 体が外部の霊に 占められ勝手に私達を 制御するようでは 主権を失います 分かりますか 止めるべきです 霊修行をするには はっきりすべきです 自身のマスターになり 真我を見つけなければ なりません 誰かに制御されて あちこち動き回り 止められないとしたら それは悲惨です 皆さんは釈迦や 老子が制御できず 動き回ることを 想像できますか 不可能です 釈迦は座っている 時も歩くと時も 穏やかです 何を話しているか何を しているか明白です これが真の法門です 自分の体を自分で使い 制御できないとなると 人が私達の家に 入り込み 好き勝手に するのと同じです

追い払えません これは人の家に 侵入することで いけません 私達はこの家しかなく 見知らぬ人を入れる わけにはいけません

観音法門を 修行し始めてから 一日や二日間 修行しなかった場合 霊修行に大きな 影響がありますか はい 沢山あります 二日間食事しないと 体が大分弱まるのと 同じです

印心を受けた後も 線香をあげて 拝んでもいいですか できます  ただ誰を拝みますか 対象は誰ですか 地元の守護神ですか

ここ香港では 多くの人が家の外に 地元の神を 祭っています

小さな地元の神です 彼らは家の外側に それを祭っています 何のためですか 福報を祈願するのですか 皆さんはその神に福を 与えるべきで 彼の 福を盗まないことです 恥ずかしいことです 私達は地元の守護神 よりも優れています 私達は沢山修行して 彼に福を与える べきです

なのに 彼の福を盗むなんて 恥ずかしいことです 君子の振る舞いでは ありません 私は福を盗むために 拝んだりはしません 自分自身の仏性を 拝んでください これは拝めば拝むほど よりパワーがつき 大きな功徳があります すると私達は地元の 神を含めて無量無辺の 衆生に福を分け与える ことができます アヴァローキテー シュヴァラとは? 観音菩薩の もう一つの名前です ご存知のように 人間は時には 沢山の名前があります 例えば 生まれた時の名は 王黛玉だとします 後にまた 別の名前を持ちます アヴァローキテー シュヴァラとは 観音菩薩の本名でした

彼女は観音法門を 修行したため 彼女の事を観音菩薩 と呼んだのです 分りますか アヴァローキテー シュヴァラにせよ 観音菩薩にせよ 梵語からの訳語です 以前私は菜食を しましたが体力が弱く なってしまいました 私はとても印心を 受けたいのですが どうしたらいいですか 体が弱まったのですか 動物園で象や 馬や牛を見たことが ありますか 彼らは何を食べて あんなに丈夫な 体をしているのですか 彼らは豆腐や 高蛋白質のものは 何も食べていません 草ばかり食べています

印心後マスターは 香港を離れますが 私達が困難に遭遇 することはないですか ないです 私は遍在し 祈ると必ず応えます いつも貴方と共にいて 私が見えなくても 構いません 私には貴方が見えます 一瞬たりとも皆さん から離れていません 安心して修行して ください 私に電話を したり手紙を書いたり フォルモサ(台湾)に 会いに来て下さい

なぜ生と死が あるのですか なぜ人生は 苦に満ちていますか 生は生でなく 死は死ではありません 私達の目は遠くまで 見えないからです

例えば海は 風が吹くと 波が立ちます それを波といいます 波が沈むと 海水になります また波が立ちます 実際は海だけであって 波は存在しません それはただの形で 現象に過ぎません 元々海には 波はありません 波は立ってから 消えます 従って波は ないと考えられます そしてまた波が立ち また消えます 同じ原理で 私達の人生は 波より長く持ちます 分りますか 一つの現象が消えると 別の現象が現れます 波もそれぞれ違います 一つ消えると 別のが現れます ある波は短く ある波は長いです ある波は強力で ある波は優しいです

そうですね 同じ海で同じ風の いたずらです 同様に 陰と陽の力も それが結合する 時間の長さによって 違った形の ものになります 後にこの形が消えて 後から別の形で 戻ってきます これを私達は この人は死に その人が生まれたと 考えますが同じです 遠くまでみると 分ります 生は死であり 死は生です あるものが生まれた時 あるものがさっき 死んだ事を意味します 波が立ったとき 別の波は退き 海に消えて 再び海の一部に なるのと同じです

それからまた波が立ち また退くといったこと これが生は死で 死は生です 私達は死んだら再び 別の形別の服を着て 生まれ変わります 分りますか 分ったら いいです 皆が開悟しています ありがとうございます 私達に生があり 死があるように 次の生の 選択において 気をつけなければ なりません 私達は選択できるし 体系を 制御できます 私達は仏陀になる ための方法と規則が 分っています その規則に従うと そのような形に 変わります それに従って 修行するとそのように なります 分りますか

聖書や仏典にこれらの 規則についてはっきり 書いてあります 道徳的な人間になり 戒律を守り 慈悲深く 人類に 利益をもたらすと 次の生で美しい服を 着るとあります 下手すると  次の生で羽毛や 角を持って生まれます あまり美しくないです 話すこともできず モーとか メーといった 違った言葉を使い 違った服を着ます こういうことです 選択によります いいですか

さっきマスターは この地球には 善と悪の力が あると言いました 仏陀に学ぶ人は どうしたら善を 発展させ悪をなくす ことができますか 戒律を守ることです 仏教の戒律を守り 仏典に従い 自分自身の仏性を 見つけることです 要するに大智慧を 探すという意味です これが見つかれば その智慧が独りでに 統制し調整し 陰と陽を平行に保ち 自然と私達に 何がよく何が悪いかを 分らせます 印心を受けてから 大きく変わります

さっき女性の修行 仲間が言ったように 気質が変わるのです 彼女の智慧が現れ 目覚めたので どう処理するか していい事と しては いけない事が分ります 凡夫はたとえ 避けたくても カルマ(報い)に 縛られ避けることもできません よくないと 分っていながら それをやるのです なぜなら私達には 自分を制御するための 十分な力が ないからです 私達は自分の仏陀の パワーを見つけそれを 使わねばなりません 頭脳の力は 限られています 凡夫の力は 十分ではありません

私達は自分の 本来の自我のパワー 仏陀のパワー 天国の パワーを見つけ それで カルマ(報い)の力を抑えねばなりません カルマ(報い)は 私達を縛ろうとします分かりますか 仏教は私達に極楽 浄土を勧めています この世界は苦しみに 満ちているからです これは私達が 責任を逃れ 虚栄に走り 人生の義務を 怠ることになり 今生で私達を 愛する人にとって 不公平ではないですか いいえ たとえあなたが怠け たくてもできません やはり働くべきです 私の教えは人に世界を 捨てさせるのではなく この世で自分の責務と 向き合うよう教えます

時間を割いて 霊修行をしながら 自分の責務をしっかり 果たすのです もっと 努力せねばなりません あなたが印心してれば 私の教えが人に 逃げるのではなく もっとしっかり責任を 果たすよう教えている ことが分かります これは定まった カルマ(報い)だと 分るからです 借りを全部返済した後 始めて離れられます 私達はなぜ この世界にいるか   なぜ働くのか 配偶者と子供と親の 面倒を見ねばならない と分っています

はっきり分っていて 喜んでやります 幸せなのです 以前の ようにしぶしぶでなく 意味が分りますか 観音法門を 修行してから 私達の智慧は 更に発展し もっと力がつき とても重い悪いカルマ (報い)も背負えます 私達には 智慧が備わり 人生の意義と なぜ人間なのかが分り 何でも進んで 喜んでやります 前とは違って やらねばならない時 逃げたりしません この点は違うのです

仏陀の道は 世俗と密接な 関係があります もちろん仏教でも いかなる宗教も 二種類の修行者が います 出家して 修行する人と 在家で修行する人です 出家して修行する人は 特に法脈 つまり 法(真の教え)の パワーを守り それら忙しくて 法脈を保存する ことができず  修行に精進できない 人に広め 普通の在家で 修行する人に 福報を分け与えます

しかし皆が同じように する必要はありません たとえ出家者でも 沢山の責任があります 例えば私の場合 とても忙しいです 何事も逃げません

東奔西走して 経の講義をし 人々に霊修行者に なることを激励し 皆が内面の 心を見つけ なるべく 菜食者になり高尚な 人になるよう諭します これが出家者として 私の義務を履行する ことです 私は逃げていません そうですね 逃げませんでした ですから 私達は修行して 開悟した後 果たすべき責務から 逃げるよりも よりよく果たします 観音菩薩の 千の眼 千の手は どういう意味ですか 彼女は不可思議の力が あるという意味で 彼女は無数のことを しながら同時に 無数の所を 見ることできます

私達は彼女のことを すべての祈りに応え どんな所にも 現れると讃えています どんな所でも 祈ると応じてくれます つまりこれは 遍在し 無数の化身を持つ 釈迦やイエスキリスト とも同じです 今ここにいながら 同時に化身が他の所に 現れる事ができます これを千の手 千の眼と言葉で 表現したものです 分りますか 比喩で 象徴的なものです 観音法門を 修行して最高の レベルに達すると 私達も千の手と 千の眼が備わります 無数の事を すると同時に 無数の衆生の異なる 場所の祈りを聴き 無数の所に現れる という意味です

これが千の手と 千の眼です マスター 観音法門を 修行するには 生涯菜食しなければ なりませんか これとは別に 完全菜食できない人に 伝授できる法門は ありませんか あります 昨日私があれだけ 並べたのに まだ分っていませんね 骨格を観ずる方法 汚物を観ずる方法 静かに座って 自分の呼吸を 数える呼吸法などです 息を吐いて 一と数え 息を吸って二と数え 十まで数えます 数が乱れたら 数え直します 数え続けて 三十分座って いるのも 一種の修行です

もっと長く座って いたい場合は なるべく菜食 することです すると問題が 起こらないし 魔に取りつかれません

菜食は沢山するほど いいです 方便菜食とは 都合のいい時に菜食 するという意味です 肉料理の中の 野菜をつまんで 食べるのでは ありません 第一それは汚染され 第二に 栄養的ではないです 何回も言ったように 自分は肉食か 菜食か はっきりすることです 混同しないことです この方が便利です 分りましたか 方便菜食とは いつでも 都合のいい時に 菜食することで 菜食できるときに するという意味です 菜食には 豆腐とグルテン大豆が あると栄養的です

私は印心していません マスターの名号を 唱えるとマスターと 繋がりますか 繋がります もっと菜食し 慈善活動をし 戒律を守ると 私と繋がりますが 私を見るのは無理です 菜食者は 私の化身が来て 私達の言葉で 話しかけるのを 見るのは容易ですが 難しいでしょう

菜食すると 身 口 意を 浄化しやすく 私と繋がりやすいです あなたが菜食者か否か 確認するのではなく 私が来てもあなたには 見えないのです カルマ(報い)で 遮られている そういうことです

不二の法門とは どういう意味ですか 観音法門のことです 戒律を守るよう教え 自分の 仏性を見て 自分が仏陀であると 分らせるからです 仏陀に祈り 仏陀があり自分がある こととは違うのです 分りますか だから 不二の法門と言います 私は仏陀で仏陀と 私は一つなのです 観音法門を 修行すると 自分が仏陀であると 徐々に分かります 仏陀と私の間は 何も 違いがありません 違いますが また同じでもあります

私達は仏陀になります だから 不二の法門と言います

マスター  観音法門はどうやって 修行しますか 二日間も経の講義を 聴いていますが まだ分りません もちろんです 印心の時 分ります 私は安く売ったり しません 印心を受けると 観音法門が 分ります ただ私の戒律を 守らねばなりません 私達は仏陀になる ために今生で解脱する ために修行します 遊びではありません 従って戒律を 厳格に守り 私の 指示に従うことです 何事も代価があります 菜食したくなく 適当に修行したい場合 すると死ぬ時あなたが 私を信じるとしたら 私が解脱させます

ただ私を本当に 信じなければならず なるべく菜食し 道徳的で戒律を守ると あなたは死ぬとき 解脱する機会に 恵まれるでしょう ただ仏陀には なれません また 他の人 親戚 友人を 助けられません 観音法門を 修行すると 五代 六代 七代 さらに百代もの 先祖が超昇します 皆さんの霊修行の 功徳と私と繋がった お蔭です 私が処理します 皆さんは自分の 身 口 意を私に任せ 私に処理させて くれたからです

私の指示に従うことは 最高の供養です そこで皆さんのカルマ(報い) は 私のものになります つまり皆さんの問題は 私のものになります 二人の仲良しのように あなたに問題があると 彼はなるべく助けます 分りますか 互いに深い 信頼があるからです または結婚後は 妻の問題は 夫の問題であり 妻の喜びは夫の 喜びでもあります 分りますか 二人は繋がっています 一種の約束です そうです 印心は私達の 間での約束です 私は皆の沢山の問題を 処理します 皆が私の 友達になりたがるので 私は皆の問題を処理 しなければなりません 例えば億万長者の 友達がいるとします 私達に借金があると 彼は傍観しますか しません 彼は自分のお金をで 私達を自由します 彼は密かにまたは公に 私達と借主を 縛りつけた鎖を切って くれます そうですね いい友達だからです

お金は問題ありません 私はイエスの信者です 私が観音法門を 修行すると教会の人は 私のことを非難したり しないでしょうか どこが問題ですか 私はイエスを信じない ようとは教えません イエスとよりよく 繋げることを教えます あなたは瞑想の時 イエスを見ます 問題ありません 私はあなたに イエスと早く 繋げる方法と 彼のように偉大に なる方法を教えます すると多くの事が分り 多くの衆生を 助けてあげることが できます これはイエスキリスト またはカトリック教が 望む事ではないですか 同じではありませんか 私は彼らに反する事を 何も教えていません

彼は大昔この世界は 本当にカトリック教が 言ったように美し かったか聞いています はい そうです 仏教でも同じことを 言っています 阿含経に 大昔 天地開闢の時 宇宙が創造された時 ではありません 地球が始形作られ始め 光っている衆生が多く ここに住んでいました 彼らは歩かないで 飛んだのです  全身に美しい 光を放っていました 後にここに 長く住むにつれ 多くの地球の食べ物を 食べ 粗く醜くなり 光を失いました 後に地面に降りて 足で歩くようになり 後に 食べ物が切れました

彼らは怠けたのです 本々食料は 取った後 又育ちましたが 彼らは怠けて家に 沢山持っていきました 食料はそんなに早く 成長しませんので 食料のために戦い 競争せねばなりません これが 戦争の始まりです 私はカトリック教と 仏教は同じ事を言って いるのだと思います もっと研究すると もっと分ります 私の男友達が私が 観音法門を習うことで 分かれたいとしたら どう選択したら いいですか 観音法門を 選択すべきです ボーイフレンドは 見つけやすいです 男はどこでも 見つけられますが

観音法門は 探しにくいです

今日私は 沢山の人が外にいて 入れないのを見て 心苦しいです しかし弟子達が 招いてくれたので 私は手配して くれた所に 行くしかありません これらの事を私は 処理できないのです

今度 大きな会場を借りて 皆にもっと楽にして あげたいと思います

皆さんの愛に 感謝します すぐまた来ます

皆が早く仏陀になる ことをお祈りします

全メディアがこの星を 救う援助をすべきです 毎日 新聞のどこかに こう印刷されるのです 「ベジになって 地球に優しく 地球を救うために」と 一切の看板と広告に 一行加えるべきです またすべての 娯楽番組でも  どんなショーでも 開始前か終了後に 地球を救うために ベジになって 地球に優しく」と 世界の主な河川が消滅 しつつある 1/3が 断流またはその危機に 三〇億人のための  地下水井戸は 枯渇しつつある 世界十大水系が 消えかけている

 
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