智慧の言葉
 
内面の真我を見つめる 1/3 一九九三年三月十六日台南、フォルモサ(台湾)(中国語)   
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世界的に有名な スプリームマスター チンハイです ありがとうございます お座り下さい 皆さん全てが 仏陀を見たいですね この方が仏陀です こんなに若い年齢でも 印心を受けています それはちょうど 天国行きの切符を既に 手にこの世界に 来るようなことです 永遠の解脱を 保証しながらです

それでは暖かい拍手で お迎え致しましょう 出家した弟子の一人が マスターに追従して 以来の体験を私達に 共有して下さいます

親愛なるご来場の皆様 私の同胞市民である 台南の皆様 皆様に ご挨拶申し上げます 振り返ってみると 私がマスターから 印心を受けてから 一年と十一カ月が 経ちました 私にとりこの七百日は まるで夢のようでした それはまた鮮やかで 実現可能なことでした 印心前 仕事が 私の人生の 最重要事項でした 私は一日少なくとも 十二、三時間仕事に 費やしていました でもその頃私は疲れを 感じませんでした 未来への希望で 一杯だったからです 私は沢山のお金を稼ぎ 世界中を回ることを 夢見ていました

こんな夢を見た方も いらっしゃるでしょう でも私が美容院を 購入した後 その夢は 変化し始めたのです 三年前私は美容師と して働いていました 毎日午後 ソファの上で 昼寝していました 一番最初に そこで昼寝した時 私は眠りの中で 頭のない二十七、八の 年頃の女性と その側にしかめっ面を 私にむける少女が いるのを見ました 起きたかったのですが 力が出ないと分かり 私は生贄となる 子羊のように無力で 絶望的に感じました 徐々にそのイメージは 消えていき 私は起き上がれました 恐怖でした 三十年の 私の生涯で生まれて 初めてそんなものを 見たからでした

その後私は同じような 体験を繰り返しました ただイメージは 身体が変わったり しました 若い男性らや 中年の女性らなども 出て来ました 時々ただ声だけが 聞こえますが イメージがなく 他の時は彼らを感じる だけの時もあります 私の心をかき乱し続け それで私は絶望し 事態を収拾する方法を 探しました 私は神に祈り 占い師に相談しました そして 白衣神咒 大悲咒 往生咒を 唱えました 唱えました この時私はこの世界の 他に 本当に存在する 目に見えない世界が ある事を認識しました 克服したいと思うのに 私は無力でした

ついにある日ある私の 顧客の一人がヒマラヤ から来たスプリーム マスターチンハイの ことを私に話してくれ 彼女はちょうど講演を 労働保養センターで 行うとのことでした 私はそのタイトル 「即刻開悟の鍵 一世解脱」に深く 引きつけられました 引きつけられました 講演の 一日目私は二階席に 座りました 突然マスターの回りの 出家した弟子と 観衆がすべて 消えて マスターと 私だけが取り残され 対面していました 信じられませんでした 私は目を閉じ 再び開けましたが それは同じでした

三日間の 講演の間 マスターは瞑想の 方法について話をし でも講演の終わりには 教えませんでした 彼女はただ法門を 紹介しただけ だったのです その法門は無料で 教えられるとのこと でしたが 私達は 五戒を守らねばならず 慈悲心を育て殺生を 控え そこには肉食も 含まれます 私のような肉食者には それを行うのは難しい ことでした 私はこの件で一晩中 眠れませんでした 印心を翌日に 受けるべきか 止めるかについて 止めれば絶好の 機会を逃します 受けたとして私は 本当に解脱するか 不確かでした

ありがとう でもマスターは講演の 中で非常に論理的に 説明しているのを思い 出し 全ての存在が 一つで動物には 強い意志 強い生きる 意欲を持ち死を 恐れるという事でした 従って私達が彼らを 食べるなら重いカルマ (報い)を受け 植物は比較的生に対し 意欲が少なく 死への 恐れは少ないので 植物を食べればカルマ (報い)は軽減する事 それは良い教えだと 思いました 万が一 「騙されて」も それ程悪くないです でも印心の日になって 私は再び躊躇し始めて しまいました

私は生涯ずっと菜食を 続けねばなりません 結局私は待つことに 決めましたその日の 印心への決心が なりゆきによって 決まるかどうかに 任せることに マスターはよく衆生を 救うのは非常に 困難だと言われます 私を見れば彼女が 正しいと分かります 今日ここに立ったので あなたは想像できます 私のビジネスがあの日 から順調な事が でも私の例に 従わないで下さい あの日のビジネスは 上手くいかず印心も 受けていなければ 私は今日ここにも いませんでした 従って私はマスターに 彼女の助けに 感謝致します 印心の日のあとの事を お話させて下さい

私は光の瞑想の間何も 見られませんでした マスターが私達に尋ね ほぼ四百名の人々が その印心会に 参加していて 同じ開悟の体験を したのです 二十五の菩薩らの 楞厳経の体験でした ある者は光を見て 仏陀または菩薩のです でも私は絶望はせず 後でマスターは何も 見なかった者に舞台に 上がるよう求めました 私の番が来た時 私は舞台に上がり 強烈な明るい光を そこに 感じました 私は同様の光を 目を開けても閉じても 見たのです その時 私はそれは ランプからの光では なく内面からの 映像だと確信しました

マスターが彼女の手で 私の智慧の目を触り 私がビジョンを 見たかどうかを お尋ねになりました 私はいいえと言い 三回の後 マスターは声を上げ 再び尋ねました「何 か見ましたか」私が いいえと答えたら 叱られると思いただ はいと答えました 私のその時の心を 読んでマスターは 声を変えました それは優しく瞑想 修行に精進しなさいと 言われました 彼女の声は暖かく 私の心は小川のように 流れました その後マスターは 私達にもう一度瞑想の 仕方を教えました

そして花が常に変わる ところを私は見ました マスターは愛情深く 考慮下さり挑戦者 私達新印心者の人々の 瞑想の為に更に三日間 滞在して下さり 私達と共に瞑想して 下さいました 仕事のために 私は初日参加し 二日目は行くことが できませんでした でもその夕方 共修の時間が来ると 私はマスターに無償に 会いたくなりサロンの 仕事に集中することが できなくなりました 印心の前 私は 「即刻開悟の鍵二巻」 までを 購入していましたが 私は他の人々にその時 貸し出していました

幸いマスターの詩の本 「沈黙の涙」はあり 本当にタイトルの通り 私は最初のページから 最後まで それを読む間 涙を流していました マスターが理解して くれている感じがし 印刷の文字は 本の上で 白い光となり紙上に 踊っていました これは初めての 私の十年来の 読書において見た 不思議な現象でした 石の私の心は 涙となって 飛び散りました 即座に軽くリラックス した感じがしました その夜私は眠れません でした

灯りを何も つけずにいても未だ 昼のように明るかった からです 翌日も私は瞑想を しようと思いましたが 私は目を閉じる事が できません その 強烈な項のためにです 後に私は見ました 釈迦牟尼仏と 観音菩薩をです その後 私が 「即刻開悟の鍵」を 読んだ時その言葉が 白い光に再び 変わったのを見ました しかもある仲間が 彼ら仲間でない親類が 亡くなった時 マスターのテープを 流したら その故人の顔が 黒色からバラ色に変化 したということです この事はよく起こる ことだそうで 本当に 沢山起こるそうです

私が印心した後それら 目に見えない衆生は やはり姿を現しました でも印心は本当に 奇跡を起こしました ある時横になって 瞑想していた時の事を 覚えています

少女が側に横たわり クスクス笑ってました 私はちょっと何かが 可笑しいと考えました 私が横たわっている 所は隅でありそこに もう一人人が入る余地 はなかったからです それで私は自分の力を 集結しマスターが 教えてくれたマントラ 繰り返し始めました 最初の言葉を沈黙の 内に唱えるや否や 「止めて 怖い」と いう声を聞きました 後ろで子供が逃げ出す のを見たのですそれは 小さな悪魔でした 大きい者は対処に 困難でより時間を 要しました

いつでも私が彼らに 対処できない時 私は マスターに静かに 助けを祈りました 全ては大丈夫になった 恐らく私は海外へ 旅することにずっと 憧れていたために 私は自身が海を渡る 姿を見ました それが大西洋だったか 何か確かではないです 私は高速で飛んでいて ボーイング747並で どんどん早く飛んで いったのです急に私は 怖くなりました 私は海に落ちるのでは と恐怖を感じたのです そして事実私は 落ち始めていました 幸いにも私は自分の ベッドに着地しました 霊修行は更にもっと 興味深くなっていき 私は徐々に自信を 持ち始めました

私はマスターが仏陀と 確信しています 私は三〇歳を過ぎ  未だ独身です また全家族の中で 最も稼ぎの多い 唯一の人でした マスターが生きた 仏陀になったので私が 彼女に従わなければ 非常に残念なことです しかし私の決断が家族 内の混乱の原因になる と予期しませんでした 両親はいわゆる強力な エクソシスト 悪魔払いを 招きました 彼は大きく背の高い 男性も連れて来ました 夜中の十二時頃 彼は仏間で 真言を 唱え始めました

奇妙な音をさせて 彼が言うには私が何か 憑依されているなら それは彼の声を聞き 自動的に出てくると でも彼が長い間 唱えても私は飛び出す 事はなく彼はイライラ してきました 彼は両親に私に出る様 言えと求めました 多分このゲームは早く 終わりそうだと 私は思いました 両親のために私は彼の 前に座らねばならず 彼に私を大声で 怒鳴らせておきました 私は目を閉じて マスターの仏光を 楽しみ続けました 彼は私になぜ目を閉じ 彼を無視するのかと 尋ねました

私は疲れ過ぎていて 休んでいたと言い 彼の声はまるで最初 雷の様に始まりました それが終わりには猫の 「ニャー」位に小さく なっていました しかし私は動かず マスターに追従する 事を決心していました 彼は私に何をする事も できませんでした 彼は両親に今まで 何千もの悪魔払いを してきたが 今回初めて失敗したと 話しました 神通力は 観音修行者には 効力がありません 単に十日間修行した 者でさえ この三界以内の 神通力は役に立たない のを私達は見る事が できるでしょう 私は皆さんに言いたい と思いますが 本当にエゴのない 神通力について 知りたければ マスターの本 「マスターと弟子の 手紙」及び 「師徒神奇感応」を 読む事をお勧めします それらは追従する 修行者らの 真の体験の記録です それらを読んだ後 あなたは偉大な宇宙に 関して驚き 理解することでしょう 人間の想像の理解を 超えるものです

動物を食べるのは 重いカルマ(報い)で 植物よりもです 私の個人的な霊修行に おいてこの真理は 確認されています 最初 苗栗の道場は 草で覆われた 所でした 私達が最初に到着した 時 草刈りをしました 夜 私は眠りの中で 大きな草を見ました 翌朝私が起きた時 私は自分の体に 青あざがあるのを 発見しました 幸いそれらは痛くは ありませんでした 最近私達はパイプを 埋めるために溝を掘り 私が最初に地面に穴を 開けましたが 偶然私はミミズの体を 半分に切ってしまい 私はそこで夜中午前 二時まで働きました

突然私は自分の体を 真二つに切られ 血管が塞がれた 感じがしました 私は冷たくなり死んだ ように感じました 暖かいスープさえ 役に立ちません 私はすぐ瞑想へ行き そしてゆっくり 回復したのです カルマ(報い)は 植物よりも動物を 傷つけ肉体的な 苦しみを作りだす事に より起こります 動物を食べることなど 言うに及びません 従ってマスターに 私の智慧眼を開け この世でただの食事は ないことを理解させて くれ感謝しています 「蒔いた種は刈り取ら ねばならぬ」は真実で 私には今マスターが いて法門があり毎日 瞑想できます

そして 私のカルマ(報い)は 日々徐々に 減少していくのです 非常な喜びと平安を 心に感じられます 昨年マスターは私達を 屏東山地門に連れて 行ってくれました 私は泳げなかったので 水遊びに興味など ありませんでした でも他の兄弟が浮輪を 使って泳いでいる所を 見たら 私は誘惑されました 大興奮し 彼らの助けを借りて 快適に浮輪に 私は座り小川の流れに 身を任せ流されてみて 私自身それを 楽しんでいた所 突然兄弟が叫びました 「危ないそっちへ 行かないで」と でも私は何の危機も 感じませんでした

突然 浮輪が岩に ぶつかり急速に 流れ始めたのでした 幸運にも反転は しませんでした しかし流れは和らぐ 事はありませんでした それは戻ってきて 私を押し猛然と岩に 押し寄せました やっと 岩にあたり ひっくり返しました 筒が浮き出来ました 私は波に飲み込まれ 方向を 失いました 朝の寒い空気に 詰まり それでも 私は単純に マスターは 私に泳ぎを教えようと していると思いました   水の中でジャンプした けれど 低すぎました どれ位 頑張っても 頭は 平面に 届かず 足も 河の底に 触れる事さえ できません

呼吸が殆ど 止まった時  マスターに祈りました この残酷な瞬間で 三回祈ったら 内面の音が 騒々しくなり始め 外の波の音より 大きくなりました 目を閉じたら カラフルでキラキラ 輝く世界が見えました 孤児が愛する母親を 探しているようでした 私は恐れもなく 充実感と 平和を感じました 水の中で 立ってる間マスターが 世界から私を離し  霊修行するために 天国に連れてきた のだと思いました めがねがないと周りは 妖精の国のように ぼやけて見えます 至福の時 誰かの 話しが聞こえました 「まだ立っていなさい まだ来てはいけない 助けに来る人を 私が探しますから」 私は死んでいない事に 驚きました

沈んだ岩が沢山あった のに私は全く怪我を していませんでした 岸に着くと 大きな岩に座っていて 何が起こったのかを 思い出し それが夢の ように思いました 目を閉じると マスターの化身が 私を見ているのが 見えました 信じられませんでした 私は目を閉じ 頭を振りって また見ました マスターの化身は まだ私を 見ていました 私は涙がでました 奇跡的な遭遇は 本当に信じられません マスターがいる時 たとえ 不可能が 可能になってもです

観音普門品のなかの 一連の出来事として 観音菩薩の 名前を繰り返すと 火と水からの 被害が免除されると 聞きました マスターチンハイの 名前を繰り返した時 私は水にも 溺れていませんでした さらに マスターには 釈迦牟尼仏のような 無数の化身が あるのです 彼女は心優しく イエスキリストの様に すべてを愛しています 仏陀と同じ信念を 取り囲み 本当の真実を見る ことで仏陀に 達することができます また 一度印心を したら あなたは すぐに本当の真理を 見ることができます 従って 私はもっと 理解し 異なる名前の 聖人が存在するのだと はっきり分かりますが 真実は一つです 招待を受けマスターは 花蓮と宜蘭の 刑務所を訪れました 頑健で入墨のある 人達はみな涙し マスターの 講義を聞いたあと 幼い子供のように なりました

これは大げさに 言ってるのではなく ビデオテープで貴重な 瞬間を見ることが できるのです 釈迦牟尼仏は 「全ての生き物には 仏陀の本質がある 皆 仏陀になることが できる」と 人間の心の中以外に どこに神と仏陀を 見つけられますか 人間は神と仏陀の 最高の想像に 反映しています 彼が私達の 命の本質を 創らなければ 誰が 生きるために呼吸を 続けれるのですか 異なる宗教は 異なる文化と風習を 満たしていますが それが私の宗教や あなたのだと 主張すべきでは ありません

それぞれの宗教の 中で 永遠の偉大な 宗教が 一つだけあるのだと それが真実なのです マスターは人生の 究極点に達することが できて 真実と 一つになれたのです 永遠に自由なのです 彼女は名声や利益に 縛られません 代わりに 洞窟に隠れ 世捨て人のように 一人で至福を 楽しむのです この世界に生きて 霊的な真理を 教えて 他人に利益を 与えているのです 彼女は全ての生き物を 同じように扱い 高潔に実証しています

マスターはいつも 私達に内面の視覚を 暴露するのを禁じ 傲慢になるからです

でも花蓮でマスターは 講演で言いました 「愛とはお互いの目を 見るのではなく 同じ目標を見るのだ」 と言いました 従って 今日は 誰も気にしません 内面の視覚を 皆さんと共有して より多くの皆さんが 至福と平和を楽しみ 霊修行を 導き出すのです ここで 心から マスターが私たちに 愛を贈るというのは 何も恐れる ことではありません 彼女は 真の自分を 知らしめるために しているのです 来てください 勇敢に天国 (最高の楽園)に 一緒に 包まれましょう 最後に皆さんが 肉屋の包丁を下ろして 瞬時に 仏陀になれることを願います ありがとうございます

マスター 私も 次のような個人的な 経験をしました あなたとこれを 共有したいです 聞いてくれますか (ええ) 時間を取りすぎるのが 申し訳ないので 手短にします マスターと親しく なれる機会ができて 幸運です マスターに従って 二年になります この経験で  マスターを見た 驚くべきことを 共有したく おもいます まずマスターの奇跡を 聞いてください ご存知のように 全ての霊修行者は 光を放ちますが マスターの光はなんて 巨大なんでしょうか 二年前 道の修行者が マスターの光が 広大の空に見ました

普通の修行者の 光の放射が直径で 七~十センチで 全身から 丸く放っていたら 全世界が それが 彼だとすぐに 分かるでしょう でもマスターの光が 私達の目で見えない 最も遠い所に達する ことを想像できますか これは無限の光の 奇跡です 二つ目の奇跡は 光の海の化身です マスターがどこで 講演しても いつも光があります 彼女最近の講演は アメリカの バークレー大学で 行われました そこでは 印心していない人が マスターの光を見て 何のように見えたか 光は海のように 全体の講堂を 覆いました

マスターが講義を 終えて立ち上がり 去っていく時 身体がゆっくりと現れ そして 光が消えていきました 経典で 私はインド古代の太祖 龍樹菩薩に 関して読みます 彼が講演の時 彼の全身は見えなく なりました 月だけが見えます これを読んだ時 私は とても驚いていました でもマスターを知り それが大したことで ないと思っています 三つ目の奇跡は マスターの本が 光を発することです

ある人は金色の光か 仏陀の化身を 見ました マスターの本が 光を放つだけでなく 彼女のポスターにも 光があります ブラジルでは ある人が電信柱に 貼ってあるマスターの ポスターを見て「何で このポスターに光が あるのか」と驚いて 礼拝のためポスターを 家へ持ち帰りました 翌日 彼がその 電信柱を通り過ぎる時 いくらかの光が まだありました 四つ目の奇跡は 台南で起こりました 五つの異なる 刑務所で服役した 修行仲間がいます 彼は以前いわゆる ギャングの頭でした

彼は彼が若い時から 全ての悪いことをして 人々を殺しさえしたと 言いました しかし 彼は偶然 マスターの講演に出席 マスターが五つの 異なる仏陀の姿で 現れるのを見ました それは達磨 観音菩薩 地蔵王菩薩 釈迦仏陀と彼女自身の 姿でした その後 彼はマスターに従い 各地の講演に 出席しました 最後の講義 五番目の講義の時彼は 我慢できませんでした 以前重い罪人であると 感じ 彼はマスターに 印心を求める勇気が ありませんでした

しかし マスターの 講義を聞いた後 彼は菜食を選択し 彼の犬さえ 菜食をしました それで 高雄における 最後の講義の後に 彼はマスターに手紙を 書かざるを得ません 彼のような人間が 弟子として認めるか どうかを尋ねました マスターは問題ないと 今良い内在の体験が あるだけではなく 家庭生活を後にして 苗栗道場で 園芸師として 働いています これは台南からの 実話です 五つ目の奇跡は 刑務所の囚人も感動し 変えることができます ご承知のとおり  通常受刑者は非常に 賢くて機敏です

獄中にいる時 彼らは他の人を 信用しません したがって 彼らに 講義するのはどんな マスターにとっても 最も不愉快なことです 又 彼らから感応何か 得るのも難しいです 彼らが「来た また 説教しに来た」と 言うからでしょう しかし マスターが 花蓮刑務所と宜蘭 刑務所で講義した時 受刑者はマスターの 無量の愛によって 感動し変えられました 何人かが印心を 求めました 印心を受けてない人も 瞑想の方便法を 習って 素晴しい利益を 得られました 従って マスターは 本当に悪魔いわゆる 罪人を天使に変える ことができます

マスターのパワーは 計り知れません 六番目の奇跡は マスターの写真が 巨大な光を放つことで 屏東での 最近の講義では 取られた写真は マスターが金色の光で 輝くのを示しました 写真を見た時 私達はフィルムが 悪いか撮影技術が 良くないのでは ないかと思いました どのように 人が衣服と皮膚を含め 金で 塗装したように できますか しかし マスターは 写真は素晴らしいと 金色の光と言いました それを考えて下さい 寺の金色の仏像は それに似ています マスターの写真は 様々な光を放ちます

第二の点は マスターの法門を伝え 印心する パワーについてです この頃 最も人気が ある経典は 観音菩薩の普門品です 観音菩薩の普門品は 無盡意菩薩が印心を 受ける時の内面体験を 記録したものです 私が知っている限り これらのビジョンは ただ普通でした 私にはいくつかの 最近の印心会の期間中 護法として働く幸運と 祝福があったからです マスターが毎回 印心会を終了する時 新しい印心者の 内面の体験に関して 質問しました 彼らの多くには 無尽意菩薩より良い 内的体験がありました

とても多かったです 釈迦牟尼仏の 弟子が印心した時 彼らは阿羅漢の位に 達する事ができました マスターの弟子達も 同じ経験がありました そして各期間中には 内面の体験をした人が 多くいました 第二に マスターがフォルモサ (台湾)に来る前に 最高の内的な幻視は ある有名なマスターに よって報告されました 彼は一日中十八時間 座禅し 一日一食し 三十年間隠遁しました 彼は三十年間一人で 禁欲的に修行しました 彼の内的な体験は 雷の音を聞く事でした あなたが私達の 印心修行者に 尋ねるなら 雷の音は 低レベルの音です 大した事でありません けれどこの導師の話は 大騒動を惹起しました また 非常に有名で あった他の在家の 修行者がいました

私は常によく彼の本を 読んでいました 彼の内面のビジョンは また 高い水準の 音でないエンジンの 音を聞くことでした 我々修行仲間はずっと 高い水準があります 三番めの点は 印心の時 マスターは 世々代々蓄積された 私達のカルマ(報い)を 断ち切れることです

私たちは世々代々 この俗世界と六道で 輪廻しました そして 沢山のカルマ(報い)を 作りました 私達のすべての カルマ(報い)を 取り除くことなしで 三界から 逃れるのは不可能です それは私設貸付業者に 関わっているようです ローンのお金を取って それのすべてを 費やして あなたは 逃げたがっています 債権者は確実に貴方を 見付けようとするし 自由に国を出る ことができません 従って マスターが 印心を与えるとき 彼は 多くの生涯から 蓄積された弟子の カルマ(報い)を 除去せねばなりません

それは医王と 薬師如来の 両方が印心を与える 悟りを開いた マスターの功徳を 讃嘆した理由です 彼らは 我々に千万の 肉体があって 香りを それらに塗りつけて 仏に供養するために 我々を焼身しても 悟ったマスターが 私たちに与える印心の 功徳に恩返しできない と言いました 台南で ここ十年間の 統計によりますと 以前は言うまでもなく 私は統計を読みました 一年の肉類の消費量は 四人が大きなブタと 十五羽のアヒル 魚に にわとりを 消費できる量です

それで 幼少の時から 私たちはどのくらいの 肉を食べてきましたか 前世で 私たちは どのくらい更に 食べましたか 無数の累生の間には あなたは 私たちが どれ程カルマ(報い)を 招いたか想像できます しかし マスターは それを除去すべきです マスターは一度に 数百人に印心を与えて 全てのカルマ(応報)を 運んで それを消化し なければなりません 彼女に無限のパワーが なかったら 気楽に 留まる事ができません 今日 ここに座って いないでしょう 彼女の力がどれくらい 大きいか想像できます

一度 私はマスターに マスター あなたの 偉大な力は恐ろしい 悟ったマスターが弟子 一人のカルマ(報い)を 消化するのはすでに 信じられません しかしあなたは同時に 沢山の人を印心します その後 あなたはまだ 何事もなかったかの ように気楽に見えます 翌日あなたはそれでも 講義に出かけます 苗栗での印心の後に あなたは私達の退屈な 演技を見るために  まだ出て来ていました あなたはとても偉大 三番めに 私たちが阿弥陀仏経で 知っているように それは記録されてます 「釈迦牟尼仏は わずかな祝福された 恩恵と功徳を通しては 西方浄土に行けない」 と言いました

彼は阿弥陀仏の浄土を 彼は阿弥陀仏の浄土を 讃嘆しました 死後西方浄土に行きた がっている人はただ 親切のわずか幾つかの  種 少し祝福された 恩恵または若干の因縁  以上を持つべきです 阿弥陀仏の浄土の 衆生は少なくとも 阿羅漢のレベルに あるからです 彼らの多くは菩薩です 彼らの中にはもう一度 修行するため人間娑婆 世界に来る事によって 成仏を達成する準備が できてさえいます 彼らは多くいます でも私達がマスターの 弟子を見ると 彼らは同じです

彼らには多数の 善の種を持っていて 多くの福報と 縁があるため 浄土に行けるのです 釈迦牟尼仏の弟子で 須陀垣 (聖人の流れに入った 者)にいる人がいます ですがマスターは 約束してくれました 印心後 彼女の方法に 従って修行すれば 須陀垣でなくても 少なくとも 阿羅漢になれます 最近 二、三日前 屏東に住む ある修行仲間が なくなりました なくなりました 彼は一貫道の リーダーでした 印心後 彼は病気になり それでもマスターの 方法に従って 修行を続けました 一年半後に 阿羅漢のレベルに 到達しました

亡くなるとき 非常に良い内面の 体験がありました 亡くなる際に 修行仲間が 彼のために祈る間 非常に明るい光を 見ました 二番目に 阿弥陀経の中で 言われています 西方浄土に 住んでいる衆生は 一回の食事の間に 十万億の仏土へ 旅できるとあります ですが マスターと 共に修行すれば 同様にできると 発見しました 短時間で マスターも多くの所へ 連れて行き 沢山の 事を学ばせます 一回の食事の間 または三十分 または二十分で 十万億の仏土へ 旅できます 何をしにそこへ 観光ではなく 学習のためです マスターの弟子も 同様にできます

これは非常に 不可思議なことです 次は マスターの無限の 愛と忍耐力です 知っている通り 在世のマスターの目を 一目見れば 私達は解脱します むかし 楞厳経の中の 物語を読んでいると 阿難が 間違いを犯したため 釈迦牟尼仏は 彼を連れ戻すよう 文殊菩薩を送り 釈迦牟尼仏は手を 阿難の頭に置き 彼を加護しました この物語を読んだ時 とても感動し 羨ましく思いました 釈迦牟尼仏は それほど慈悲深く 仏の手を使って 阿難の頭に 触れたのです それが私達だったら どれだけいいのか マスターに付いて 修行した後 何でも ないと思いました 私自身の経験からして マスターから 頭を十数回 触れられました

マスターが弟子を 加護した最高記録は 去年七日間の リトリートで 参加した在家の 修行仲間全員に 加護したときです 約千人に及び 正確には八八六人です 七時間かけて 加護しました 一回の加護で 頭に触れたり 目を見るだけでなく 抱擁したりフルコースの加護です ビデオ撮影をする 出家人の修行仲間で 非常に優れた 霊修行者ですが

長時間でなく 形としての加護を すれば良いと 思ったくらいでした ですがマスターはなお 最大の忍耐力と愛で 修行仲間の皆を 加護しました 釈迦牟尼仏が この世で伝法した時 すでに十方の如来は 最も尊いお方と 彼を称えました ですが この末法時代で マスターは私達 頑固な弟子を 教えているので 如来はどうやって 彼女を称えるでしょう 後になってみないと 分りません 四番目に 仏陀のレベルです 開悟したマスターや 仏のレベルを知るには もちろん 人間の頭脳では 見当付きません ですが 他の仏陀と 比較できます マスターはかつて こう比べました 彼女は 約三種の 仏陀のレベルがあると 言いました 例えば 一般の霊修行で 到達した 金山活仏もまた 金山活仏もまた 非常に慈悲深くて 磁場を持っています 彼は 唾液や汚物 仙丹や鼻水で 病人を加護できます 唾液や鼻水を 食べた病人は すぐに病気が 治りました

他の仏陀のレベルは 唾液などで 人を加護しません 彼らの名を唱えれば 病気が治り 解脱できます 観音菩薩も 阿弥陀仏も そのレベルです 念仏することによって 涅槃(極楽)に 達せます 誠心誠意に仏陀に 祈れば 仏陀は あなたを救いに来ます いったん病気が仏陀に 癒されたら  二度と病まないのです でも  一種の最高レベルの 仏陀がいます 彼あるいは彼女の 名前を呼ばなくても  彼あるいは彼女は あなたの苦痛を知ると  直ちにあなたを救いに 来ます 誰がこの最高の仏陀 でしょうか マスターは以前誓願 したことがあるが 恥ずかしくて人々に 言えないのです だから 私達弟子は それを教えましょう マスターは言いました マスターになる前 フォルモサ(台湾)に 七日間のリトリートに 参加した時のことです マスターは仏陀の名を 唱えた時  内面で 阿弥陀仏と コミュニケーション する 光景を見ました

「あなたは偉大で 慈悲深く四十八誓願を しました 人々があなたの名を   唱えると彼を救います でも 誰もがあなたの 名を知るわけはない 例えば アフリカの 人々は知りません だからあなたの誓願は 彼らには無用です」 マスターはこう 言いました「いつか 私が成仏したら  衆生が私の名を 唱えるのを待ちません 彼らが苦しんでいると 知ったら 直ちに 救いに行きます」と ご存じの阿弥陀仏の 誓願の一つですが 阿弥陀仏の名を 七日間唱え続けると あなたを西方浄土に 連れていくものです でも一心不乱に七日間 阿弥陀仏の名を 唱えねばなりません 容易ではありません

試したことがあるから 知っています 私は朝も 夜も 唱えていたので 容易ではないことを 知っています 一番簡単な方法は 死の時阿弥陀仏の名を 十回唱えれば 往生できることです つまり  あなたは死に際に  阿弥陀仏の名を 集中して 十回唱えると  阿弥陀仏が 迎えに来るそうです でも ご存じの通り 死ぬ時は非常に 苦しいです 魂が肉体を 離れようとする時 体から一切れの肉を 剥がすようで とても苦しいです その時 人々は 世俗的な財産や まだ見送りに 来ていない 子供たちに 執着します

仏陀の名を唱える事に どうやって 集中できますか これも容易ではない 最後に当初はあえて 話したくなかった 個人的体験を皆さんと 分かち合いたいと 思います 数週間前 体験の中で ある仏陀が教えを 説くのを見ました 彼は多くの 菩薩や阿羅漢に 囲まれていました 教えを説く時  その仏陀は 急に眼を閉じ 一瞬中断しました 一筋の光が 下りて来ました すぐに再び一筋の光が 上がって来ました ほんの一瞬の ことでした そして その仏陀は 話を続けました 彼は地球に行って 帰って来たと言った あっという間に 彼はこの世界へ旅し また戻ったのです

でも 彼の弟子の 菩薩や阿羅漢たちは こんな短時間に 彼らのマスターが 地球を往来したとは 信じられませんでした その仏陀は言いました 「信じないなら  待って見ればいい」と 直ちに 片側から 極めて光り輝く 多くの菩薩と 阿羅漢たちが現れ しかも彼らよりも レベルが高かったです 仏陀は説明しました 「彼らは 今私が 地球に行って 救った人々です」と そして仏陀は 教えを続け  この世界は 霊修行の 一番良い場所だと 称えました 地球の衆生には 体があるからです

更に 地球に多くの 変化する状況と 感情があるからです 成功も失敗もあり 千変万化の状況も あります 「彼らは浄土にいる あなた達より 早く進歩できます 下の地球での 一日の修行は  上のここでの 百年の修行以上です」 仏陀はこの世界は 信じられないほど 霊修行の理想の場所と 称え続けました 皆は彼の話に 魅了されました それで彼は言いました 「非常に偉大な 古い仏陀が 降りています 助手が必要ですが 行きたい人いますか」 皆が手を上げました その古い仏陀は 誰でしょう ほかならぬ 私達のマスターです 降りて来た羅漢と 菩薩は誰でしょう 印心を受けに来た人は その答えが 分かるはずです 
ただ今 心からの拍手で マスターを お招きしましょう ありがとうございます ありがとう 皆さん

仏教の 伝統によると  講演の前に  経典を読んでから 論じます  だから「講演」という 皆さん二分間 お待ちください 釈迦牟尼仏陀の 三十二相を  読んでいきます 三十二相とは 何でしょうか   まず初めに 第一相から始めます 第一相は 足下安平立相 (説明してください) 偏平足であると いう意味です 第二相は 足下二輪相 足裏に 千輻輪が現れている 千輻輪が現れていると いう意味です 第三相は 長指相 第四相は 手足柔軟相 第五相は手足指慢綱相 手足の指の間に水掻き 状の膜があります

第六相は 足跟広平相 第七相は 足趺高満相 第八相は  伊泥延腨相 鹿王のように 荘厳で堂々としてる 第九相 正立手摩膝相 手の長さが ひざを超す位 第十相 陰蔵相 生殖器が体内に 隠されている 第十一相 身広長等相 身長と両手を広げた 長さが等しい 第十二相は 一一孔一毛生相 毛孔の色は青瑠璃色 第十三相 毛上向相 体にあるすべての毛が 巻き上がっている 第十四相 金色相 全身が金色に 輝いている 第十五相 丈光相 四方に一丈の光を 放っている

第十六相 細薄皮相 皮膚は非常に滑らか 第十七相 七処隆満相 両手両足両肩首筋に 肉が円満で浄らか 第十八相両腋下隆満相 両腋の下の肉が ふくよかである 第十九相 上身獅子相 獅子のような胴体 第二十相 大直身相 身体が端正である 第二一相 肩円好相 肩が丸く豊かである 第二二相 四十歯相 白い四十の歯を持つ 第二三相 歯斉相 歯の並びが美しい 第二四相 牙白相 四本の歯は 特に白くて堅固 第二五相 獅子頬相 獅子のように 両頬が隆満している 第二六相味中得上味相 何を食べても 最上の味覚をもつ 第二七相 大舌相 舌が長い

第二八相 梵声相 梵天のような声は 清浄で 遠くまで聞こえる 第二九相 真青眼相 眼は紺青である 第三十相 牛眼睫相 睫が長く 牛王のようである 第三一相 白毫相 眉間に右巻きの 白毛がある 第三二相 頂髻相 頭頂の肉が隆起してる 全部で 三二相です ありがとう  彼女が読んだことが 聞こえましたか 私が仏陀だとは 信じないでしょう 私はどの相も 持っていませんから 私には 金色の毛穴は ないし 私の睫毛は短く 牛のようではないし 私の足は短く 鹿王のような 足ではありません

八十種好というのも あります 例えば 象のように歩き  鴨の水掻きのように 指がつながっている 魔のように 見えますね 違います 意味が違います 仏陀は私達の想像とは 違うことを 意味しています 彼の良い相はほとんど 動物の相で あることに 気付きましたか 仏陀になったのに動物のように見えれば あえて誰が仏陀に なるでしょうか 本当にナンセンスです どうりで仏陀を 見付けられないのです 彼のまつげは 牛のように長いはず だから そうですね そして足指は 全て繋がっていて 鴨の水掻きのように 見えるのでしょうか そんな足は 鴨の水掻きだけです 彼の鼻は鷲のように 見えると 聞いています

そして足の裏が 平らです こんな足は 病人だけです 皆ご存じのように この種類の足は 「扁平足」です そして彼の脚は 鹿のようで 彼の生殖器は 馬のようだと言います 全ての特徴は 牛 馬 鹿と鴨と 関連しています これは仏陀の容貌 ではありません 仏陀になった人は 皆こんな特徴なの ではありません それは変です どうして 全ての特徴は動物に 似ているのでしょう 何故だか分りますか これは凡夫の 考え方です 私達は執着心を 捨てる事ができません 牛や馬のような 動物が好きで この世界に未練があり ひいては 動物の特徴でもって 仏陀を描写しています

私が仏陀になって 全ての特徴が こうだとします 上半身は 牛のようで 下半身は 馬のようで 片方は鹿みたいで 片方は金色で 毛は全部上を向いて いるとします 人間は体毛が そんなにありません 動物だけが沢山の 毛があるのです 毛が上に向くとか 右に傾くとなると 羊のようです 従って私達が 実像を知らないと ずっとそのような 特徴を探すのです それでは仏陀を探す ことができません 私は世界中方々を 旅して回りましたが そのような仏陀は 見た事がありません 分りますか 動物だけがそんな 形をしています そんな形をしている 人間はいません 仏陀はなおさらです 要するに人々は やみくもに話して 釈迦の名誉を 傷つけています それでも三十二相を 讃えています その特徴がなぜいいか 私には分りません

ですから私達は 凡夫の見方で仏陀を 見てはいけません 仏陀を外見で 判断するとしたら 長い時間かけて彼を 探しても見つける 事ができません 分りますか さらに私達は彼が とても優しくて 毎日のように 私達に対し 貴方は素晴らしいと 言い ただ座っている だけだと思っています そうではありません 仏陀になっても 個性は 変わりません 少し変わることも ありますが  時には変わりません

しかし自分の個性を 最大限に使って人々に 利益を与えます 私の意味が 分りますか 例えば 彼は辛抱強いですが 立腹する事もあります ただ目的があって 怒るわけです 分りますか 彼は怒る必要が ある時 その個性を使います またいつでも 止められます 分りますか 怒る必要が ある時怒ります 彼は全ての性質を 備えていて それを  正しく使います 外見からすると 私達と同じですが いつも適切に 使うので衆生に 利益をもたらします 私達は彼と 同じ性質があっても 使い方が分らないため 適切に使えません

分りますか 私達は怒るべき時 怒りません 優しくあるべき時 優しくしません 逆にしてしまいます 何故物事を反対に してしまうのでしょう それは 私達は自分の 大智慧 最高の 自我と繋がって いないからです この「自我」は即ち 仏陀になった人です 私達は本々仏陀です 昨日私が言ったように 鏡のせいで ゆがんで映る鏡の せいで 皆が違った 形に見えるのです 怪物に見えます 沢山の鏡があって それぞれ違った 形に映ります 私達が鏡の前を 通るとき 鏡はそれぞれ皆 違った姿を映します

同じように毎回 私達が生まれる時 人間の形もあれば 動物の形や悪魔の形 幽霊の形 女性の形 男性の形に変わります いずれも違った鏡の 前の通るからです しかし私達の真我は 同じです 分りますか ですから今私達は 真我を再発見し 真の正常な 自分を見るべきで 鏡を見るべきでは ないです 分りますか どんな鏡の前を 通っても それを見ないで こっちの方を見ると 私達はそのような姿 ではない事が分ります ただ私達はそっちを 見る事に慣れています そこで例え ある賢明な人がいて 彼は自分の真我を知り 鏡が私達を欺いている ことを知りそれを 私達に告げても すぐに 彼を信じたりしません

何故でしょう それは鏡の中の私達は 醜くても面白い からです 分りますか 鏡の前を通ると それぞれみな 違う形だからです それに魅惑され 好奇心が強くなる からです 分りますか 私達はそれを ずっと見つめます 鏡の中の自分の 姿をずっと見つめます 今私達がこの世界と 自分を見ているのと まったく同じです 分りますか この世界は鏡で 私達はこの鏡に 映った姿です 今 鏡の幻想から 脱出した人が 私達に 「皆さん苦しむ必要は ありません 鏡の中の自分の姿を 処理するのに時間を 浪費する事はないです 振り向いて自分自身を 見るべきです

すると 自分は誰か分ります」 と言います しかし長い時間 聞いて初めてゆっくり 見るようになります 聞きたがらないと その人はまた言います ここを見なさい 鏡はここにありますと 彼は美しいもので 私達の気を引きます 見てこっちを見るのよ ここにきてと言います 彼は私達の注意を ずっとここに引きます 分りますか 同じように 霊修行者も このように沢山の 境界を通ります

徐々に益々近くに 見え そして 自分自身が見えます 従ってすぐに 自分の全体像が見える わけではありません 私達は自分の 頭や顔は 見えません しかし 足が見えて 手や脚や胸部が 見えます 徐々に私達は自分は 正常な人だと分ります 分りますか 同じように 最高の次元は誰も 描写したりはっきりと 説明できません ただ分っています 例えば私は自分の頭を 見たことがないです 私は自分は頭があって 自分はどんな姿か 大体分ります 私が正常な自分の 姿を見るためには 正常な鏡を見つけ なければなりません その種のゆがんだ 鏡をみてはいけません 少なくとも本当の 自分の映像が見えます

それは真我を欺く 姿です だから人は 観音法門を 修行して 開悟した後 変わるのです 意味が分りますか それは彼が別の 鏡を見たからです 例え 彼はまだ真我が 見えなかったとしても ただ真我の一部を 見たとしても 彼は別の鏡を見つけて 見なければならないと 分ったのです 例えば彼は 戒律を保ち 菜食し 毎日瞑想して この幻想の世界を離れ 幻想に 執着しません これは正常な鏡です 従って今私達は 自分を見たとき 大分正常です たとえ私達が依然 この世界に住み まだ幻想の世界と 関係があっても この幻想は大分 正常になっています

ですからある人が 霊修行をし 道徳的で 戒律を保つのであれば 勿論彼の生活は それらの非修行者と 違うわけです 彼の生活は純粋で 整然として心地よく 順調です 修行しない人の人生は ゆがんでいて 何もかも苦しみで 何でも困難で いらいらします それは彼らが 違った鏡を 見ているからです 智慧のある人は 正常な鏡を 見ます 修行する人が 正常な鏡を 見るのと同じです ですから私達の 生活が順調かどうか 私達の振る舞いと道徳 水準をみれば人々は 私達の智慧を見分ける ことができます 徐々にできます

この幻想から 正常な幻想から私達は 自身を認識できます ですから修行には 戒律が必要ないとか 修行者は戒律を 超越するなどと 言わないことです そんなことありません 高い境界で私達は 戒律を超越します この世界では 私達は戒律を 厳格に守り社会と 融合すべきです でないと私達の 姿は醜く 映ります そして私達はその 映った姿が自分だと 思い動揺を感じます そして何故私はこんな 姿だろう 醜いな 何故私の頭は 小さくてお腹は 大きく両手は曲がって いるのかと嘆きます 分りますか きれいな人を 私達は天使のように 月の妖精嫦娥のように 美しいと言います

月と星のようだと いいます そうですね このように例えます 美しい人を牛とか 馬とか鹿に例える 理由はありません それは実に 悪魔の考えです 外道の人達が 手を尽くして釈迦の 名誉を破壊するために 言ったことでしょう 釈迦をテーマにして 彼をからかっています 後世の人は真実を 知らず迷信深くそして 誰も真実を教えて くれなかったため 私達は盲目的に信じ いつまでも牛や馬の 特徴を唱えて 仏陀はこのようだ といいます 釈迦にとって実に 不公平です 皆さんは不公平だと 思いませんか 仏陀になっても 以前と同じ姿です

勿論 もっと美しく 見えます 私達の眼に 見えない魅力と 美しさが 人々をとても 心地よくします 見れば見るほど 心地よく感じ もっと見たいと 思うわけです 私達を見ると彼らは 離れたがりません 飽きることなく 見ていたいのです 従って 経典の記載に よると 釈迦が存命の時 公に姿を現すたびに 彼の弟子達は 合掌するとあります 分りますか そしていつまでも 彼を見つめ 目は他の何も 見ませんでした 彼を見るのが大好きで 見飽きることが ありませんでした

これが目に見えない 美しさです 凡夫の場合は 例え配偶者を愛して いるとしても 長く彼又は彼女を 見ていると飽きます 分りますか 長く目を見つめると 疲れてしまいます しかし仏陀に なった人 道を得た人や 宇宙の万物と一つに なった人の目を 見つめると 決して飽きません 自分も何故だか分らず ただ彼を見るのが 大好きで彼に接近 したいのです そして日夜彼を 見つめたいのです 何故だか分りません 彼が何をするにしても 彼を見ていたいのです それで満足なのです わかりますか

彼の目に見えない 美しさのためです 彼の外見は そんなに変わらなく 外見は見た目は 普通の人と同じです 私達の修行仲間も 印心後変わりました 皆知っていることです 自分と他の人と 見た場合それが 分ります 分りますか 優しくなり 表情は穏やかになり 肌は艶やかで 白くすべすべに なりました 以前のように暗く ありません

私達が 仏陀になり 幻想から 解脱するには たった 一つの道があります 内面の自分の 真我を見ることです あの鏡をみるのでは ありません 反対側をみることです 先ずは足を見て そして脚と手を見て 腹部と胸部を見て そして肩をみると 自分が違って 見えてきます 同様に私達は 沢山の体があります 昨日私が言ったように この肉体は一番 外側の層です

他にも目に見えない 体があります 見た目は肉体と まったく同じです それを阿修羅の 体といいます 死んだらどんな人でも その体を得ます 修行していない 修行していない 人でもです 彼らはもっと上の先を 見てなかったからです 足の部分だけを見て 止まったため 阿修羅のレベルに 達しただけです 同様に修行者が 真剣に修行せず 高い境界に達して いないうちに死んだら やはり阿修羅の 世界に行きます それもいいでしょう そこにも開悟した マスターがいて 引き続き私達を教え 私達が仏陀になるまで 教え続けます

この世界にいる時 開悟したマスターを 見つける事ができず 帰依して 彼について学ばず 信仰がなかった人は 阿修羅の体を 得てから再び 肉体に戻ってきます それは私達が 上を見ないで ただ自分の足と 足取りを見たからです そしてまたその鏡を 見たからです こっちとそっちは 大変近いです 要するにそちらを みるということです こっちを見て 再び あっちを見ます このようにあちこち 見たりしています しかし上の方を 見ていないため 自分の全体像が どうなっているか 見えません

同様に 私達 修行者は 開悟したマスターが 私達に沢山の体が あることを教えます そして一歩一歩どう 見るか教えてくれます 従って私達のレベルは 益々高くなり 私達は前と 違ってきます これは私達自身の 違った体の 違った部分 だからです 違った境界は即ち 私達が創った 境界です 私達の体は いわゆる体は 体一つに宇宙全体が 含まれています 私達は徐々に一歩ずつ 上へ上がります 宇宙にはそれぞれ 異なる体と衆生が いますが これはただ 自身の反映です 分りますか 実際に多くの衆生が いるのではありません

だから全ては心により 造られるといいます 私達はだんだん 上へと進み 徐々に真我を認識 するようになります 分りますか しかし最高の境界に 達したら説明 しようがありません 最後には自分の頭が 見えないのと同じです 頭があると分っていて 見る事はできません 見たとしたらそれは 本物ではありません 分りますか 必ず鏡を見て 初めて私の頭は こうであると分ります 私達は自分の頭を 見る事ができません 鏡なしでは説明する こともできません 同様に 仏陀になるのも 一種の幻想です 分りますか

最も美しい 幻想です 従って仏陀に なってからも 更に上の先へ進むと 無仏陀の 境界です 「大智愚の如し」の ようになります 何も分りませんが 何でも知っていて 何もする 必要がありませんが 何でもできます 成さなずにして成し 知らずして知る境界で これは最高の 仏陀の境界です 仏陀になるのは 正常な鏡を 見るのと同じです 鏡で頭を見て 足と体全体を見て 私の真我はこうなんだ と分ります これがいわゆる 真我を知り私達の 本来の面目を知る事で これは第一歩です もし本当に真我を 認識した場合 それが見えません

目で頭上になにが あるか見えないのと 同じでそれが真我です 分りますか 分っていますが 見る事はできません これを神性 佛祖といいます このレベルに達する ことはとても簡単です 観音法門を 修行すればいいです これはとても早いです 徐々に私達は自分が 誰なのか体験できます 分りますか 例え 時々 境界を表現する ことができなくても はっきりと分ります 時には 幾分開悟しても また凡夫のレベルに 落ちてしまいます しかし後に再び 分るようになります

このように毎日 練習すると ある日 私達は完全に 開悟し 二十四時間 開悟した状態にいます 分りますか その時は 私達は何でもでき どんな人も救えて 遍在でき 神通力があります 宇宙全体と 大地 万物と全世界が私達の 手の平にあります だから仏菩薩の力は あんなにも不可思議 なのです 何故なら 彼らは全ての幻想を 手放し 真理だけを 知っているからです 誰かが真理を知らない としても 彼は 真理を教えません 真理は教えられる ものではなく 伝えるものだからです 分りますか 直に伝えなければ なりません

例えば 私が経の講義を 一日か二日 やった とします 時には浅い 内容で分り易く 時には深い内容を 話します 皆さんの頭脳は 時には分って 時には理解できません しかし魂は何でも 分っています 皆さんは全員ある レベルに達しています それを知る知らないに 関係ありません 皆解脱します 真我が私の話を 分っているからです だから老子はこの世は 全てが完璧だと 言っているのです 私達が 苦しくて この世界は苦しみに 満ちたと思い こんな生活はもう まっぴらだと思ったら ではすぐさま すでに 平静と永遠の 平和な境地を得た人を 見つけることです

そしてどうしたら できるか学ぶことです さもないとこの世界は 実に完璧です 私達の真我は決して 苦しみません ただ苦しみを 観察するだけです 私達は苦しみに 付着していて それで痛んだり 喜んだりします 映画や芝居を 見ているのと 同じです 分りますか ステージの上で 俳優が喜怒哀楽を 演じると私達も それを体験します 時には 悪い人がよい人を 不当に咎めると 私達はとても 腹が立ちます そうですね 私達がそのいい人と 繋がっている感じで 彼の苦痛は私達の 苦痛に感じるからです

私達は自分が不当に 扱われている感じで 泣いたり苦しんだり します そうですね 私達は彼と 繋がっているからです 例え私達は 観察者だとしても その時は誰かが あなたに ねえ 何故それに 巻き込まれて 泣くのですか ばかげています ただの芝居です 泣かないでと言っても 分りますか やはり泣くのを 止められません 泣き止むまで大分 時間がかかります すぐに泣きやむ ことはできなくても 私達の頭脳は 分っています そうよ ただの 芝居よ という風に わかりますか しかしやはり 涙が出て 心は傷つきます

同様に 私が経の講義をする時 皆さんは理解しても しなくても 構いません 輪廻の歯車は 徐々に速度を落とし 始めています もうブレーキがかかり 暫くすると止まります ブレーキをかけた時 やや時間がかかって 車は止まりますね 分りますか エンジンを 止めても エンジンが冷めるのに 暫く時間がかかります 同様に私達が 仏陀や大修行者の 経の講義を聴いたとき 輪廻の輪は 壊れ始めます 分りますか 昨日皆さんは私に 何故 釈迦が 経の講義をした時 ある人は阿羅漢の レベルに達しある人は スローターバンナの (須陀洹)レベルに 達したかと聞きました

これは天眼で 彼らのレベルを 見なければなりません そのレベルは 自分で又は頭脳で 達したわけではなく 観察者が 分っていて 劇で演じている人では ありません 私達の頭脳はただの 機械です 分りますか カメラと同じで 分っているのは そのカメラマンで カメラではありません カメラは前に おかれているものは 何でも記録します できた映像が 即ち私達が 見ているものです しかしその観察者は 違います 分りますか 彼はそれらはいずれも 自分が撮ったもので 自分ではないと 分っています

時々こんな話を耳に します 画家は美しい 女性を描きます 多くの芸術家は それに 恋してしまいます 自分自身の作品に 恋するのです ずっと見つめ 大好きになり 幸せを感じます 例えば彫刻家が 彫像を彫ったとします 彼はそれがとても 美しいと感じ それに恋します 詩人李白のように 彼は大知者で とても慈悲深く 両国の間の戦争をも 制止した人です しかし彼は幻想の愛を 止められませんでした 湖面に映る 月を見た時 彼は水に飛び込み それを抱擁したのです 分りますか それは 酒に酔ったからです 同様にこの世界で 私達は毒物や酒 人を 迷わせるものを飲んで 皆がこの幻想の 世界で生きています

私達はこの幻想の 世界と感情を 確かなものと認め  それに翻弄され それが自分だと 勘違いします 私達の真我は決して 生まれず滅びず 決して不潔でも 純潔でもありません 私達の真我は 最も優雅で 高尚で 智慧に満ち 愛に満ち最も 純潔かつ純粋です 私達の真我は決して 罪を犯しません ある日私達が 突然開悟したら 自分の真我は純粋で あることが分ります そして カルマ(報い)は 本来ないことが分り 私は何も悪い事をせず 皆このゆがんで映す 鏡のせいだと分ります 私の意味が分りますか 全ては芝居です

ですから悪いカルマ (報い)は消し去る ことができるのです 開悟したマスターの 責任は 私達の魂が 即ち真我が これ以上 鏡を見ないで反対側を 見るように 分らせることです ですから私達は 突然カルマ (報い)が消えた 感じがし 軽やかで 幸せを感じます そして自分は正常な 人間だと感じ 私達の智慧が開いた ことが分り 何をしても明晰に 処理できます それは私達の 真我が目覚めた からです それはマスターが 私達のために何かを したのではなく ただ マスターは私達の 注意をその鏡から 引き離し 別の方向に 注意を引いたからです

少しずつ 私達に 美しいものを見せて 「こっち見て こちらを 見るのよ」といいます 分りますか 私達は彼に従って 彼が指す 方向を見ると 自分の足と膝と 手そして自分が持って いるものを全部見ます そして私達は なんと美しいのだろう 一度も見たことがない そっちは醜すぎる こっちはきれいだと 言うでしょう 私達はマスターに 感謝し 彼がこれらを くれたと思います しかし私達はもともと 何でも持っています それを見るのを 忘れただけです 従って自分を救えば 同時に他の人をも 救えます 何故なら彼らも 幻想によって生まれ 皆さんの親戚 友人も皆幻想から 生まれたからです

貴方が目覚めると 貴方の親戚友人 五代 六代 七代 八代の先祖がみんな 解脱します 全員一緒に 幻想の中にいるので みんな一緒に 解脱します これは驚異的な ことだとか 迷信だと 思うことはありません 例えば 私が一人でそれぞれの 明かりの所に 立っているとします するといくつかの影が できます そうですね 私が離れたら 全ての影は 消えます 私が回りに幾つかの 鏡をおいて私一人 中央に立っていると 数十もの 姿と沢山の 人間が映ります 私が離れると 鏡に映る姿は 全部消えます

分りますか 素晴らしいです おめでとうございます 皆さんの知性に 拍手を送ります 皆さんはすぐに 開悟しました 簡単に分る事ではなく 誰もが分る ことでもありません 皆さんは分ったのです 素晴らしいです おめでとうございます 今から 皆さんは全ては幻想 である事を知るべきで 観音法門を修行する 事すら幻想です ただ これは美しい幻想で もっと心地のよい 幻想です 私達に苦痛を感じさせ 涙を流させ 挫折感を 感じさせません 生きていくに 耐えられなくて自殺 したいほどのつらさを 感じさせません 従って二つの幻想が あるとしたら 私達は少なくとも いい方を選択できます 私は皆さんが 私について 観音法門を習うことを お勧めします この世界が苦しくて 耐え難いと 感じるなら自分が 誰だか分らない人 この幻想が余りにも リアルで脱出できない と感じる人は 私達と一緒にこれを 習うと自身の偉大さを 見つけられます
私は 皆さん全員が はっきり分っている ような感じがします 皆 仏陀です ええ 仏陀が仏陀に 話しているのですから もちろん分ります 家にいて 自分は凡夫だと 思い込んでいましたが ここに来て私の経の 講義を聴いて自分が 仏陀だと分ったのです こういうことです 誰かが思い出させて 理論的に 私達の仏性が どこにあるか 指摘しただけです

皆 もともとそうです 修行してもしなくても 仏陀なのです 私達が苦しむのは 反対側の自分自身を 見ていないからです その苦しまない人を 見ていないからです マスター 修行者は 毎日瞑想に 精進する他に 智慧を得る方法は ありませんか どんな事でも智慧の 発展に役立ちます ただ開悟して 初めて 夫や妻 子供 友人 花 果物 仕事 あらゆる労働が 修行方法であることが 分ります だから 歩く 休む 座る 寝るのも禅と言います しかし皆がこう 言いながら誰も 禅が 何か分っていません

だから私達は 不幸せなのです スプリームマスター チンハイ こんにちは あなたは 悟りを開くまで きっと数え切れない ほどの試練が あったと思います 様々の困難に遭い 挫折を感じ 落ち込み絶望さえ 感じた時 どのように その痛みを伴う 心境を乗り越え 修行の道のりで そして日々の生活の 中で楽観的に確固たる 態度で生きたのですか そうです 沢山の試練があります 例外ある人はいません 時々その試練は 大変非論理的で 時にはとてもひどく 時にはとても 悪質な試練です 時々その試練は 私に 生きていられないと 感じさせるほどです

しかし私は観察し続け 自分自身に 「よし 今日私は もう生きていけないと 感じた」 どんな状況が起きても ずっと観察し続けます 分りますか 私は自分に言います 「今日は気が晴れない 泣きたい気分だ なら泣いたらいい 気分が悪いなら そのままにしておこう 明日は 違うだろう」 明日は違うと私は いつも知っていました なぜなら私達は これまでの成長を 見た場合霊修行したか 否かに関らず 論理的に言って 生まれてから 今日まで 昨日と今日が同じ だった事はありません 今日がよくないと 明日はきっとよく 明日がよくないと 明後日はきっとよく 今日雨だと 明日は晴れます 自然を観察すると 分ります その境遇に落ち入って 隠れていてはだめです

その状況におかれたら それもよく 引き続き 生きていきます これも 一種の気分です 気分は毎日変わります よくも悪くも そのままにしておき 私は常にそうしました

そのままにします 何が何でもそのままに しておきます 苦しい場合 苦痛を感じます 嬉しいなら喜びます 私は余り執着しません

苦しい事は分っていて 感じなくはありません そのままにします 「いいだろう 今日苦しいなら 明日はきっと 嬉しくなるだろう」 と自分に 言い聞かせます また一番苦しい時 それにすぐ 陥らないことです そこで なぜこんなに 苦しいか なぜこれが起きたか これで何が学べるか 考えることです きっと痛みを伴う 苦境から何かを 学べると思います よく観察すれば どんな状況も 私達が学ぶ教訓です よく観察すると 翌日開悟して 嬉しくなります 煩悩は菩提です ですから悩む機会を 逃さないことです 

親愛なるマスター 私の知り合いは 修行し始めた時は 大変純粋で 人を批判したり しませんでした 人が噂話をすると 彼はいつも人に 止めるよう言いました しかししばらく 修行してから 彼はとても批判的に なりました 彼は皮肉な言葉で 人を攻撃したりします なぜ修行した後 このように 変わったのですか これは進歩ですか 後退ですか 時々人は 修行し始めた時は とても慎重です 分りますか より内省的です より内省的です 新婚さんのようです そうですね

大きな声で 夫とケンカしたり 妻を怒ったりしません 結婚生活が 長くなるにつれ 彼らはだらけてきて ある日夫婦は 大ゲンカをしますが 突然ハッとします 「なんてことだ 相手をこのように 扱うべきでない」と 分って仲直りします 修行も これに似ています 潮のように 満ち引きします これは 修行の後退でもなく 時々そのような 振る舞います 潮のようにです ある日彼はきっと 反省して言います 「なんてことだ こんなはずでは なかった」と思い 更に努力し もうだらけたり しません 再び慎重になります そして前より もっとよくなります これも一つの 修行段階です

後退ではありません 時々私達は修行が

後退したように 感じますが そうとも限りません 例えば歩いている時 または運転中 山から岩が崩れ落ち 道を塞がれると 止まらねばなりません 一所懸命その岩を 除けねばなりません 沢山の時間を費やし 全然進まなかった ように感じますが しかしその岩を 除けないと 前へ進めません 分りますか 岩を除けてから 速やかにもっと 早く前へ進みます または 時々 私達の前に 障害物が見えます 直行はできません すると少し退きます そうですね 時々車を 運転していると 前を 障害物で遮られます

すると車をバックして 回り道します そうですね またはその壊れた車が 取り除かれるまで 待ちます  すると通れます これは後退した ことではありません 修行者は 求道心があります 真剣に修行する 印心を受けた人は 決して 後退しません 彼らは暫く待っている 状態です 親愛なるマスター インドのマスター ババジは三千年生きて 長く失われていた クリアヨガを ヨガナンダに伝えた クリアヨガは 観音法門と 異なるのか 教えて頂けますか 違いがないように思います 光と音流を 教えるとしたら 同じです 人々によい事を するよう教えるなら 同じです 誰がどんな法門を 伝授するにしても 内面の音が聞こえれば それはよい法門です 分りますか 私達に真我を分らせて くれるのであれば 一番です 残念ながら ヨガナンダは往生し 彼は自分には後継者が いないと言いました

従って彼の宗派には 開悟したマスターが いないということです 開悟したマスターは この世を去ったと いう意味です マスター 開悟した マスターが この世を去るとき 彼の肉体は定まった カルマ(報い)の 苦しみを受けますか それとも彼の修行 レベルによりますか 修行と関係ありません 彼が開悟した マスターであれば 衆生の悪いカルマ (報い)を背負う わけです 臨終の時幸せな場合と 苦しい場合があります これは彼が悪いカルマ (報い)をどれだけ 背負えるかによります

ただ喜びも苦しみも ただ喜びも苦しみも その時が最後です さらにそれは表面的で 人のもので 彼自身の ものではありません 彼自身はすでにカルマ (報い)はありません 彼は降りて来る時 カルマ(報い)は ありません ここに降りてくる前に 彼はすでに仏陀でした

彼の使命は衆生を 救うことなのでカルマ (報い)はありません 彼は修行する 必要さえありません 修行するのは 人々に 手本を見せるためです

彼が修行しないと 弟子もしないからです ある人が あなたの本を読んで 信じるとしたら なぜ

印心を受けるのですか

印心は自分の 真我を知ることです

あなたが自分の力で 仏陀になり 自分の偉大さを 知ることです 他はただ私に 頼ることであって 皆さんは 自分の偉大さを知らず ただ自分だけが 解脱します 在世の時 仏陀になれません ただ死ぬとき 解脱して 生死の輪廻をしません 印心を受けることで 私達は自分の 偉大さを知り 自分自身だけでなく 五代 六代の先祖も 超昇できます 同時に多くの人々を 救うことができます 開悟した マスターになればです 在世の仏陀はそうです

他は他力本願です 両者は別問題です

私は皆さんが 印心を受けて 自分の真我を知り 自分の五代 六代 七代八代の先祖を救い 彼らを超昇させる ことを望みます 開悟した マスターになったら 真理を説き人々をも 救うことができます

マスター あなたの パワーは遍在し 宇宙に充満していて 道と一つです なのに なぜあなたの 肉体に近づく時だけ あなたのエネルギーを 感じることができて 家では 感じられないのですか 冗談でしょう 誰がそういうのですか 家にいる時 もっと強く感じます そうですね(はい) どこでも 強く感じます 私達の心が 通じていれば 面と向かっているのと 同じで 心が通じてなければ ここにいても 何も感じません こんにちは マスター 釈迦が存命の時 彼と彼の弟子達は 瞑想によって 仏性を見つけたのです

なぜ今の仏教は 経典に 執着するのですか 経典を教え 経典を唱えることが 彼らの修行の 主な不可欠な形式に なっています 仏教は 学問化されつつあり 経典を研究する 風潮が高まっています これらは全て 仏教を学ぶ本当の 目的に背いています 幸いにも スプリーム マスター あなたは適時に来て 私達に 観音法門を伝え 生死の輪廻から 解脱したいと願う 衆生を救ってくれます ありがとうございます スプリーム マスター なぜ人は生まれながら 違うタイプ 即ち楽観的な人と 悲観的な人がいますか 悲観的な人は より内向的で 感傷的で 困難に遭った時 挫折を感じやすいです

これらの人は 修行しないで 彼らの悲観的な個性を 変えられますか それは難しいでしょう 私達は 自分の素晴らしさと 美しい性質を 完璧な性質を 認識しないと どんなに有していても どんなに有していても 満足しません だから悲観的に なるのです 真我を知ったら 満足します さもないと ゆがんだ鏡は 私達を醜く映し 誰が何を与えても 喜べません 私達は食べながら 鏡を見つめては 大声で 「なんてこと 醜い 私が食べている 姿は醜い 醜すぎる」と言います

振り向いて 自分の真我を見ると 例え食べていなくても 私は正常だ 美しいというでしょう 誰かに 何ももらわなくても とても幸せです それが自分だと分かり ですから観音法門を 修行すべきです すると 全てがよくなります 尊敬するマスター 昨夜マスターが 経の講義を始める前に ある人があなたの 真の体が降りてきて あなたの肉体と一つに なり金色の光を発して いるのを見ました あなたの真の体は 赤い袈裟を着ています しかし肉体は 袈裟を着ていません この人が見たのは 本当ですか 彼の目に 問題ありませんか 私は分りません

それは彼の目で 私の目ではありません 彼の目に何か 問題がありますか 彼は他の人を見るのに 問題ありません だからそれを見たのも 問題ではありません 彼の目は正常です さもないと彼は 皆が赤い袈裟を着て 金色の光を発する ように見えるはずです 実はそうではないです 今日私は初めて 経の講義を 聴きました 入り口で香りの匂いが 漂っていました この香りは何ですか 教えて頂けますか たぶん誰かが香水を つけたのでしょう ここには大勢の人が いてきっと誰かが 香水をつけたのです

そうですね 私は何も感じません 両親が沢山の 病気を持っている場合 子供として両親の 苦痛をどう分担したら いいですか 祈ることです 神に助けを祈る事です 最高の神 スプリーム マスターに祈ります 私達の仏性に 祈ることです 両親も自身で祈ると 大分よく感じます 薬を買って 貧しい病人や面倒を 見てくれる人のいない 人に与えてもいいです 両親のお金を 苦しんでいる人に 分けるのも 悪いカルマ(報い)が 減ります 病気もよくなり 気分もよくなります 尊敬するスプリーム マスター チンハイ 人間が この世界にきたのは 修行をする ためですか そうです そうです 他に目的はありません 従って修行しない人は とても苦しいです どんなにお金が あっても 妻や夫 子供が何人いても 苦しいです (そんなに持てますか 多分いますね) それでも苦しいです

何を持っていても 苦しいです 修行者は たとえ 貧しくても それでも 幸せです そうですね(はい) こんにちはスプリーム マスターチンハイ 私は 最近 幾つかの 奇妙な体験があり しばしば 朝四時四十分ごろ  私は寝る時 何かが 私の身体を圧迫し 固定するのを感じて 自由になる前に 数分間 もがかねば なりません 何が起こっているのか お話いただけますか 私も分かりません 仏陀の名前を唱えて それが再び起こるなら あなたが信じる 仏陀の名前を 唱えてください

イエスを信じるなら 彼の名前を唱えて 済公を信じるなら 彼の名前を唱えて 釈迦牟尼仏を 信じるなら 彼の名前を唱えます これを試みてください これらの全ての名前が 役に立たないなら 他の名前を試みて こんにちは大マスター あなたの本の中で 霊修行者のエネルギー 場は確実に変化すると 言いました 私達は仕事のために しばしば 非修行者と 多くの接触があります これは私達の霊的な 進歩に影響しますか それとも人を避ければ より速く進歩しますか いいえ影響しません いいえ しません

私達観音法門修行者は 保護磁場があり 保護パワーがあるので 何に接触しても 私達は 汚染されないでしょう 時々 私達が不注意で 我が身をかばうのを 忘れるので ほんの 少し汚染されますが マスターは私達を 保護するでしょう マスターパワー スプリームマスター パワーがいつも傍に あるので 私達は何も 失わないでしょう でないと在家者は どう修行できますか 私達が皆 世界からの 繋がりを断ち切るなら 私達の大統領をここに 放っておいて 何をすべきですか

私達は私達の国と 家庭の世話を せなばなりません 仏陀の道は 世俗の道からは 逸れません ある人はカルマ (報い)がより軽いので 彼らはこの世界に 縛られません たぶん 彼の両親は 亡くなって 親類や友人もなく 彼は結婚してなく 結婚したがらないので 彼は出家した修行者に なりたがっています 絶えず 人々を助ける ことができるように 彼の身体 言葉 心を衆生のために 捧げたがっています それでこの人は出家の 修行者になれるのです しかし 私達には 異なった運命があり 私達の運命がこの世で 働くことであり仕事が 責任であるので私達は 皆この世を去れません そうしたら誰が道路と 家を建てるのですか 誰が料理し 植物を 栽培するのですか これは道ではない それでここに住み続け 仏陀になるのは 問題ありません

市場の仏陀に なるのが良いのです 市場の仏陀  強力な仏陀に なってください 尊敬する スプリーム  マスターあなたを 信じて心から あなたにしばしば 祈る人と 観音法門を 修行する人の違いは 何でしょうか ちょうど説明しました 一方は大きな乗り物で もう一方は 小さな乗り物です

霊修行すれば多くの 人々が利益を得ます あなたがどこに 行っても 周りの 人々は利益を得ます あなたの 五、六、七、八または 百代の先祖は 超生するでしょう 一言を発すれば 多くの人々と物が あなたが言えるより 多くの利益を得ます あなたの全ての親類と 友人が利益を得ます しかし私達はただ 一人の仏陀か生きた マスターの名前を 唱えれば 自分だけが 利益を得ます 尊敬する スプリーム マスターチンハイ 菜食レストランを 台中で経営しています

時々 客の残り物があったり 全ての食物を 販売しきれません 腐敗した野菜も それで私は 食べ残しを集めて 豚に餌をやる人に あげています それは悪いカルマ (報い)を被りますか もしそうなら 私はどうすべきですか いいえ 大丈夫です 大切なマスター 印心後 私達は化身マスターに 保護されます でもあなたが私より 早く亡くなったら 私はどうすべきですか あなたの保護がなくて 私はどのように 霊修行をするのですか 非常に危険でしょうか そのマスターは あなたを化身で 保護し続けるでしょう 肉体ではなく 化身は 永遠に存在します 肉体だけが 生きて 死ぬのです しかしまた 肉体がいつまでも 残ることも可能です それはマスターの 望みによります そのマスターが この世に六十年しか 生きないと望めば その時を迎えたら 肉体は変化します マスターがこの肉体を 使い続けたいなら 引き続き使えます

さもなければ 他の肉体に代わり 戻って来るというのも できます 問題ありません 敬愛する スプリーム マスター チンハイ 私は勇気がなく 無意味なことを考える 傾向があります このため 私には霊修行が 難しいのです マスター私はどう 自分をもっと勇敢に 鍛えたらいいですか 霊修行を 助けるためにです 印心に行って下さい 共修会にも まめに参加して下さい そうするともっと強く 勇敢になるでしょう 時々 一人での修行は 開悟したマスター なしで あるいは 賢い友人なしで 修行仲間のことですが 修行は容易でないです

マスターのテープを 一つ聴いた後 これ以上肉食をしよう とは思いませんでした そうなの 素晴らしい 肉食を止めているのは 素晴らしいです そもそもあなたは 慈善家です 既にしっていますね 私の手柄ではないです ただ思い出させ あなたは理解しました ちょっと忘れただけ 感謝は必要ありません あなたの仏性は 既に理解しています

幻覚に苦しむ人がいて 誰かが自分に危害を 加えると思っています 彼がそういう苦痛から 逃れ 精神の問題から 回復するのをどう 助けたらよいでしょう

仏陀の名を唱えること 神に祈ること スプリームマスター チンハイの助けを 祈るよう教えて下さい 彼が信じる誰からでも 助けを求めるようにと 彼にチンハイはこう 言ったと伝えて下さい 「誰もあなたに危害を 加えようとしていない すべて大丈夫です」 彼は安心するでしょう

敬愛する  スプリームマスター 時々私は試験を受けて 勉強する目的は何かと 本当に思うのです また どれほど習得 したか疑問に思います 私は勉強が よく出来ないので 心配になります 大学へ行くために 勉強しているのですが 私を窒息させるこの 重いプレッシャーを どう減少出来ますか 人間として私達は皆 二つの義務があります この世界への義務と 霊修行への 義務です もちろん優先順位は 霊修行です しかし私達はこの世で 既に生きていますので 現世から多くの好意を 受けています

私達は世界に義務を 果たすために最善を 尽くさねばなりません そうでなければもっと プレッシャーを感じ 後でもっと後悔します ですから勉強する時は 勉強に最善を尽します 当然のこととして 最善を尽くします 私達が良い成績で 卒業できるか否かは 常に決められる訳では ありません 私達は ただ最善を尽くします そうすれば良心は 自分を非難しません 後に霊修行を する時や 何か 他のことをするときは 多くのプレッシャーを 感じなくなるでしょう 義務を果たさないなら 後により多くの負荷を 感じるでしょう

まだそれをすべきで 学んで卒業しなければ なりません その後 霊修行をするときや 勉強や修行を同時に するときは負荷が より少なくなります 私達の智慧が開くと 速やかに学べ 負荷を 感じることなく容易に 学べるようになります 親愛なるマスター なぜあなたの頭上の 光は 周りの光と 異なるのですか 同じであるべきです 私も知りません あなたがそれを見て でも私に聞き続けます あなたは物事を見ます でも私に理由を聞く 私達の頭は 手足とは違います 頭は頭です 

 
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